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[[明治時代]]に存在した[[国権主義]]団体(一般的には[[政党]]と見なされるが、厳密には異なる)。政治組織として'''国民政社'''(こくみんせいしゃ)があり、[[衆議院]]の[[院内会派]]としては他の吏党系議員とともに'''議院倶楽部'''(ぎいんくらぶ)と名乗った([[1892年]][[6月22日]]-[[1899年]][[7月4日]])。
[[明治時代]]に存在した[[国権主義]]団体(一般的には[[政党]]と見なされるが、厳密には異なる)。政治組織として'''国民政社'''(こくみんせいしゃ)があり、[[衆議院]]の[[院内会派]]としては他の吏党系議員とともに'''議院倶楽部'''(ぎいんくらぶ)と名乗った([[1892年]][[6月22日]]-[[1899年]][[7月4日]])。


[[1892年]]、[[西郷従道]]を会頭、[[品川弥二郎]]を副会頭として設立された。幹事として[[渡辺洪基]]・[[牧朴真]]・[[白井遠平]]が選出され(後に[[安場保和]]が[[幹事長]]に就任)、他に[[中央交渉部]]の[[佐々友房]]、[[佐藤昌蔵]]、[[津田真道]]、[[大岡育造]]、[[古荘嘉門]]、[[曾禰荒助]]などが参加した(なお、当初国民政社は別働隊として位置づけられており、国民協会とは別個に佐藤・古荘・曾禰が幹事に選ばれた)。既存の[[吏党]]系に加えて[[第2回衆議院議員総選挙]]で当時の[[第1次松方内閣]]([[内務大臣]]が品川)の支援を受けて当選した議員が多い。政府の[[富国強兵]]路線を熱心に支持したが、[[条約改正]]や財政規律の確立を求めて政府に厳しい注文を付ける事もあり、[[第2次伊藤内閣]]では国権主義を掲げて政府が進める[[日英通商航海条約]]の調印に反対して[[硬六派]]の一翼を担い、事実上の野党であった。だが、政府の策動で西郷・曾根の引き抜き・離脱にあって打撃を受け、[[1894年]]の[[第3回衆議院議員総選挙]]では吏党中最多の35人が当選したが議席自体は大きく減らした。[[1899年]]に解散し、新たに[[帝国党]]が結成された。
[[1892年]]、[[西郷従道]]を会頭、[[品川弥二郎]]を副会頭として設立された。幹事として[[渡辺洪基]]・[[牧朴真]]・[[白井遠平]]が選出され(後に[[安場保和]]が[[幹事長]]に就任)、他に[[中央交渉部]]の[[佐々友房]]、[[佐藤昌蔵]]、[[津田真道]]、[[大岡育造]]、[[古荘嘉門]]、[[曾禰荒助]]などが参加した(なお、当初国民政社は別働隊として位置づけられており、国民協会とは別個に佐藤・古荘・曾禰が幹事に選ばれた)。既存の[[吏党]]系に加えて[[第2回衆議院議員総選挙]]で当時の[[第1次松方内閣]]([[内務大臣]]が品川)の支援を受けて当選した議員が多い。政府の[[富国強兵]]路線を熱心に支持したが、[[条約改正]]や財政規律の確立を求めて政府に厳しい注文を付ける事もあり、[[第2次伊藤内閣]]では国権主義を掲げて政府が進める[[日英通商航海条約]]の調印に反対して[[硬六派]]の一翼を担い、事実上の野党であった。だが、政府の策動で西郷・曾根の引き抜き・離脱にあって打撃を受け、更に[[1893年]][[12月30日]]には国民協会そのものが[[政事結社]]として認定された。[[1894年]]の[[第3回衆議院議員総選挙]]では吏党中最多の35人が当選したが議席自体は大きく減らした。[[1899年]]に解散し、新たに[[帝国党]]が結成された。


==国民協会 (1933-1937)==
==国民協会 (1933-1937)==

2008年1月9日 (水) 10:06時点における版

国民協会こくみんきょうかい)は、日本に存在した政党、政治団体。現在、「国民協会」の名を持つ政党は日本には存在しない(政治団体としては存在する)。

国民協会 (1892-1899)

明治時代に存在した国権主義団体(一般的には政党と見なされるが、厳密には異なる)。政治組織として国民政社(こくみんせいしゃ)があり、衆議院院内会派としては他の吏党系議員とともに議院倶楽部(ぎいんくらぶ)と名乗った(1892年6月22日1899年7月4日)。

1892年西郷従道を会頭、品川弥二郎を副会頭として設立された。幹事として渡辺洪基牧朴真白井遠平が選出され(後に安場保和幹事長に就任)、他に中央交渉部佐々友房佐藤昌蔵津田真道大岡育造古荘嘉門曾禰荒助などが参加した(なお、当初国民政社は別働隊として位置づけられており、国民協会とは別個に佐藤・古荘・曾禰が幹事に選ばれた)。既存の吏党系に加えて第2回衆議院議員総選挙で当時の第1次松方内閣内務大臣が品川)の支援を受けて当選した議員が多い。政府の富国強兵路線を熱心に支持したが、条約改正や財政規律の確立を求めて政府に厳しい注文を付ける事もあり、第2次伊藤内閣では国権主義を掲げて政府が進める日英通商航海条約の調印に反対して硬六派の一翼を担い、事実上の野党であった。だが、政府の策動で西郷・曾根の引き抜き・離脱にあって打撃を受け、更に1893年12月30日には国民協会そのものが政事結社として認定された。1894年第3回衆議院議員総選挙では吏党中最多の35人が当選したが議席自体は大きく減らした。1899年に解散し、新たに帝国党が結成された。

国民協会 (1933-1937)

赤松克麿が戦前に設立した、日本主義の政治団体。日本国家社会党逓友倶楽部から除名された赤松が同じく大日本生産党を除名された津久井龍雄倉田百三とともに結成した。天皇機関説排撃・選挙粛正運動を支持した。1937年日本革新党の結成に合流して解散した。

国民協会 (1961-1975)

1961年に設立された、自由民主党宛の政治献金を取り纏める財団法人1975年国民政治協会と改称した。

関連項目