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* [[学習院]]時代には馬術部に所属した。白馬に跨り障害を飛び越える姿が白黒写真に残されている。
* [[学習院]]時代には馬術部に所属した。白馬に跨り障害を飛び越える姿が白黒写真に残されている。
* [[1952年]]立太子の礼をあげ、皇太子に立てられる。立太子に際しては記念切手が発行され、その図案には肖像が選ばれる予定であったが、[[宮内庁]]の反対によって実現しなかった。
* [[1952年]]立太子の礼をあげ、皇太子に立てられる。立太子に際しては記念切手が発行され、その図案には肖像が選ばれる予定であったが、[[宮内庁]]の反対によって実現しなかった。
* [[1953年]][[6月2日]]の[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス2世]]戴冠式のために[[3月30日]]から外遊した結果、単位不足で進級できず[[学習院大学]]政治学科を中退。この為、最終学歴は「学習院大学教育ご終了」(宮内庁のウェブサイトに拠る)としている。もっともその後も聴講生として大学には残った。学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に[[東京都立両国高等学校|両国高校]]から現役進学した後の[[志帥会]]名誉会長[[島村宜伸]]がいる。島村は1956年3月[[学士|政治学士]]となり39年5ヵ月後の1995年8月[[村山内閣改造内閣|村山改造内閣]]で初入閣し今上天皇たる明仁から[[文部科学大臣|文部大臣]]の認証を受けている。ちなみに島村の高校同級生[[柿沢弘治]]も94年4月[[野党]]・[[自由民主党]]離党し自由党党首として政権参加、自身と同じく前年冬に還暦迎えた明仁から[[外務大臣]]の認証を受けた
* [[1953年]][[6月2日]]の[[エリザベス2世 (イギリス女王)|エリザベス2世]]戴冠式のために[[3月30日]]から外遊した結果、単位不足で進級できず[[学習院大学]]政治学科を中退。この為、最終学歴は「学習院大学教育ご終了」(宮内庁のウェブサイトに拠る)としている。もっともその後も聴講生として大学には残った。学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に[[東京都立両国高等学校|両国高校]]から現役進学した後の[[志帥会]]名誉会長[[島村宜伸]]がいる。島村は1956年3月[[学士|政治学士]]となり39年5ヵ月後の1995年8月[[村山内閣改造内閣|村山改造内閣]]で初入閣し今上天皇たる明仁から[[文部科学大臣|文部大臣]]の認証を受けている。ちなみに島村の高校同級生[[柿沢弘治]]も94年4月[[野党]]・[[自由民主党]]離党し自由党党首として政権参加、自身と同じく前年冬に還暦迎えた明仁から[[外務大臣_(日本)|外相]]の認証を受けた
* 上記のエリザベス女王載冠式に伴うヨーロッパ外遊の際には横浜港から太平洋航路の客船[[プレジデント・ウイルソン号]]([[アメリカンプレジデント社]]、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した。同船は[[三島由紀夫]]もこの2年前に乗船したことがあり、日本人とは縁の深い船であった。日本人向け遊具として[[碁盤]]と[[碁石]]も積まれていたほどである。このとき出発前、NHKは600ミリ望遠レンズを使用して、甲板に立つ皇太子の姿をアップで撮影することに成功して視聴者を驚かせた。船上では[[早稲田大学]][[バレーボール]]部の面々と記念撮影をし、アメリカからイギリスへの旅路では報道陣や乗り合わせた中国人の女性と[[麻雀]]や将棋、囲碁、卓球なども楽しんだ。特に麻雀はサザンプトンに着くまで熱中したという。この外遊以降、麻雀は趣味のひとつとなり昭和天皇にも面白さを紹介、弟宮常陸宮正仁親王らとも対局したと言われる。
* 上記のエリザベス女王載冠式に伴うヨーロッパ外遊の際には横浜港から太平洋航路の客船[[プレジデント・ウイルソン号]]([[アメリカンプレジデント社]]、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した。同船は[[三島由紀夫]]もこの2年前に乗船したことがあり、日本人とは縁の深い船であった。日本人向け遊具として[[碁盤]]と[[碁石]]も積まれていたほどである。このとき出発前、NHKは600ミリ望遠レンズを使用して、甲板に立つ皇太子の姿をアップで撮影することに成功して視聴者を驚かせた。船上では[[早稲田大学]][[バレーボール]]部の面々と記念撮影をし、アメリカからイギリスへの旅路では報道陣や乗り合わせた中国人の女性と[[麻雀]]や将棋、囲碁、卓球なども楽しんだ。特に麻雀はサザンプトンに着くまで熱中したという。この外遊以降、麻雀は趣味のひとつとなり昭和天皇にも面白さを紹介、弟宮常陸宮正仁親王らとも対局したと言われる。
* 欧州到着後は[[ドイツ連邦共和国|西ドイツ]]・ニュルブルクリンクサーキットで[[ドイツグランプリ|1953年F1GP第7戦ドイツGP決勝]]を観戦。主催者の提案により表彰式のプレゼンターも務め、優勝した[[ジュゼッペ・ファリーナ]]([[フェラーリ]]所属。戦前からの名選手で、1950年には初代F1チャンピオンを獲得している)を祝福している。日本人で初めてF1GPの表彰台に上がった人物である。平成初期[[1991年]]の[[F1ブーム]]を思うと、奇縁というべき出来事である。この時には、「競馬より面白い」との言葉を残している。
* 欧州到着後は[[ドイツ連邦共和国|西ドイツ]]・ニュルブルクリンクサーキットで[[ドイツグランプリ|1953年F1GP第7戦ドイツGP決勝]]を観戦。主催者の提案により表彰式のプレゼンターも務め、優勝した[[ジュゼッペ・ファリーナ]]([[フェラーリ]]所属。戦前からの名選手で、1950年には初代F1チャンピオンを獲得している)を祝福している。日本人で初めてF1GPの表彰台に上がった人物である。平成初期[[1991年]]の[[F1ブーム]]を思うと、奇縁というべき出来事である。この時には、「競馬より面白い」との言葉を残している。

2008年2月25日 (月) 04:33時点における版

今上天皇
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左:天皇明仁
右:皇后美智子

在位期間
1989年-
元号 平成
時代 平成
先代 昭和天皇
次代 (在位中)

誕生 1933年12月23日
明仁
称号 継宮
父親 昭和天皇
母親 香淳皇后
皇后 皇后美智子
子女 徳仁親王
秋篠宮文仁親王
黒田清子
皇居 皇居
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皇室






明仁あきひと1933年12月23日午前6時39分 - )とは、日本今上天皇(第125代天皇)。大勲位昭和天皇香淳皇后の第一皇子で、称号継宮つぐのみや)。えいの別名)。皇室典範に定める敬称陛下

人物

高齢にも拘わらず、公務、宮中祭祀ともに極めて旺盛に活動しており、天皇としての活動について非常に意欲的かつ勤勉であると伝えられることが多い。

歴代の天皇の中では明治天皇および特に昭和天皇に寄せる気持ちが強いようであるが、皇太子時代には後水尾天皇に言及したこともある。また即位十周年の会見で述べているように、戦中育ちとして先の大戦に寄せる気持には強いものがあり、過去に「6月23日沖縄慰霊の日)、8月6日(広島原爆忌)、8月9日(長崎原爆忌)、8月15日終戦の日)の四つは忘れる事の出来ない日付である」旨の発言もある。かつて琉球を征服した島津家(越前島津家・重富島津家当主・薩摩藩国父島津久光明治維新玉里島津家当主として10万石、華族令において公爵、島津久光公爵家初代当主)の血を引いていることから、沖縄への思いは深く、琉歌を幾つか詠んでいる。琉歌を詠んだ天皇は史上初めてである。

ハゼ分類学的研究者であり、日本魚類学会に属して28編の論文を同学会誌に発表している。2000年には海外誌Geneに第一著者として論文が掲載されている。また1992年にはScience誌に"Early cultivators of science in Japan"という題の寄稿を寄せている。

魚類学における業績は各国で評価されている。

この他にも1998年にはロンドン王立協会(ロイヤル・ソサエティ)からチャールズ2世メダルを受賞、2007年の欧州5か国訪問ではスウェーデンウプサラ大学名誉学員に列せられた。

1970年からチェリスト・清水勝雄に師事してチェロをたしなむほか、テニスをよくする(これは皇后と知り合うきっかけにもなった。いわゆる「テニスコートの恋」である)。このほか馬術、自動車の運転にも秀でている。

誕生

宮城(現:皇居)内の産殿にて誕生。

幼少時代

当時の皇室慣例により、満3歳で両親のもとを離れ、赤坂離宮構内の東宮仮御所で東宮傅育官によって育てられる。 1944年、戦火の拡大により、はじめは栃木県日光市田母澤御用邸に、後に奥日光・湯元の南間ホテルに疎開し、当地で終戦を迎えた。終戦後帰京。皇太子は陸海軍少尉に任官するのが常であり、軍部からも要請があったが、昭和天皇の意向で任官していないため、軍歴はない。 1946年10月から1950年12月まで、昭和天皇の「西洋の思想と習慣を学ぶ」という方針に従い、アメリカ合衆国の著名な児童文学者にしてクエーカー教徒のエリザベス・グレイ・ヴァイニング(ヴァイニング夫人)(en:Elizabeth_Gray_Vining)が家庭教師として就き、その薫陶を受ける。ヴァイニング夫人を介して、ダグラス・マッカーサーとも会っている。彼女がやってきたとき、英語名(ジミーと伝わる)をつけられるのを拒否した。このほか学習院小学校時代、「容貌が蚊取り線香の香炉を想起させたことから」学友たちによってつけられた愛称が書籍に伝わる。

皇太子時代

1952年11月10日、皇居・表北ノ間で立太子の礼と皇太子成年式が行われた。同日、大勲位に叙され菊花大綬章を授けられる。立太子の礼に際しては、都道府県などがこれを祝う言葉を記したアドバルーンを都内上空に浮かべ、立太子を祝った(GHQカメラマンがカラー写真にて撮影)。

1953年3月30日から10月12日までの半年余りにわたり初の外遊。ヨーロッパ12か国および米国・カナダを歴訪。6月2日イギリスエリザベス2世戴冠式へ昭和天皇の名代として参列。このとき身分は皇太子であったが、昭和天皇の名代の格式が加わっていたため、応接する諸国では天皇としての応対を行った。2007年の訪欧前の会見においては、このことを回想して名代の立場の重さを思い、相手国を慮る趣旨の発言を行っている。

1958年11月27日正田美智子との結婚が皇室会議で可決される。

1959年4月10日結婚。明治以降では初の皇族以外(華族出身でもない)での皇太子妃であった為に、結婚に至る過程が報道されたこともあって国民的な「ミッチー・ブーム」が興る。成婚のパレードは盛大に行われ、国民の心からの祝福を受けた。もっとも宮中では反対が強かったようで、「入江相政日記」によると「東宮様のご縁談について平民からとは怪しからん」と香淳皇后秩父宮妃勢津子高松宮妃喜久子の両親王妃とともに昭和天皇に訴えたという内容の記述がある。常盤会会長松平信子ら華族の女性たちの反発も強く、信子に対しては昭和天皇が自ら了解を願ってようやく落ち着いたとも言われる。

1960年2月23日浩宮徳仁親王が出生。同年9月22日から10月7日にかけて皇太子妃美智子を伴ってアメリカ合衆国を16日間訪問旅行した。ホワイトハウスにも招かれており、映像が残っている。

1963年には美智子妃の第二子流産・静養もあり、また子育てには時代の風潮などもあり、皇太子妃美智子共々、苦労が多かった。「浩宮の代で最後になるのか」との発言もあったと言われる。

1965年11月30日礼宮文仁親王が出生。父・昭和天皇同様、タイをはじめとする東南アジア、及び動植物の宝庫であるマダガスカルとの縁が深く、成婚の折にはタイのシリントーン王女が式に参列した。

1969年4月18日には第一皇女紀宮清子内親王が出生。清子内親王は長く内廷皇族として天皇皇后夫妻の傍らにあって良き相談相手であり、美智子皇后は内親王の存在を心の支えにしていたとの趣旨の言(内親王降嫁前の皇后記者会見)が伝わる。内親王は今日に至るまで、殊に平成期に入って以降は天皇皇后及び兄宮たちのよき支えである。次兄・秋篠宮文仁親王も「頼りない自分たちを許してほしい」との趣旨の内親王への言葉を寄せている(書籍「秋篠宮さま」)。

沖縄との関わり

1975年沖縄国際海洋博覧会に際し父帝も皇太子時代に行啓した沖縄を立太子後はじめて行啓。海洋博の写真を収めた書籍「海 その望ましい未来」、海洋博の記録映画『公式長編記録映画 沖縄海洋博』にも開会式・閉会式に参列した皇太子夫妻の姿が収録され現在でも図書館などで目にすることができる。

訪沖中の事件

この訪沖についてはいくつかの事件もあった。 7月17日、皇太子妃美智子を伴いひめゆりの塔に献花のため訪れたところ、その場に潜んでいた過激派二人から火炎瓶を投げつけられる(ひめゆりの塔事件。ヘルメットを被った過激派構成員が火炎瓶を投じる直前の写真が読売新聞に掲載され、ニュースフィルムに火炎瓶を投げつけられ避難する夫妻および関係者の映像が残っている)。同日夜、皇太子は沖縄戦と県民の心情を思う異例の談話を発表している。

なお、この訪問については同事件の犯人の所属するものほかの極左団体が「訪沖阻止」などを叫んで全国で集会、デモなどを行ったほか、沖縄入りした当時の明仁親王夫妻のお召し自動車に空き瓶を投げつけるなどの暴挙を行った(『昭和51年警察白書[1])が、夫妻に怪我などはなく、つつがなく予定を終了した。1976年1月18日の閉会式にも夫妻で訪沖している。

沖縄海邦国体にて訪沖

1987年にも沖縄海邦国体を前に病臥した昭和天皇の名代として沖縄を訪れ、10月24日南部戦跡の平和祈念堂で「先の大戦で戦場となった沖縄が、島々の姿をも変える甚大な被害を被り、一般住民を含むあまたの尊い犠牲者を出したことに加え、戦後も長らく多大の苦労を余儀なくされてきたことを思う時、深い悲しみと痛みを覚えます」との天皇のお言葉を代読した。当時の西銘順治沖縄県知事は、「お言葉に接し、感動胸に迫るものがあります。これで、ようやく沖縄の戦後は終わりを告げたと思う」と談話を発表した。 その後も明仁親王と沖縄の関係は薄まることはなく、即位後三度目の訪沖がなされることとなった。

なお、この1987年の訪沖は当初天皇の訪沖が予定されていたこともあって、前年から政府は特別予算を組んで南部戦跡の戦死者遺骨収骨作業を行うなど環境の整備に努め、西銘知事が「陛下をお迎えして沖縄の戦後を終わらせたい」と宣言するなど、国、県をあげての準備が行われていた。

警備面でもひめゆりの塔事件を教訓として、本土から多数の警察官が応援のため増派、厳戒態勢が取られた(車を運転していた「運天」氏なる沖縄県民、同乗していた「恩納」氏なる女性が本土から増派された警察官に職務質問され、名乗ったところ拘引されたという笑い話のような話も伝わる)が、つつがなく予定は終了した。

践祚

昭和天皇の崩御に拠り、1989年1月7日に践祚し、翌日、元号平成に改元される。有史以来初となる関東の地で即位した天皇である。即位の礼に際しては京都御所から高御座が運ばれるなど、大掛かりな準備が行われた。即位に際しての混乱は全くなかった。即位後朝見の儀での「国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません」という発言が話題となる。

その一方で、憲法の精神を守りつつ平成の天皇のあり方を模索している。イラクに派遣された自衛隊を皇后とともに接見した。PKOで派遣された自衛隊員、災害救助にあたった自衛隊員に対する接見はすでに行っていたが、これは異例のことであり、戦後昭和の頃には考えられなかったといわれている。また、政財界や学識者の内奏、進講を、父・昭和天皇以上に受けている。「(憲法第4条すれすれの)ストライクゾーンに精一杯(ボール)を投げ込んでいる」(岩井克巳、文藝春秋より)とも評される。また昭和天皇が終戦で喪ったものを慰霊の旅を通して、昭和の負の遺産に向き合うことによって抱え込んでおり、その精励ぶりは歴代天皇では群を抜いている。

即位後も旺盛に国内外の訪問を行っている。1993年には昭和天皇の悲願であった沖縄行幸を果たした。この折には予定になかったひめゆり学徒の慰霊碑にも訪れ、この事は2007年にワイドショーで紹介された。2003年までに47都道府県のすべてを訪問している。

  • 1991年
  • 1992年
    • 中国
      この訪問は天安門事件の打消しのために企画されたと言われ、またこれ以降中国国内の反日運動が強まったとの見地から、行うべきでなかったとの批判が強い。関連して、中国側が天皇に金印を授けようとして近習が慌てて断り、事なきを得るなどのエピソードが伝わる。

1999年に即位10周年を迎え、政府主催で11月20日在位10年記念式典が開催、同日夜には二重橋で祝賀の声に応える一齣もあった。この折に、宮内庁は即位10年記録集『道』を刊行している。

病との闘い

1995年大腸ポリープを摘出。

2002年12月、人間ドックを受診された際に前立腺癌が発見された。これについて今上天皇自らの意向で宮内庁が公式発表にて病名を発表した。

2003年1月18日に、前立腺の全摘出手術を行ったが、この前立腺癌手術に当たっては万全を期す為、皇族方の受診する宮内庁病院ではなく、東京大学医学部附属病院に入院して行われた。

2008年2月25日、宮内庁は『天皇陛下は定期健診に於いて今のところ前立腺癌の再発や他臓器への転移は見られないものの、ホルモン療法の副作用で骨密度が低下しており、このままでは骨粗鬆症に移行する恐れがある』として、天皇の健康に配慮して公務及び宮中祭祀を軽減する等、生活全般についての検討を始めた。

エピソード

誕生

  • 第五子にして初めて誕生した皇子であっただけに、その誕生は非常な喜びをもって受け止められた。その奉祝ムードは実に盛大なもので、都内では提灯行列が出た。軽快な曲調の「皇太子さまお生まれなつた」(作詞:北原白秋/作曲:中山晋平)との奉祝歌までが作られたほどである。当時小学生であった老人などには前述の歌を未だに記憶しており、歌うことができる者もいるほどである。
  • 誕生に際しては「日嗣の御子は生れましぬ」との和歌も詠まれており、生まれながらの皇太子であった。

幼少時代

  • 幼少時代には左利きであったと伝わる。その後、矯正した結果現在は両手利きであるという。
  • 学習院初等科入学に際し、おかっぱに伸ばしていた髪を無断で刈られ数日間ふさぎこんでしまった。その後「これからは、だまってこんなことはしないでね」と精一杯の抗議をした。
  • 学友たちとは親しく交遊し、臣下の悪童たちに混じって数々の悪戯もしたという。「雨夜の品定め」をした、トンボを油で揚げて食べた、蚊取り線香の容器型のスタンプを作ってノートに押したなどの逸話も伝わっている。
  • 戦時中は奥日光・湯元の南間ホテルに疎開した。この時、昭和天皇から手紙を送られている。
  • 疎開先で戦況についての説明を受けた際、特攻に対して疑問を感じ、「それでは人的戦力を消耗する一方ではないか?」と質問して担当将校を返答に窮させたという。
  • 敗戦時の玉音放送の際にはホテルの二階の廊下に他の学習院生と一緒にいたが、皇太子という立場を慮った侍従の機転によって(内容が内容だけに、何が起こるか分からない)御座所に引き返して東宮大夫以下の近臣と共に放送を聞いた。放送の内容には全く動揺を示さなかったが、放送が終わると静かに涙を流し、微動だにしなかったという。
  • その後、東宮大夫から玉音放送についての説明を受けると疾く悲しみから立ち直り、敗戦からの復興と国家の再建を率いる皇太子、将来の天皇としての決意を固めた。当日の日記にも、強い決意が記された。
  • 一方で戦後の混乱期と重なった思春期には思い悩むことも多く、「世襲はつらいね」などと漏らしたことを学友が後に明かしている。またそうした辛いときに両親である天皇皇后と別々に暮らさざるを得なかった体験が、後に子供たちを手元で育てることを決意させたともいう。
  • 学友の橋本明とは身分を忘れ本気で喧嘩をするほどの間柄であったと言われる。一般の学者と議論を白熱させ、論に敗れた後「次は負けない」という趣旨の手紙を相手の学者に送ったというエピソードが伝わる。ちなみにこの学者とは今日まで交流が続いているという。[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。

皇太子時代

  • 学習院時代には馬術部に所属した。白馬に跨り障害を飛び越える姿が白黒写真に残されている。
  • 1952年立太子の礼をあげ、皇太子に立てられる。立太子に際しては記念切手が発行され、その図案には肖像が選ばれる予定であったが、宮内庁の反対によって実現しなかった。
  • 1953年6月2日エリザベス2世戴冠式のために3月30日から外遊した結果、単位不足で進級できず学習院大学政治学科を中退。この為、最終学歴は「学習院大学教育ご終了」(宮内庁のウェブサイトに拠る)としている。もっともその後も聴講生として大学には残った。学習院高等科出身者以外の政治学科同級生に両国高校から現役進学した後の志帥会名誉会長島村宜伸がいる。島村は1956年3月政治学士となり39年5ヵ月後の1995年8月村山改造内閣で初入閣し今上天皇たる明仁から文部大臣の認証を受けている。ちなみに島村の高校同級生柿沢弘治も94年4月野党自由民主党離党し自由党党首として政権参加、自身と同じく前年冬に還暦迎えた明仁から外相の認証を受けた
  • 上記のエリザベス女王載冠式に伴うヨーロッパ外遊の際には横浜港から太平洋航路の客船プレジデント・ウイルソン号アメリカンプレジデント社、速度19ノット、排水量1万5395トン)に乗船した。同船は三島由紀夫もこの2年前に乗船したことがあり、日本人とは縁の深い船であった。日本人向け遊具として碁盤碁石も積まれていたほどである。このとき出発前、NHKは600ミリ望遠レンズを使用して、甲板に立つ皇太子の姿をアップで撮影することに成功して視聴者を驚かせた。船上では早稲田大学バレーボール部の面々と記念撮影をし、アメリカからイギリスへの旅路では報道陣や乗り合わせた中国人の女性と麻雀や将棋、囲碁、卓球なども楽しんだ。特に麻雀はサザンプトンに着くまで熱中したという。この外遊以降、麻雀は趣味のひとつとなり昭和天皇にも面白さを紹介、弟宮常陸宮正仁親王らとも対局したと言われる。
  • 欧州到着後は西ドイツ・ニュルブルクリンクサーキットで1953年F1GP第7戦ドイツGP決勝を観戦。主催者の提案により表彰式のプレゼンターも務め、優勝したジュゼッペ・ファリーナフェラーリ所属。戦前からの名選手で、1950年には初代F1チャンピオンを獲得している)を祝福している。日本人で初めてF1GPの表彰台に上がった人物である。平成初期1991年F1ブームを思うと、奇縁というべき出来事である。この時には、「競馬より面白い」との言葉を残している。
  • 戴冠式では前列中央の上席に着座した。隣席はネパールの王子だった。
  • 結婚後も諸事の決定については昭和天皇の決裁を仰ぎ、様々な事柄について報告していたと伝わる。
  • 昭和天皇からは名代として篤く信頼され「東宮ちゃんがいるから大丈夫」と手放しの賞賛を受けている。
  • 1960年ミシシッピ川水系原産のブルーギルを皇太子が日本に持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈した。ブルーギルは水生昆虫や魚卵・仔稚魚を捕食して日本固有の生態系を破壊するものであったため、後に「今このような結果になったことに心を痛めています」と異例のお言葉を発した。[2]

皇位践祚後

  • 即位の際には明治神宮から御本社大神輿が渡御した。
  • 1992年にアメリカ41代大統領ジョージ・H・W・ブッシュが来日した際には、大統領とマイケル・アマコスト駐日大使とダブルスで2回対戦し、2回とも勝利している。特に2回目のブッシュの敗北は彼にとってショックだったらしく、その夜に首相官邸で行われた晩餐会の席上にてインフルエンザ発症により倒れてしまった際、妻バーバラ・ブッシュがフォロースピーチでこの敗北ネタをジョークにするなどして話題を呼んだ。
  • 雲仙普賢岳噴火の際には、島原からの避難民を地に膝を着いて見舞った。
  • 阪神・淡路大震災に際しては1995年1月31日現地に入り、地に膝をついて被災者を見舞った。このエピソードは海外の新聞にも大きく取り上げられた。被災者に対して「今は苦しい時があるかも知れないがいつかきっと幸福が訪れます。それまで地震なんかに負けず頑張りなさい」と励ました。被災者は天皇の慰めに涙を流したと伝えられた。この際には動転した被災者の少女が皇后に抱きつくという出来事もあったが、咎めることなく暖かく抱きしめた。マイクロバスの窓から手を振る写真も残されている。
  • 新潟県中越地震のときには自衛隊のヘリコプターで被災地にお見舞いをした。2007年新潟県中越沖地震に際しては現地に赴いて被災者を見舞い、被災者を思う心情から夏の静養を取りやめた。
  • 2000年に噴火した三宅島の帰島がかなった2006年には火山ガスの発生の恐れがまだあるにもかかわらず三宅島を慰問。島民を励ました。
  • 2001年アメリカ同時多発テロに際してはジェームズ・ベーカー駐日アメリカ大使を通じてブッシュ大統領に見舞いの言葉を贈っている。天皇が天災以外の理由で外国にお見舞いの言葉を贈ったのは前例のないことであり、それについて「皇室は前例を重んじなければなりませんが、その前例の中には前例がないにも拘わらずなされたものもあります。皇室も伝統を重んじつつ、時代の流れに柔軟に対応しなければならないと思います」とその理由を説明している。
  • 能登半島地震にさいしては慰問はまだ行われていないが「元気になってください」と言葉を寄せた。
  • 2005年台風14号で大きな被害を受けた宮崎県鹿児島県に見舞い金として金一封を贈った。
  • チェロの師であった清水勝雄の死に際しては追悼演奏を行い、故人を偲んだ。会見においても、その人柄を回想していた。
  • 俗事にも通じており、臣下との会話でデーモン小暮閣下の話題が出た折、「ああ、あの白い顔の」とその存在を知っていたことを口にした。もっとも、デーモンの世を忍ぶ仮の経歴(早稲田大学卒業)や大相撲や日本文化に造詣が深いことを考慮すれば、天皇に名が知られていてもそれほど不思議ではない。
  • 時折、くだけた一面も覗かせる。登山時に天皇の姿が見えなくなった折、取材のため同行した新聞記者が天皇のことをうっかり「おとうちゃん」と呼んだところ、記者の背後に突然現れ「おとうちゃんはここにおりますよ」と冗談めかして言い驚かせたことがある。
  • 2007年佐賀県行幸の際、天皇を出迎えた観衆の一部が君が代を歌い始めた際にはその場に足を止め、美智子皇后を促して歌が終わるまでその場に留まり、歌が終わると手を振ってこれに応えた。この行幸に際しては、提灯行列も出た。
  • 2007年10月29日から31日まで福岡県西方沖地震被災地を見舞うため福岡に行幸し、29日には被災者の暮らす仮設住宅を訪問、当日福岡市内は朝から交通規制が敷かれ夕方まで渋滞した。しかし警備は最低限のものであり、市内は平素と変わらなかった。29日夕方には提灯行列が出て天皇の来福を奉祝した。翌30日には同地震で最大の被害を受けた玄界島も訪問した。

人物に関するもの

  • 上記のエピソードからも分かるように自動車愛好家であり、プリンス自動車(現:日産自動車)のスカイラインデイムラーのSOHCの2台を愛用した。ちなみにプリンス自動車は明仁親王の立太子を記念して社名をプリンスと改めたものである。
  • 独身時代には愛車グロリアでドライブを楽しんでいた。軽井沢において学友の所有するアルファロメオを運転したこともある。このほかアコード、レジェンドクーペ、ホンダのインテグラなど運転したことがあるとされる車種は非常に多く、自動車愛好家たちの天皇に寄せる思いが伝わる。
  • 軽井沢までドライブした際には護衛としてパトカーに乗車した警察官が随伴したが、随伴する警察官の乗車するパトカーは性能に劣る国産普及車であったため、性能差からついていくのに必死の思いであったという。
  • 通算9台のプリンスを御召料としている。嘗ての御料車がプリンス製の日産・プリンスロイヤルだったのはその縁である。
  • 自動車評論家として知られる徳大寺有恒は、皇太子時代の天皇が運転するプリンス・スカイライン・スポーツと対向車として遭遇し、大いに驚いた体験を自著に書き残している。
  • 現在でもビートルをまれに運転することがあるという。2007年には高齢者講習を受講し、紅葉マークを取得したと伝わる。
  • 公務においてもタコグラフの製造工場を見学するなど、自動車との縁が深い。
  • 鉄道に関する関心も深く、学習院大学時代の論文はヨーロッパの鉄道史に関する内容であったと言われる。御料車も存在する。もっとも、特別扱いを嫌うため、御料列車で移動することは少なく、一般の車両のグリーン車などをお召し列車として使用することが多い。
  • カナダ空軍基地において軍用機のコクピットに座ったこともあり、写真が残されている。
  • 学生時代、(学習院高等科3年の試験が終わった日)学友である橋本明橋本龍太郎の従兄弟)に「銀座にいきたい」と相談し、学友が「いつがいいか?」と尋ねると「今日がいい」と答えた。「一人ではなくもう一人つれていこう」と提案し、承諾(もう一人は千家崇彦)。新任だった東宮侍従濱尾実など仕えている周りの人間を「今宵、殿下を目白の方にご案内したい」など騙して抜け出すことに成功し、3人で銀座をぶらついた。このとき銀座4丁目あたりで慶応ボーイ4人と出会い、慶応ボーイは「殿下こんばんは」と挨拶したという。高級喫茶店「花馬車」で橋本の彼女と合流し皆で、お金を出し合い一杯99円のコーヒーを飲み、洋菓子屋「コロンパン」でアップルパイ紅茶を楽しんだり、満喫したようだが、当然ながらすぐに事件は発覚。大騒ぎになり、目的地を知り居場所を突き止められると、銀座にいた彼の周りに警官が20~30メートルおきに配置されてしまい、これ以上散策が出来なくなり終了した。もちろん、連れ出した学友2名が警察と皇室関係者に烈火のごとく叱られたのは言うまでも無い。これが有名な『銀ブラ事件』である。
  • ご成婚のパレードは民間放送開始から5年目でまだ高嶺の花だったテレビの普及に大いに貢献した。「ご成婚パレードをテレビで見よう」の宣伝文句が今に伝わっている。
  • 皇太子時代、タイ王室からタイ国民の蛋白質不足について相談を受け、養殖の容易なティラピアを50匹寄贈した。タイではこのティラピアを大いに繁殖させて、バングラデシュの食糧危機に際して50万匹を寄贈した。のちにこの魚には華僑によって「仁魚」という漢名が付けられた。
  • 同じく皇太子時代、インドネシアからの打診を受けてコイの品種改良を行い、ヒレナガニシキゴイを誕生させている。
  • 靖国神社には皇太子時代に5回参拝しているが、即位後は参拝していない。
    但し、現在の靖国神社の南部利昭宮司には「靖国のことはくれぐれも宜しくお願い致します」とお言葉を下賜している。

発言

  • 『ご誠実で、ご立派で、心からご信頼申し上げ、ご尊敬申し上げられる方』(1958年11月27日
    • 婚約記者会見でどういう所に魅力を感じたかを訊かれて、美智子妃の皇太子評。流行語にもなった。
  • 『国民と共に日本国憲法を守り、国運の一層の進展と世界平和、人類の福祉の増進を切に希望して止みません』(1989年1月9日
  • 『皆様が雨に濡れて寒いのではと案じています』(1999年11月20日、在位十年記念式典で)
  • 「私自身としては、桓武天皇の生母が百済武寧王の子孫であると続日本紀に記されていることに韓国とのゆかりを感じています」(2001年12月)
  • 「私にとっては沖縄の歴史を紐解くということは島津氏の血を受けている者として心の痛むことでした。しかし、それであればこそ沖縄への理解を深め、沖縄の人々の気持ちが理解できるようにならなければならないと努めてきたつもりです。沖縄県の人々にそのような気持ちから少しでも力になればという思いを抱いてきました」(2003年12月23日)(注:香淳皇后の母が島津家の出身である)
  • 「やはり、強制になるということではないことが望ましい」(2004年10月28日 園遊会で)
  • 「日本は昭和の初めから昭和20年の終戦までほとんど平和な時がありませんでした。この過去の歴史をその後の時代とともに正しく理解しようと努めることは日本人自身にとって、また日本人が世界の人々と交わっていく上にも極めて大切なことと思います。戦後60年に当たって過去の様々な事実が取り上げられ、人々に知られるようになりました。今後とも多くの人々の努力により過去の事実についての知識が正しく継承され、将来にいかされることを願っています」(2005年12月19日
  • 「皇室の中で女性が果たしてきた役割については、私は有形無形に大きなものがあったのではないかと思いますが、皇室典範との関係で皇室の伝統とその将来についてという質問に関しては、回答を控えようと思います。私の皇室に対する考え方は、天皇及び皇族は、国民と苦楽を共にすることに努め、国民の幸せを願いつつ務めを果たしていくことが(中略)、皇室の伝統ではないかと考えているということです」(同上)
  • 「戦前と今日の状況では大きく異なっている面があります。(中略)戦前は議員や国民が自由に発言することは非常に難しかったと思います。先の大戦に先立ち、このような時代のあったことを多くの日本人が心にとどめ、そのようなことが二度と起こらないよう日本の今後の道を進めていくことを信じています」(2006年6月6日
    • 東南アジア訪問前の記者会見で、「教育基本法改正に伴い愛国心の表現を盛り込む事が、戦前の国家主義的な教育への転換になるのでは」という在日外国報道協会代表質問に対し。
  • 皇太子の記者会見の発言を契機として事実に基づかない言論が行われ、心の沈む日も多くありました(中略)苦しいことでした」(2006年の天皇誕生日)
  • 「残念なことは、愛子は幼稚園生活を始めたばかりで、風邪をひくことも多く、私どもと会う機会が少ないことです(中略)いずれ会う機会が増えて、打ち解けて話をするようになることを楽しみにしています」(2006年天皇誕生日)
  • ブルーギルは50年近く前、私が米国より持ち帰り、水産庁の研究所に寄贈したもの。食用魚として期待が大きく養殖が開始されましたが、今このような結果になったことに心を痛めています」(2007年第27回全国豊かな海づくり大会のご挨拶)[3]

系譜

系図

 
 
 
 
122 明治天皇
 
 
 
 
123 大正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
124 昭和天皇
 
秩父宮雍仁親王
 
高松宮宣仁親王
 
三笠宮崇仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
125 上皇
 
常陸宮正仁親王
 
寬仁親王
 
桂宮宜仁親王
 
高円宮憲仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
126 今上天皇
 
秋篠宮文仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
悠仁親王


天皇一家と諸王

著書

  • 『日本産魚類大図鑑 = The fishes of the Japanese archipelago』益田一ほか編、東海大学出版会、1984年12月、ISBN 4486050533(図版)、ISBN 4486050533(解説)、ISBN 4486050541(Text)
    論文『ハゼ科魚類の進化』を所収するほか、ハゼ亜目魚類の項目を第2版で共同執筆)
  • 『日本の淡水魚』川那部浩哉、水野信彦編・監修、山と溪谷社、1989年11月、ISBN 4635090213(チチブ類の項目を執筆)
  • 『ともしび : 皇太子同妃両殿下御歌集』宮内庁東宮職編、婦人画報社、1986年12月
  • 『道 : 天皇陛下御即位十年記念記録集』宮内庁編、日本放送出版協会、1999年10月、ISBN 414080467X
  • 『日本産魚類検索 : 全種の同定』中坊徹次編、東海大学出版会、2000年12月、ISBN 4486015053(ハゼ亜目魚類の項目を共同執筆)

脚注

関連項目

外部リンク

先代
昭和天皇
天皇
第125代:1989年-
次代
(在位)