コンテンツにスキップ

「ロバート・ケネディ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
Bankokuya (会話 | 投稿記録)
Link修正・過剰Link削除
Sugawa (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
6行目: 6行目:
==プロフィール==
==プロフィール==
===上院法律顧問時代===
===上院法律顧問時代===
その後[[ジョセフ・マッカーシー]]上院議員によって運営され、赤狩りの拠点となった悪名高い、上院政府活動委員会常設調査小委員会(PSI)の下級法律顧問に就任。続いて、上院労働福祉委員会に設置された、労働搾取問題を調査する小委員会(マクレラン委員会)の法律顧問となった。1956年以降、彼は[[チームスター]]幹部であった[[ジミー・ホッファ]]を公聴会で追求することでその名を知られるようなった。ロバートは兄の大統領選出馬を支援するため1959年にマクレラン委員会を辞任した。
その後[[ジョセフ・マッカーシー]]上院議員によって運営され、赤狩りの拠点となった悪名高い、上院政府活動委員会常設調査小委員会(PSI)の下級法律顧問に就任。続いて、上院労働福祉委員会に設置された、労働搾取問題を調査する小委員会(マクレラン委員会)の法律顧問となった。1956年以降、彼は[[チームスター]]幹部であった[[ジミー・ホッファ]]を公聴会で追求することでその名を知られ、後この事件を彼自身の視点から描い『内部の敵』を上梓する。ロバートは兄の大統領選出馬を支援するため1959年にマクレラン委員会を辞任した。


== ケネディ政権 ==
== ケネディ政権 ==

2008年2月8日 (金) 01:26時点における版

ファイル:Robertkennedy.jpg
ロバート・ケネディ

ロバート・フランシス「ボビー」ケネディRobert Francis "Bobby" Kennedy, RFK, 1925年11月20日 - 1968年6月6日)は、第35代アメリカ合衆国大統領ジョン・F・ケネディの実弟で、兄の任命により同政権の司法長官(1961年-1964年)を務めた。

1963年にケネディ大統領が暗殺された後、ニューヨーク州の上院議員選に出馬して11月に勝利したが、1968年に、民主党の大統領候補指名選のキャンペーン中に暗殺された。兄のジョン・F・ケネディと共に『ジャック&ボビー』の愛称で親しまれた。

プロフィール

上院法律顧問時代

その後ジョセフ・マッカーシー上院議員によって運営され、赤狩りの拠点となった悪名高い、上院政府活動委員会常設調査小委員会(PSI)の下級法律顧問に就任。続いて、上院労働福祉委員会に設置された、労働搾取問題を調査する小委員会(マクレラン委員会)の法律顧問となった。1956年以降、彼はチームスター幹部であったジミー・ホッファを公聴会で追求することでその名を知られ、後にこの事件を彼自身の視点から描いた『内部の敵』を上梓する。ロバートは兄の大統領選出馬を支援するため1959年にマクレラン委員会を辞任した。

ケネディ政権

司法長官

ファイル:ARC194238-JFK-Robert-Edward.gif
ホワイトハウスに立つロバート(左)、エドワード(中)、ジョン(右)

ケネディ大統領はロバートを司法長官に指名し、彼の努力に報いた。ケネディ政権中、ロバートは諮問に答える重要な役割を果たし、組織犯罪の撲滅に尽力、また大労働組合などでの不正を徹底的に追求した。兄弟が直面した重要問題の中には、1961年のキューバでのピッグズ湾事件、その18ヶ月後に発生したキューバ危機ベトナム戦争における軍事行動の段階的拡大、公民権運動の拡大と報復的暴力が挙げられる。FBIマーティン・ルーサー・キングを盗聴する許可を司法長官に要求したことは確実であるが、ロバートがジョン・エドガー・フーヴァーに対してその許可を与えたかは定かでない。

ロバート・ケネディはアメリカの法執行者で最高の地位についてから、FBI長官ジョン・エドガー・フーヴァーが直接大統領に接近する権利を剥奪し自分に報告させたという。このことは、ワンマン的なフーヴァーを激怒させた。ケネディ大統領顧問を務めたセオドア・ソレンセンはその著書Kennedyにおいて、フーヴァーがロバート・ケネディを嫌った理由は、ロバートが司法長官としての権限を行使し大統領とフーヴァーとの間に立ちはだかった初めての人物だったからだ、と述べている。

任期中に発生したピッグス湾事件およびキューバ危機は、アメリカのみならず世界の情勢を左右しかねない重大な危機であったが、兄と共に対処して最悪の事態の回避に尽力した。

組織犯罪の撲滅

司法長官として真っ先に取り組んだ仕事は、父親や兄ジョンと関係の深いマフィアをはじめとする組織犯罪の撲滅であった。マフィアをアメリカの内なる敵と見ていた。そのために司法省内に組織犯罪対策の特別班を結成し、徹底的な取締りを行った。まず1961年4月4日に、当時全米闇社会でナンバーワンの実力を誇っていたと見られるカルロス・マルセロを強制逮捕し、国外追放とした。また、マフィアとの癒着を疑われていたチームスター組合のジミー・ホッファを背任横領罪の罪で起訴した。このとき陪審員の意見が分かれてホッファは放免となったが、この裏にホッファによる猛烈な陪審員買収工作や脅迫があったことを突き止め、陪審員工作の罪で再び起訴し、ホッファを刑務所送りにすることに成功した。

この頃、父親のジョセフが主席法律顧問の職を降りる様に忠告するが、耳をかさず精力的に活動し、結果数多くの敵を作った。ジョセフが忠告した理由は、禁酒法時代に築いた自分とマフィアの酒の密売をめぐる親密な関係だった。ジョセフにとってそのことは弱みでもあったからだ。さらに、マフィアはケネディの選挙の恩人であり、CIAカストロ暗殺計画の協力者でもあった。ロバート自身がカストロ暗殺計画を知っていたかどうかについては意見が分かれる。

また、ジョンの選挙の際に選挙不正を手伝ってくれたシカゴのドンであるサム・ジアンカーナと近いフランク・シナトラをケネディ政権から遠ざけた。ジアンカーナはシナトラやジュディス・キャンベル・エグズナーらを使って、選挙不正への関与をネタにケネディ政権と取引しようとしたが、ロバートは選挙不正が表ざたになることを恐れてジアンカーナへの締め付けを一層強め、1963年6月には完全張り込みの対象としていた。その後、司法省・商務省・国税庁を総動員して組織犯罪の本拠地ラスベガスを直撃する構想を1963年10月には完成させていたが、ケネディ大統領暗殺事件により中止となった。

ロバートが国外追放にしたマルセロは1962年極秘裏にアメリカに戻り、司法省の強引な手法を違法であるとして裁判をこし、勝訴した。FBIの報告によれば、1962年9月にマルセロは自身の本拠地であるニューオーリンズに全米のマフィアを集めてケネディ政権の組織犯罪潰しを罵り、彼らの暗殺を示唆している。また、ロバートの手により刑務所送りとなったジミー・ホッファは1971年に大統領特赦により釈放された。

人種問題への対処

ロバート・ケネディは当時アメリカで大きな問題となりつつあった人種問題にも積極的に関与した。1950年代から1960年代にかけては公民権運動が最高潮に達していたが、それに対抗する勢力も拡大しつつあった。そのひとつにリンカーン・ロックウェルの率いるアメリカ・ナチ党があった。ロバートはロックウェルを陰謀罪で逮捕・起訴したが有罪判決には至らず失敗した。

1962年9月、黒人学生ジェームズ・メレディスがミシシッピ州立大学に人種を理由に入学拒否される、いわゆるメレディス事件が起きたとき、ロバートはミシシッピ州知事ロス・バーネットや大学当局者の説得に当たった。また、1963年アラバマ州立大学への二人の黒人学生の入学をめぐる問題では、アラバマ州知事ジョージ・ウォレスに対し、二人の入学を妨害しないよう電話で説得した。このときのやり取りはテレビでも放送されたが、あくまでも黒人学生の入学を阻止しようとするウォレスに対し、「それでもあなたはアメリカの市民か!」と怒鳴りつけた。

ジョンソン政権

司法長官留任

1963年のケネディ大統領暗殺事件後、ロバートとジョンソン大統領との関係は良好なものとは言えなかったが、ロバートは司法長官に留任したままであった。なお、ロバート・ケネディは兄の暗殺を知ったとき、「やられるのは私だと思っていた」と報道担当秘書のエドウィン・グズマンに語った。

辞任

ケネディ大統領暗殺後、ロバートはジョンソン大統領の元で副大統領に就任するという考えを持っていた。しかしながら、ジョンソンから閣僚は副大統領に立候補できないと伝えられ、ロバートはニューヨーク州の上院議員選に出馬するため内閣を辞任した。

上院議員

ホワイトハウスにて(1964年)

ロバートはジョンソンにとって強敵であったが、ジョンソンは彼が回想録からホワイトハウスでの出来事を削除したことで彼の選挙戦に協力した。その結果、ロバートは共和党現職のケネス・キーティングを破って、1964年11月に上院議員に選出された。キーティングはロバートを横柄な「渡り政治屋」として評した。しかしながら激しい選挙戦の後、ロバートはジョンソンとの繋がりをアピールすることで選挙に勝利した。

彼は貧困の撲滅、黒人問題、人種問題に取り組み、貧困層やアフリカ系アメリカ人などからの支持を得る。上院議員としての3年半の間に、ケネディはアパルトヘイト政策下の南アフリカを訪れ、またニューヨークの極貧地区、ベッドフォード=ストイヴェサントの成功した再開発事業を支援したり、貧困対策プログラムの成果を調査するために上院委員会のメンバーとしてミシシッピ・デルタを訪れた。

そしてケネディ政権下で南ベトナムへの「軍事顧問団」の大幅増員を推し進めた姿勢とは一転して、ベトナム戦争の段階的拡大の停止を主張した。その他ハドソン川の浄化、喫煙の害毒など、環境問題にも積極的に取り組んだ。

大統領選への出馬と暗殺

出馬

ケネディは、当初現職のジョンソン大統領に対して1968年の大統領選で民主党の指名を狙うつもりだったという推測を否定した。彼は指名選での勝利の可能性を疑ったと共に、大統領選への出馬はジョンソンとの個人的不仲がもたらしたものと見なされることを心配した。ジョンソンが1968年3月12日のニューハンプシャー州予備選挙でミネソタ州の上院議員ユージーン・マッカーシーに対して僅差で辛勝した結果を受け、ケネディはベトナムからの即時撤退を主張し、3月16日に大統領選への出馬を表明した。二週間後の3月31日、ジョンソンはテレビでの一般教書演説で大統領選で民主党大統領候補としての再指名を求めないことを発表した。

1968年4月4日、マーティン・ルーサー・キングJr.牧師暗殺の日、インディアナ州インディアナポリスの黒人街でケネディは警察の危険警告や側近の中止勧告を制止し、演説を敢行した。彼は即興的で心のこもったスピーチを行い人種間の和解を訴えた。全米で暴動が相次ぎ、数千の負傷者と43名の死者が発生した中、インディアナポリスの街だけは穏やかさを保った。ケネディはキング牧師の葬列にも参加し、より一層差別撤廃の活動を強めてゆく。また、「メキシコ移民のキング牧師」とよばれた、シーザー・チャベスとの深い信頼と友情、移民の待遇改善への尽力も特記すべきである。

暗殺

1968年6月に、最大の州であるカリフォルニアでの予備選に勝利した直後の5日、ロサンゼルスのアンバサダーホテルの調理場で銃撃を受け、右脳を損傷、翌6日早朝死亡した。42歳没。葬儀は6月8日に行われ、遺体を載せた列車の沿線・途中駅には人種老若男女問わず多くの人が集い、野辺送りをして彼の死を惜しんだ。遺体はアーリントン国立墓地で兄の墓のそばに埋葬された。

この事件も兄の暗殺と同じく闇の部分が多い。犯人のサーハン・べシャラ・サーハンは犯行時、何者かによって催眠術を施されていたという説もあり、また、ロサンゼルス警察が2000枚以上の証拠写真等をなぜか早々に焼却廃棄し早々に捜査を切り上げるなど(その後FBIが捜査を受け継いだ)、捜査状況についても不審とされる点が多い。

この時代の政治家の例にもれずロバートにも敵は多く、妥協を許さない追及を受けたジミー・ホッファなどの敵対する大労働組合幹部、家族と関係の深いマフィアKKK等の人種差別主義者、ベトナム戦争で利益を上げていた軍需企業、軍部、CIAなどの関与が噂されているが、それを実証するものはなく真実は藪の中となっている。

死後

その後、シカゴ民主党大会では暴動が発生し、共和党リチャード・ニクソンが、紆余曲折の末民主党代表となったヒューバート・ハンフリーをわずか1%の得票差で破り大統領に就任することとなった。

ワシントンD.C.のD.C.スタジアムは1969年にロバート・F・ケネディ・メモリアル・スタジアムと改名された。 1998年には彼を記念した特別のドル硬貨が発行された。

ロバートが生きていれば76歳の誕生日であった2001年11月20日、ジョージ・W・ブッシュ大統領とジョン・アシュクロフト司法長官は、ロバートの業績を称え司法省本部ビルをロバート・F・ケネディ司法省ビルと命名した。

家庭

ロバートは1950年にエセル・スカケルと結婚した。彼女は11人の子供を産んだ。最後の子供、ロリー・ケネディはロバートの死後に生まれた。

関連項目

外部リンク

  • United States Congress. "ロバート・ケネディ (id: K000114)". Biographical Directory of the United States Congress (英語).
  • Robert F. Kennedy: Remarks on the Assassination of Martin Luther King, Jr.
  • Robert F. Kennedy Memorial
  • American Experience: RFK -- From PBS
  • Reopen the RFK Assassination Case-Sirhan is Not Guilty
  • Robert F. Kennedy Commemorative Silver Dollar Fact Sheet -- From the US Mint
  • The Presidential Promise of Robert F. Kennedy
  • Kennedy Speech on Martin Luther King, Jr.'s Death
先代
ウィリアム・ロジャーズ
アメリカ合衆国司法長官
1961年1月20日 - 1964年9月3日
次代
ニコラス・カッツェンバック