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'''長谷信篤'''(ながたに のぶあつ 1818年-1902年)は、日本の官僚、政治家。[[京都府知事]](初代)、[[元老院議官]]、[[貴族院議員]]などの要職を歴任した。[[安政勤王八十八廷臣]]の一人でもある。
'''長谷 信篤'''(ながたに のぶあつ1818年-1902年)は、日本の[[公家]]・政治家。[[京都府知事]](初代)、[[元老院議官]]、[[貴族院議員]]などの要職を歴任した。[[安政勤王八十八廷臣]]の一人でもある。




== 経歴 ==
== 経歴 ==
[[王政復の大号令]]に伴い、[[東久世通禧]]や[[岩倉具視]]らとともに[[新政府]][[三職]]のひとつである[[議定]]に就任。その後、京都府知事に就任。1875年、京都府知事を退任する。京都府知事を退任後も政治の中枢で活躍し、貴族院議員などとして権勢を振るった。当時としては非常に長命で、85歳まで生きた。
[[王政復の大号令]]に伴い、[[東久世通禧]]や[[岩倉具視]]らとともに[[明治政府|新政府]][[三職]]のひとつである[[議定]]に就任。その後、京都府知事に就任。1875年、京都府知事を退任する。京都府知事を退任後も政治の中枢で活躍し、貴族院議員などとして権勢を振るった。当時としては非常に長命で、85歳まで生きた。


ほかに、[[参与]]、[[参議]]、[[刑法事務総督]](現在の[[法務大臣]]に相当)などの要職を歴任した。
ほかに、[[参与]]、[[参議]]、[[刑法事務総督]](現在の[[法務大臣]]に相当)などの要職を歴任した。
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2007年12月27日 (木) 03:53時点における版

長谷 信篤(ながたに のぶあつ、1818年-1902年)は、日本の公家・政治家。京都府知事(初代)、元老院議官貴族院議員などの要職を歴任した。安政勤王八十八廷臣の一人でもある。


経歴

王政復古の大号令に伴い、東久世通禧岩倉具視らとともに新政府三職のひとつである議定に就任。その後、京都府知事に就任。1875年、京都府知事を退任する。京都府知事を退任後も政治の中枢で活躍し、貴族院議員などとして権勢を振るった。当時としては非常に長命で、85歳まで生きた。

ほかに、参与参議刑法事務総督(現在の法務大臣に相当)などの要職を歴任した。

長谷信行猪熊慶礼は祖父。長谷信好は父。坊城俊政は義父。長谷信成は子。