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[[北海道]][[小樽市]]生まれ。[[北海道小樽潮陵高等学校|小樽中学]]、[[北海道帝国大学]](現・[[北海道大学]])医学専門部を卒業後、医師となり、[[寿都町]]で開業する。
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[[薄田美朝]]([[警視総監]]→衆議院議員)に見出され、[[佐藤栄作]]の秘書兼医師となる。[[松川嘉太郎]]([[北海道中央バス]]第2代社長)、[[唯是日出彦]](ジャーナリスト、漫画家。[[北海道中央バス]]顧問)らと親交を深め、[[1960年]]の総選挙に無所属で挑戦するが、当時の旧・北海道1区([[札幌市]]、[[小樽市]]など)には[[椎熊三郎]]、[[寿原正一]]、[[高田富与]](元・札幌市長)ら自民党現職がおり、落選。[[1967年]]、初当選を果たし、佐藤派に属す。
[[薄田美朝]]([[警視総監]]→衆議院議員)に見出され、[[佐藤栄作]]の秘書兼医師となる。[[松川嘉太郎]]([[北海道中央バス]]第2代社長)、[[唯是日出彦]](ジャーナリスト、漫画家。[[北海道中央バス]]顧問)らと親交を深め、[[1960年]]の総選挙に無所属で挑戦するが、当時の旧・北海道1区([[札幌市]]、[[小樽市]]など)には[[椎熊三郎]]、[[寿原正一]]、[[高田富與|高田富与]](元・札幌市長)ら自民党現職がおり、落選。[[1967年]]、初当選を果たし、佐藤派に属す。


[[1972年]]の佐藤派分裂後は、田中派に所属。防衛政務次官、郵政大臣(鈴木内閣)、党副幹事長、衆議院安全保障委員会委員長などを歴任。北海道新幹線の計画推進にも熱意を傾けた。[[金丸信]](自民党副総裁)が主宰した「日本戦略研究センター」の理事長も務めた。しかし、創政会結成時に当初はメンバーに名前を連ねていたが、切り崩しに会うとマスコミに金丸の名前を出して入会を止め、出入り禁止となった。
[[1972年]]の佐藤派分裂後は、田中派に所属。防衛政務次官、郵政大臣(鈴木内閣)、党副幹事長、衆議院安全保障委員会委員長などを歴任。北海道新幹線の計画推進にも熱意を傾けた。[[金丸信]](自民党副総裁)が主宰した「日本戦略研究センター」の理事長も務めた。しかし、創政会結成時に当初はメンバーに名前を連ねていたが、切り崩しに会うとマスコミに金丸の名前を出して入会を止め、出入り禁止となった。

2007年12月9日 (日) 13:43時点における版

箕輪 登(みのわ のぼる、1924年3月5日 - 2006年5月14日)は、日本政治家鈴木善幸内閣改造内閣郵政大臣衆議院議員を8期務めた。

北海道小樽市生まれ。小樽中学北海道帝国大学(現・北海道大学)医学専門部を卒業後、医師となり、寿都町で開業する。

薄田美朝警視総監→衆議院議員)に見出され、佐藤栄作の秘書兼医師となる。松川嘉太郎北海道中央バス第2代社長)、唯是日出彦(ジャーナリスト、漫画家。北海道中央バス顧問)らと親交を深め、1960年の総選挙に無所属で挑戦するが、当時の旧・北海道1区(札幌市小樽市など)には椎熊三郎寿原正一高田富与(元・札幌市長)ら自民党現職がおり、落選。1967年、初当選を果たし、佐藤派に属す。

1972年の佐藤派分裂後は、田中派に所属。防衛政務次官、郵政大臣(鈴木内閣)、党副幹事長、衆議院安全保障委員会委員長などを歴任。北海道新幹線の計画推進にも熱意を傾けた。金丸信(自民党副総裁)が主宰した「日本戦略研究センター」の理事長も務めた。しかし、創政会結成時に当初はメンバーに名前を連ねていたが、切り崩しに会うとマスコミに金丸の名前を出して入会を止め、出入り禁止となった。

脳梗塞を患い、1990年に政界引退。リハビリで言語障害を克服する。その後は、地元の小樽で私立病院の顧問を務めた。

2004年には、イラク派兵反対運動で注目を浴びる。小泉純一郎総理大臣を憲法違反として札幌地裁に提訴。訴訟への賛同者を募るため、精力的に全国各地へ赴き、講演・執筆活動を行なっていた。イラク日本人人質事件では、犯人グループに対し「私が身代わりになってもよい、3人を解放せよ」と呼びかける声明を出した。

2006年5月14日、肺炎のため札幌市内の病院で死去。享年82。

先代
山内一郎
郵政大臣
1981 - 1982
次代
檜垣徳太郎