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[[1959年]]、日本放送協会(NHK)専務理事、[[1964年]]同副会長を経て[[1973年]]、田中に抜擢され第11代NHK会長に就任。
[[1959年]]、日本放送協会(NHK)専務理事、[[1964年]]同副会長を経て[[1973年]]、田中に抜擢され第11代NHK会長に就任。


会長在任中の[[1976年]]8月、田中が[[ロッキード事件]]で逮捕される。小野は[[保釈]]中だった田中を見舞うとこれが大きな問題となった。NHKに抗議が殺到し[[NHK受信料|受信料]]支払い拒否者が急増、[[日本放送労働組合]]の運動などで小野は同年9月引責辞任に追い込まれた。NHK初の大きな[[スキャンダル]]であった。NHKの会長はこれ以降、[[池田芳蔵]]、[[福地茂雄]]以外は内部昇格となっている。
会長在任中の[[1976年]]8月、田中が[[ロッキード事件]]で逮捕される。小野は[[保釈]]中だった田中を見舞うとこれが大きな問題となった。NHKに抗議が殺到し[[NHK受信料|受信料]]支払い拒否者が急増、[[日本放送労働組合]](通称・日放労)の運動などで小野は同年9月引責辞任に追い込まれた。NHK初の大きな[[スキャンダル]]であった。NHKの会長はこれ以降、[[池田芳蔵]]、[[福地茂雄]]以外は内部昇格となっている。


また当時『[[ニュースセンター9時]]』の[[キャスター]]だった[[磯村尚徳]]が小野辞任の日にNHKがこの事件を積極的に報じなかったことを独断で[[視聴者]]に謝罪、新しいキャスター像を作り上げたと言われている<ref>『[[朝日新聞]]』2007年8月22日。</ref>。
また当時『[[ニュースセンター9時]]』の[[キャスター]]だった[[磯村尚徳]]が小野辞任の日にNHKがこの事件を積極的に報じなかったことを独断で[[視聴者]]に謝罪、新しいキャスター像を作り上げたと言われている<ref>『[[朝日新聞]]』2007年8月22日。</ref>。
== 逸話 ==
*NHK会長人事で最も激しく揺れ動いたのは、[[前田義徳]]までの「新聞社制圧時代」が終わりこの小野以降の「政治家介入時代」といわれている。今でも語り草になっているのは "田中首相握手騒動" である。1972年、就任したばかりの田中首相がテレビ出演のためNHKを訪れた。当時、前田会長以下、首脳陣が出迎えたが、田中は前田会長の差し出した手には見向きもせず、まずは小野副会長と握手した。前田は四期目に意欲的だったが、田中は前田を嫌っていた。周囲の人々は件の握手騒動で前田会長の次はないと、とっさに悟ったという。前田は[[佐藤栄作]]が[[NHK解説委員室|解説委員]]としてNHKに入れた人物で、当時、[[日本放送労働組合|日放労]]の[[上田哲]]委員長にも近かった。日放労は会長人事に横やりを入れるほど、NHK局内で幅をきかせていた。田中は[[組合]]管理になるのを憂慮し、政治力で前田の四選を阻止し、周囲の予想通り小野が会長に昇格した。当時、後任会長として、田中香苗・[[毎日新聞]]最高顧問、[[今日出海]]・前[[文化庁長官]]、[[藤井丙午]]・[[新日鉄]]副社長ら有力候補の自薦他薦があったが、田中の鶴の一声で会長人事は決まった。政治家によるNHK侵食は、ここから以前に増して際立ってきたといわれる。なお小野が辞める原因となった田中の見舞いは、アンチ田中派の代議士が垂れ込んだと噂になった<ref>『月刊[[ボス (雑誌)|BOSS]]』2008年3月号 p52-55</ref>。


==脚注==
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== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
*『新日本人物大観』(広島県版) 人事調査通信社、1959年。
*『新日本人物大観』(広島県版) 人事調査通信社、1959年。
*『月刊[[ボス (雑誌)|BOSS]]』経営塾 2008年3月号 


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2008年2月7日 (木) 03:32時点における版

小野 吉郎(おの きちろう、1902年1月2日 - )は、昭和期逓信官僚。元郵政事務次官日本放送協会(NHK)第11代会長。広島県広島市出身。

来歴・人物

官僚時代

広島商業学校大阪高等商業学校を経て1931年九州帝国大学法学部卒。逓信省に入省し札幌鉄道郵便局長、広島逓信局経理局長、中華民国臨時政府副郵務長(華北郵政総務計画課長)、大連関東逓信局長などを経て1951年郵政省貯金局長、1955年簡易保険局長などを歴任の後、1956年郵政事務次官就任。

30代で大臣(郵政大臣)に初就任した田中角栄が進める放送局免許大量交付や新聞社テレビ局との統合系列化他で大きな役割を果たした。

NHK時代

1959年、日本放送協会(NHK)専務理事、1964年同副会長を経て1973年、田中に抜擢され第11代NHK会長に就任。

会長在任中の1976年8月、田中がロッキード事件で逮捕される。小野は保釈中だった田中を見舞うとこれが大きな問題となった。NHKに抗議が殺到し受信料支払い拒否者が急増、日本放送労働組合(通称・日放労)の運動などで小野は同年9月引責辞任に追い込まれた。NHK初の大きなスキャンダルであった。NHKの会長はこれ以降、池田芳蔵福地茂雄以外は内部昇格となっている。

また当時『ニュースセンター9時』のキャスターだった磯村尚徳が小野辞任の日にNHKがこの事件を積極的に報じなかったことを独断で視聴者に謝罪、新しいキャスター像を作り上げたと言われている[1]

逸話

  • NHK会長人事で最も激しく揺れ動いたのは、前田義徳までの「新聞社制圧時代」が終わりこの小野以降の「政治家介入時代」といわれている。今でも語り草になっているのは "田中首相握手騒動" である。1972年、就任したばかりの田中首相がテレビ出演のためNHKを訪れた。当時、前田会長以下、首脳陣が出迎えたが、田中は前田会長の差し出した手には見向きもせず、まずは小野副会長と握手した。前田は四期目に意欲的だったが、田中は前田を嫌っていた。周囲の人々は件の握手騒動で前田会長の次はないと、とっさに悟ったという。前田は佐藤栄作解説委員としてNHKに入れた人物で、当時、日放労上田哲委員長にも近かった。日放労は会長人事に横やりを入れるほど、NHK局内で幅をきかせていた。田中は組合管理になるのを憂慮し、政治力で前田の四選を阻止し、周囲の予想通り小野が会長に昇格した。当時、後任会長として、田中香苗・毎日新聞最高顧問、今日出海・前文化庁長官藤井丙午新日鉄副社長ら有力候補の自薦他薦があったが、田中の鶴の一声で会長人事は決まった。政治家によるNHK侵食は、ここから以前に増して際立ってきたといわれる。なお小野が辞める原因となった田中の見舞いは、アンチ田中派の代議士が垂れ込んだと噂になった[2]

脚注

  1. ^ 朝日新聞』2007年8月22日。
  2. ^ 『月刊BOSS』2008年3月号 p52-55

参考文献

  • 『新日本人物大観』(広島県版) 人事調査通信社、1959年。
  • 『月刊BOSS』経営塾 2008年3月号 
先代
前田義徳
日本放送協会会長
第11代:1973 - 1976
次代
坂本朝一