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== 人物 ==
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[[大分県立大分上野丘高等学校|大分中学校(現・大分上野丘高等学校)]]、広島[[陸軍幼年学校]]、陸軍士官学校予科を経て、[[昭和]]16年([[1941年]])7月に[[陸軍士官学校]]を卒業(第55期)し[[士官|陸軍将校]]となる。終戦時は[[陸軍大尉]]。
[[大分県立大分上野丘高等学校|大分中学校(現・大分上野丘高等学校)]]、広島[[陸軍幼年学校]]、陸軍士官学校予科を経て、[[1941年]]7月に[[陸軍士官学校]]を卒業(第55期)し[[士官|陸軍将校]]となる。終戦時は[[陸軍大尉]]。


戦後、[[陸上自衛隊]]に入隊し[[兵科#通信科|通信科]]出身ながら[[陸上幕僚長]]となる。昭和55年退官([[陸将]])。昭和61年([[1986年]]、[[第14回参議院議員通常選挙]]に[自由民主党]]から出馬、当選し[[経世会]]へ。[[第2次海部内閣]]で[[科学技術庁|科学技術]][[政務次官]]。
戦後、[[陸上自衛隊]]に入隊し[[兵科#通信科|通信科]]出身ながら[[陸上幕僚長]]となる。1980年退官([[陸将]])。[[1986年]]、[[第14回参議院議員通常選挙]]に[[自由民主党]]から出馬、当選し[[経世会]]へ。[[第2次海部内閣]]で[[科学技術庁]][[政務次官]]。


[[1992年]]暮れ[[小沢一郎]]、[[羽田孜]]、[[二階俊博]]、[[岡田克也]]らと共に経世会離脱し[[改革フォーラム21]]旗揚げや半年後の集団離党及び[[新生党]]結成に参加。1994年4月に発足した[[羽田内閣]]で[[法務大臣]]を務めるが、陸上幕僚長を務めた職業自衛官出身の大臣の誕生に[[文民統制]]から問題があるのではないかと指摘する声があがった。[[毎日新聞]]のインタビューで「'''[[南京大虐殺]]はでっち上げだと思う'''」と発言し、わずか11日間で更迭される(これは2007年に[[遠藤武彦]]農水相が8日間の在任記録が出るまで、戦後大臣通算在任最短記録1位であった)
[[1992年]]暮れ[[小沢一郎]]、[[羽田孜]]、[[二階俊博]]、[[岡田克也]]らと共に経世会離脱し[[改革フォーラム21]]旗揚げや半年後の集団離党及び[[新生党]]結成に参加。1994年4月に発足した[[羽田内閣]]で[[法務大臣]]を務めるが、陸上幕僚長を務めた職業自衛官出身の大臣の誕生に[[文民統制]]から問題があるのではないかと指摘する声があがった。[[毎日新聞]]のインタビューで「'''[[南京大虐殺]]はでっち上げだと思う'''」と発言し、わずか11日間で更迭される(これは2007年に[[遠藤武彦]]農水相が8日間の在任記録が出るまで、戦後大臣通算在任最短記録1位であった)

2008年2月25日 (月) 04:59時点における版

永野 茂門(ながの しげと、1922年6月28日 - )は、日本政治家。元参議院議員(2期)。元自衛官大分県出身。勲二等旭日重光章

人物

大分中学校(現・大分上野丘高等学校)、広島陸軍幼年学校、陸軍士官学校予科を経て、1941年7月に陸軍士官学校を卒業(第55期)し陸軍将校となる。終戦時は陸軍大尉

戦後、陸上自衛隊に入隊し通信科出身ながら陸上幕僚長となる。1980年退官(陸将)。1986年第14回参議院議員通常選挙自由民主党から出馬、当選し経世会へ。第2次海部内閣科学技術庁政務次官

1992年暮れ小沢一郎羽田孜二階俊博岡田克也らと共に経世会離脱し改革フォーラム21旗揚げや半年後の集団離党及び新生党結成に参加。1994年4月に発足した羽田内閣法務大臣を務めるが、陸上幕僚長を務めた職業自衛官出身の大臣の誕生に文民統制から問題があるのではないかと指摘する声があがった。毎日新聞のインタビューで「南京大虐殺はでっち上げだと思う」と発言し、わずか11日間で更迭される(これは2007年に遠藤武彦農水相が8日間の在任記録が出るまで、戦後大臣通算在任最短記録1位であった)

1998年、政界引退。現在、日本戦略研究フォーラム(JFSS)相談役。

関連項目

外部リンク

先代
羽田孜(事務取扱)
法務大臣
第53代: 1994
次代
中井洽