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「東京ヤクルトスワローズ」の版間の差分

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==== 広沢克己に「君の時代は終わった」発言 ====
==== 広沢克己に「君の時代は終わった」発言 ====
[[1984年]]秋のドラフト1位でヤクルトに入団した[[広澤克実|広沢克己]]は、ルーキーイヤーの翌[[1985年]]から主軸に定着し、チーム内・ファンからも愛された選手であった。ところが10年目のシーズンを終え、[[フリーエージェト]]の権利を取得した[[1994年]]オフのある日、広沢は球団幹部に呼ばれ。FA行使前下交渉てい広沢は、その席で「君の時代は終わった」との言葉を投げかけられた。ショックを受けた広沢はFA権を行使して翌[[1995年]]、読売ジャイアンツに移籍した。
[[1984年]]秋のドラフト1位でヤクルトに入団した[[広澤克実|広沢克己]]は、ルーキーイヤーの翌[[1985年]]から主軸に定着し、チーム内・ファンからも愛された選手であった。ところが9年目のシーズンを終え、15年ぶり日本チャピオンとなった[[1993年]]オフのある日、広沢は契約更改の席で球団幹部に(同年セリーグMVP獲得し古田がチームった事に関連し)「君の時代は終わった」との言葉を投げかけられた。ショックを受けた広沢は[[フリーエージェント|FA]]権を行使して翌[[1994年]]オフ、読売ジャイアンツに移籍した。


==== 古田選手兼監督に「引退勧告」 ====
==== 古田選手兼監督に「引退勧告」 ====

2008年2月27日 (水) 05:51時点における版

東京ヤクルトスワローズ(とうきょうヤクルトスワローズ、Tokyo Yakult Swallows)は、日本プロ野球球団でセントラル・リーグの球団のひとつ。東京都保護地域とし、都内新宿区にある明治神宮野球場専用球場(本拠地)としている。また、二軍(イースタン・リーグ所属)の本拠地は埼玉県戸田市にあるヤクルト戸田球場である。

東京ヤクルトスワローズ
会社名 株式会社ヤクルト球団
創設 1950年
今シーズン
現在進行のスポーツイベント2024年の東京ヤクルトスワローズ
所属リーグ
セントラル・リーグ(1軍)、イースタン・リーグ(2軍)
歴代チーム名
(1軍)
国鉄スワローズ(1950年 - 1965年
→サンケイスワローズ(1965年途中)
→サンケイアトムズ(1966年 - 1968年
→アトムズ(1969年
→ヤクルトアトムズ(1970年 - 1973年
→ヤクルトスワローズ(1974年 - 2005年
→東京ヤクルトスワローズ(2006年 - )
(2軍)
国鉄スワローズ(1950年 - 1953年
→国鉄フレッシュスワローズ(1954年 - 1955年
→(リーグ中断のため不明)
→国鉄スワローズ(1961年 - 1965年)
→サンケイスワローズ(1965年途中)
→サンケイアトムズ(1966年 - 1968年)
→アトムズ(1969年)
→ヤクルトアトムズ(1970年 - 1973年)
→ヤクルトスワローズ(1974年 - 2005年)
→東京ヤクルトスワローズ(2006年 - )
本拠地
一軍:明治神宮野球場(東京都新宿区)、二軍:ヤクルト戸田球場
収容人員 36011人(神宮)
東京都1952年 - )
獲得タイトル
成績(タイトル以外)
球団組織
オーナー 堀澄也
運営母体 ヤクルト本社
球団社長 多菊善和鈴木正
監督 高田繁
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球団の歴史

国鉄・サンケイ時代

  • 1949年シーズンオフ、リーグ拡張方針に伴うプロ球団乱立の煽りを受け各地の国鉄鉄道管理局の野球部から選手が引き抜かれる事態が発生。国鉄は同年の大幅な合理化で労使関係が悪化しており、国鉄職員の団結と意志発揚を目的にプロ球団設立を発案。当時の加賀山之雄総裁が大の野球好きであったことも、参入実現の一要因となった。日本国有鉄道法に抵触するため国鉄が直接親会社になることは出来ず、国鉄の外郭団体である財団法人鉄道協力会が主体となり、財団法人鉄道弘済会日本通運日本交通公社(現JTB)などの企業により「国鉄野球株式会社」を設立。球団名を国鉄スワローズとした。国鉄参入直前のセ・パはともに7球団であり、切りの良い8球団にしたいという思い、それも大企業である国鉄のプロ参入にセ・リーグ関係者は色めき立っていたが、パ・リーグとの勧誘合戦により参入が立ち消えになってしまうことを恐れ、セ・国鉄内部ともに極秘扱いで計画は進められた。参入の下準備も佳境に差し掛かる頃には巷間でも国鉄参入の噂が立っていたが、国鉄がプロ球団など作るはずがないとパ・リーグは高を括っており、参入は至って順調に成功した。参入が他新球団より遅れていたため選手確保がままならず、自前の鉄道管理局野球部を中心に他の社会人や大学などのアマチュア野球に残っている人材をかき集めたが、プロ経験者は戦前の一時期阪急に在籍した中村栄ただ1人という状態で、アマチュア野球では強豪の鉄道管理局野球部もプロでは通用せず、打てばゲッツー守ればエラーという散々な状態。エース・金田正一の投球がチーム成績を左右した。金田の活躍で最下位こそ少なかったが常に4位、5位。順位こそを振るわなかったものの、こと巨人戦では互角かそれ以上の試合を見せ、後楽園の国鉄・巨人戦は関東で最も人気のある対戦であった。
  • 1961年に初めて3位になりAクラス入り。翌年の1962年、年々増大する経営費のために経営主体は鉄道協力会から鉄道弘済会へと変わっていたが、公共企業・国鉄の球団であるという体面もあり相当の緊縮財政であった。新人選手の契約金は高騰する一方で満足な補強もできず(当てになる戦力は金田だけだった)、更に前年に起こった三河島事故による批判は球団にも飛び火していた。同年8月、球団譲渡を前提とした業務提携を産経新聞社フジテレビジョンと結び、フジサンケイグループとの関係が生じる。この時点で経営主体はフジサンケイグループに移る。
  • 1964年、主催試合を系列のフジテレビで中継するために、本拠地を後楽園球場から神宮球場へ移転する。同年オフ、当時の林義一監督の更迭・留任を巡り産経新聞と国鉄は激しく対立。エース・金田が「林監督がそのまま続投した場合移籍するが、解任された場合は残留する」との声明を出したことから国鉄は頑として林の更迭を主張、一方の産経サイドは他社マスコミ(読売新聞(巨人軍の親会社)、朝日新聞毎日新聞)により「林監督更迭」のスクープを先取りされていたことがあり、両者とも平行線を辿り最終的には経営主体の産経サイドが意見を押し切った。林は留任し、金田は10年選手の特権を行使して巨人に移籍した。金田を失ったことにより国鉄は経営意欲を完全に喪失し、フジサンケイグループへ経営権を全て譲渡して経営から撤退することとした。もとより国鉄球団は業務提携後フジサンケイグループの資金力に丸々依存しており、移譲は時間の問題と見られていたが、喧嘩別れで球団譲渡という結末となった。
  • 1965年5月10日、産経新聞とフジテレビへ正式に球団を譲渡し球団名をサンケイスワローズに改称。
  • 1966年、少年野球ファン開拓のため鉄腕アトムをペットマークに使用しチーム名をサンケイアトムズに改称。同年ヤクルト本社が株式を取得し球団運営に参加。
  • 1969年、産経新聞は本体の業績不振のため株式の一部をヤクルト本社へ売却[1]。表面上は共同経営とし球団名をアトムズと改称、実質経営権はヤクルトが握った。
  • 1970年1月7日、ヤクルトが公式に単独で経営権を持ちヤクルトアトムズに改称。

ヤクルト時代

東京ヤクルト時代

  • 2006年シーズンからは、古田敦也選手兼任監督として指揮を執ることになった。2005年12月19日のプロ野球実行委員会において、古田の悲願であった「東京ヤクルトスワローズ」へのチーム名変更が全会一致で承認され、ユニフォームに国鉄以来となる「Tokyo」の文字が復活した。
  • 2006年も前年同様、リック・ガトームソンノーヒットノーラン等の活躍で交流戦2位になるなど、交流戦で順位を上げたが、交流戦終了後ほぼ5割ラインに停滞し続ける。結果3位となり2年ぶりにAクラスは確保したが、優勝争いにからむことはほとんどなかった。
  • 2007年9月、古田監督の現役引退及びヤクルト球団からの退団も併せて発表された。なお伊東昭光ヘッドコーチも辞意を表明している為、最年長のコーチである八重樫幸雄打撃コーチがヘッドコーチ代理を兼任していた。10月25日に北海道日本ハムファイターズのゼネラルマネージャーを退任した高田繁が次期監督に就任し、翌26日には西武ライオンズの投手コーチを退任した荒木大輔が次期一軍投手コーチとしてチームに復帰することが決定した。年明けの2008年1月には藤井秀悟などを交換要員する3対3のトレードを日本ハムと行った。

主な株主

2008年1月1日現在
  1. 株式会社ヤクルト本社(80%)
  2. 株式会社フジテレビジョン (20%)

チーム成績・記録

1950年以降の順位の変遷。赤い丸は日本シリーズ優勝を示す
  • リーグ優勝 6回
(1978年、1992年 - 1993年、1995年、1997年、2001年)
  • 日本一 5回
(1978年、1993年、1995年、1997年、2001年)
  • Aクラス 15回
(1961年、1974年、1977年 - 1978年、1980年、1991年 - 1993年、1995年、1997年、2001年 - 2004年、2006年)※
  • Bクラス 43回
(1950年 - 1960年、1962年 - 1973年、1975年 - 1976年、1979年、1981年 - 1990年、1994年、1996年、1998年 - 2000年、2005年、2007年)
  • 最下位回数 13回
(1953年、1960年、1962年、1965年 - 1966年、1970年 - 1971年、1979年、1982年 - 1983年、1985年 - 1986年、2007年)
  • 最多勝 83勝(1997年)
  • 最多敗 94敗(1950年)
  • 最多引分 16分(1978年、1981年)
  • 最高勝率 .631(1995年)
  • 最低勝率 .264(1970年)
※2003年は巨人と同率3位であり開幕権はなし

チーム個人記録

  • ノーヒットノーラン最年少記録 18歳1ヶ月 金田正一投手(1951年)
  • 交流戦ノーヒットノーラン リック・ガトームソン投手(2006年)

その他の記録

  • 最小ゲーム差 4.5ゲーム(1973年)
  • 最大ゲーム差 57.5ゲーム(1950年)
  • 最高連勝数 12連勝(1991年)
  • 最低連敗数 16連敗(1970年)
  • 最多本塁打 181本(2004年)
  • 最少本塁打 36本(1951年)
  • 最高打率 .283(2003年)
  • 最低打率 .201(1962年)
  • 最高防御率 2.29(1961年)
  • 最低防御率 4.76(1984年)

歴代本拠地

フランチャイズ制度の実施は1952年から)

大学野球高校野球等で神宮球場が使えない場合は主催試合を地方球場で開催する。)

チーム特徴

球団名

「スワローズ」の名称は、国鉄が当時最速を誇った特急列車であった「つばめ」号に由来する。球団旗には列車に使用されていたつばめマークを採用。「スワローズ」のロゴデザインは国鉄のデザイン室がデザインしたものを今日まで使用している。

  • ニックネーム決定の際、最終案として残ったのが「スワローズ」と「キリバース」(国鉄の紋章“動輪”に由来)の2つである。しかし、“動輪に桐”は一般にそれほど知られていたわけではなく、国鉄内部向けの印象が強かった。一方ツバメは古来よりスピードの象徴でありスピードを重視する野球チームの愛称にふさわしく、またツバメは人の生活圏に営巣する習性があるので、人に愛される球団名として適切であることが考慮され、スワローズの方に決定した、といういきさつがある。
  • 元来「燕」は国鉄の象徴的な存在であった。現在のJRバス各社がツバメをマスコットキャラクターにしているのもその名残であり、旧丸善石油(現在のコスモ石油。「Oh!モーレツ!!」のテレビコマーシャルで有名。)がツバメのマークを使用していたのも、開業当初鉄道省(国鉄の前身)との繋がりが深かったからである。
  • 『国鉄は当初「コンドルズ」にしようとしたが、本業の鉄道が「“混んどる”ず」ではマイナスイメージだから取り止めた』『「“座ろう”ず」にすれば鉄道業としては快適なイメージだから「スワローズ」を採用した』という俗説が有名であるが、これは誤りである。なお、似たような俗説は南海ホークスにも存在する(『都市伝説』の該当項目参照)。

マスコット

球団マスコットはツバメのキャラクター。

1993年以前
  • ヤー坊-1981年登場。つば九郎登場まで存在したツバメのキャラクター。ペットマーク等に起用されず、神宮球場での着ぐるみのみであったようで、ファンの間でも存在を忘れられている。
  • スーちゃん-ヤー坊と同時期に存在したツバメのキャラクター。
  • ボールの顔をしたマスコット-ヤー坊、スーちゃんからつば九郎の間のマスコット。神宮にはボールをモチーフにした絵、キャラが多く、かなり神宮を意識したものと思われる。
1994年以降
  • つば九郎 - 1994年登場。スワローズのヘルメットをかぶったツバメ。尻が重いせいか、じれったいほど動きが鈍い。12球団のメインマスコットで唯一ユニフォームを着ていないため、背番号なし。名前は公募により決定され、ツバメの別名「つばくろ」と9回・9人で行う野球の性質を合わせた名前となっている。「つばぜり合いに強く、苦労しながら接戦をものにする」という意味も込められている。自身のブログでは文を全てひらがなで書いている。
  • つばみ - つば九郎の妹。
  • 燕太郎(えんたろう) - 2005年から登場した新顔。ユニフォームを着込むなど動きがいいように設計されている。背番号は「102」(登場当時、チームスタッフのつけていた最大番号が「101」だったため)。
この内、つば九郎、つばみはフジテレビのイメージCMに出演したことがある。内容はつば九郎(の役者)がつばみ(の役者)に「結婚してくれ」と愛を告白するが、それをたまたま盗み聞きした石井一久が(兄妹だろ、こいつら)と何故か「兄妹」の立場からツッコミをいれるという内容。

応援スタイル

応援歌では、オリジナルで作曲したものと、従来のポップス曲に声援を加えたものとに分かれる。そして、得点が入るとビニール傘を振りながら東京音頭を歌うのが、スワローズの応援の特色。東京音頭を初めて応援に使用したのは東京オリオンズであるが、東京オリオンズの本拠地移動もあって、1978年の優勝と前後して始められた。神宮の応援団から始まったが、現在は全国で行われている。


東京音頭に合せて踊るスワローズファン(神宮外野席)
  • 東京音頭で振る傘は、緑(または青)のビニール傘もしくは球団が発売している傘が一般的であるが、特に決まっているわけではない。もともと「傘を振る」という応援方法自体が「応援グッズを買わずとも、家にあるもので応援に参加してもらえる」という趣旨で始まった、ということもあり、他の色のビニール傘や普通の傘を振っても、いっこうにかまわない。この傘を使った応援スタイルは、当時の応援団長だった岡田正泰が「少しでもファンが多くいるように見せるために」考え出した苦肉の策だった。
  • 傘応援については危ないという意見があり、横浜スタジアムでは一時期傘を使用した応援が禁止されていた。球場で販売されている応援用の傘は、危なくないように石突の部分を柔らかい素材にしているとされている。
  • 他球団のファンは、7回(勝利時)にジェット風船を飛ばしているが、ヤクルトファンは上記の傘を使った応援をする為、「ゴミになるだけ」との理由でほとんど飛ばさない。
  • 本拠地とする神宮球場では、太鼓を使っての応援は禁止されている。詳しくは、明治神宮野球場の項目を参照のこと。そのためにホームの神宮球場ではリズムが取りづらく、全体的にテンポが速くなりやすい。
  • 2006年から選手を紹介する場内アナウンスは2人体制になり、ビジターチームについては通常のウグイス嬢、ホームについては男性DJが担当している。

近年の戦績

  • 近年、Aクラスを維持する一方で試合消化の遅さが影響して、マジック対象チームになることが多く、2002年から「ヤクルトの敗北で優勝球団のマジックが0となり優勝決定」が3年続く珍事がおこった。
  • 一昔前は常に最下位争いをしていたが、野村監督以降チーム力が格段と上がり1987年から20シーズンにわたり最下位に落ちることがなかった。1991年以降は2006年まで4位以上と安定した成績を保っていた。それに伴って監督在任期間も長くなり平成の19年で監督を務めたのは関根1年、野村9年、若松7年、そして昨年までの古田監督2年の計4名である。一時期に常に最下位争いしていた横浜(当時大洋)の10人、阪神の7人に比べると非常に少ない。
  • Bクラスに低迷していた武上四郎、土橋正幸、関根潤三監督時代は、優勝チームの胴上げ試合がヤクルト戦となることが多かった。(83年巨人、85年阪神、86年広島、88年中日、90年巨人)広沢克己は「目の前で何度も胴上げを決められて、いつか俺たちが優勝してやると誓った」と後に語っている。また何故か星野仙一監督時代の中日の2度の優勝は全てヤクルト戦である(88年はナゴヤ球場でそして99年は本拠地神宮球場で)。ちなみに78年のヤクルト初優勝決定試合の対戦は同じく神宮球場での中日戦である。
  • ヤクルトは日本シリーズに強く、通算6回出場し5回優勝している。唯一日本一を逃した1992年も、黄金時代の西武ライオンズ相手に3勝4敗であった。しかも最終戦は延長に入っての敗退で、当時の評論家たちからも「ヤクルトは大健闘した」と讃えられた。また日本一になった時は、1993年を除いては、ホームで胴上げを行っている(ただし、1978年のみ後楽園球場)。神宮での最後の敗戦は1995年第4戦で、翌第5戦から1997年、2001年の第5戦まで7連勝中。また日本シリーズで出場経験のない楽天と日本シリーズで敗退経験のない横浜を除く全10球団で日本シリーズの敗退経験が1回しかないのは現在ではヤクルトだけとなった。
  • 1990年代は、日本一(奇数年)になった次の年(偶数年)に、その反動で成績を落として(94・96・98年4位)、そのまた次の年に日本一に返り咲くパターンを繰り返したため、球団史上5度の日本一の中で4度が奇数年で記録されている。1992年の西武を最後に日本シリーズを連覇するチームが出ていないが、このようなヤクルトの戦績が、少なからぬ影響を与えていると言える。
  • 2007年に21年ぶりの最下位となる。これにより、平成になって最下位が一度もないのは巨人、西武の2球団だけとなった。

その他

  • 同じ東京都を本拠地としているだけに、ファンの間では昔から巨人への対抗心は強い。球団も、国鉄時代は「巨人にだけは勝ち越せ」がスローガンであった。しかし松園尚巳オーナー時代は、オーナー自身が巨人ファンであることを明言するなど、後の桑原潤オーナー・野村監督体制まで、フロントの対抗心が比較的希薄だった点は否めない。松園オーナーは球団に愛情を持ってはいたのであるが、いわゆる「出来の悪い子」が好きだったらしく、「(ヤクルトの販路はオフィスでの手売りが大きな割合を占めているので)ヤクルトが巨人に勝つと売り上げが下がるから、巨人には勝たなくていい」と公言していた。1978年のシーズン終盤に当時の広岡監督と面会した際も、「ここまでよく頑張った」と暗に優勝を巨人に譲れと言わんばかりの発言をし、これに監督以下選手たちが反発して初優勝を遂げたという話も伝えられている。
  • 1990年代以前は、スワローズでプレーしたことのない外部招請監督がほとんどであった。このため、生え抜き監督は国鉄時代の藤田宗一、ヤクルト以降は武上四郎若松勉古田敦也の4人しかいない。すなわち古田の監督就任は、球団史上初の「生え抜き同士の監督交代」であった。
  • 神宮球場の他に、主催試合を行う地方球場として秋田県立野球場(こまちスタジアム)、ひたちなか市民球場いわきグリーンスタジアム松山中央公園野球場(坊っちゃんスタジアム)等がある。
    • 千葉マリンスタジアムでも、毎年5月末の東京六大学野球(早慶戦)の際に主催試合が開催されていたが、セ・パ交流戦開催に伴い2005年は7月開催となり、2006年は実施されないことになった。
  • 帽子マーク"Ys"の原型は、1969年 - 1970年のアトムズ時代に遡る(当時は"Ya"マーク)。1994年から変更されている。
  • 帽子マークは、左に大きく「Y」・右に小さく「S」だが、チームのアルファベットでの略称はスワローズの頭文字である「S」としていることが多い。週刊ベースボールの2軍戦日程表では一時球団略称をYsとし、湘南シーレックス横浜ベイスターズ2軍)をSとしていたが、「Sが1軍と2軍で異なるチームを表すのはおかしいのではないか」という意見もあり、ヤクルトをS、湘南をSRに変更した。

ファンクラブ

  • 年会費
    • プレミアム会員10,000円(2000名限定)
    • 大人会員5,000円
    • 子供会員3,500円(中学3年まで)
  • 特典
  • プレミアム会員(2000名限定)
    • 2007年度
      • 自分で背ネームと背番号(当初後ろのみだったが、現在は前と後ろの両方)が決められるホーム用ユニフォーム(通常のレプリカには付いてこないユニデンのマーク付き)
    • 2008年度
      • 限定ナイキ製プロ選手仕様ジャンパー(プロコレクションでは今後販売しない)
  • 球場特典
    • 全会員共通
    • 球場で期間中にバッジプレゼント
    • プレミアム会員、大人会員共通
    • 5試合の外野自由席無料券(ただしオールスターゲーム、プレーオフ、日本シリーズ、東京ドームのアジアシリーズには適用されない)
    • 子供会員(中学3年まで)
    • 全試合外野自由席が無料で試合観戦(ただしオールスターゲーム、プレーオフ、日本シリーズ、東京ドームのアジアシリーズには適用されない)
  • その他特典
    • 戸田球場は元々無料である為、誰でも試合観戦は無料である、その他、大田スタジアム、スワローズ主催の地方球場、東京ドーム(ビジター)、神宮球場の東京ヤクルトの2軍戦が無料で試合観戦が可能。
    • 東京ドームにある野球博物館が割引価格で入場可能
    • スワローズオンラインショップ及びグッズカタログ通販で購入時に10%割引特典
    • オスシーズン、マスターズリーグの試合観戦が当初提示すれば指定席以外内外野自由席が無料で見れたが、観戦割引が適用。

ファンクラブの歴史

  • 2007年度のファンクラブ会員にプレミアム会員が誕生
  • 2008年度のファンクラブ会員では子供会員以外長年続けていたファンクラブ用の帽子が打ち切りとなった。

ユニフォームの変遷

  • 1950年 - 1954年 ロゴは「Swallows」で縁取りが白。1951年の途中から国鉄のワッペンが外され、シンプルな形となった。また、ビジター用は「TK」マーク、ツバメに「SWALLOWS」のマークを経て1953年から「Tokyo」となる。また、1954年のみホームユニフォームが緑色(帽子のツバとロゴ、アンダーシャツとストッキング)でまとめられていた。
  • 1955年 - 1960年 袖・パンツにラインが入る。また、ストッキングに赤が入った。1960年から胸番号が装着され、同時にビジター用の「Tokyo」の書体が変更。
  • 1961年 - 1965年 縁取りに赤を使用されストッキングのラインが廃止。1963年から「Tokyo」の書体を変更。1965年のみラインがWラインとなる。同時に国鉄最後のユニフォームとなった。
  • 1965年 国鉄から産経へ営業権が変わり、チームカラーが赤と黒に変更される。ホーム用の左袖にカタカナで「サンケイ」のロゴが入り、ビジター用の左袖には「TOKYO」のロゴが入る。ビジター用は「SANKEI」と変更された。
  • 1966年 - 1968年 球団名がサンケイアトムズとなり、レターのスペルが全て小文字(斜体文字)の「atoms」が登場。チームカラーが赤とブルーに変更され、アンダーシャツ・ストッキングもブルーに変更される。夏からビジター用も全て小文字(同じく斜体文字)の「sankei」となる。(※それまでは「SANKEI」)。人気ブランド「VAN」が作成。背番号も斜体文字が採用される。左袖には『鉄腕アトム』のワッペンが付く。
  • 1969年 - 1970年 チーム名がニックネームのみの「アトムズ」(アトムズは1969年のみ、この年からヤクルトと業務提携)になり、ラインが赤とブルーの組み合わせとなり、背番号の上に選手名が入る。また、ビジター用を「Yakult」に変更し、シーズン途中からロゴもブルーに変更。1970年からは球団名が「ヤクルトアトムズ」になり、ホーム用の左袖に「Yakult」のマークが入る。
  • 1971年 - 1973年 三原脩監督就任により、読売ジャイアンツと同じ黒とオレンジに大幅変更し、シックな色遣いになる。
    • 帽子、アンダーシャツ、ストッキングが黒。
    • 胸ロゴ、背番号、胸番号、選手名が黒にオレンジの縁取り。
      • ビジター用のユニフォームがグレー地になる。「鉄腕アトム」のワッペンが廃止され、帽子のマークがYとAを重ねた形になる。
  • 1974年 - 1977年 スワローズの愛称が復活し、球団名が「ヤクルトスワローズ」となる。荒川博監督就任に伴い、ニット素材のブルオーバーベルトレスになり、基本カラーが紺と赤に変更。背中の選手名が消え、背番号、胸番号が丸ゴシック体になる。
    • 帽子、アンダーシャツ、ストッキングは紺、帽子のマークはYとSとを繋げた白になり、帽子のツバが赤になる。
      • ホーム用は、白地に赤のストライプ、「Swallows」ロゴは国鉄時代のものが復活。ロゴ、背番号、胸番号は紺の赤の縁取り。
      • ビジター用は、鮮やかなスカイブルー地に白のストライプ。ロゴ、背番号、胸番号は赤の紺の縁取り。
        • 1975年より、ビジター用の胸ロゴ、背番号、胸番号の縁取りが紺から白になる。
        • 1976年より、ビジター用の首、袖、パンツのラインが白・紺から赤・紺になる。
        • 1977年より、広岡達朗監督の要望により、ベルト式になる。
  • 1978年 - 1989年 基本カラーが紺色から青色になり、帽子も青一色になる。首の計上がVネックになり、背番号の上に選手名が復活、背番号、胸番号の書体が変わる。また胸ロゴ、背番号が紺に赤・白の縁取りに変わり、胸番号の縁取りが消える。またスパイクの色が赤地に白ラインとなる。
    • ホーム用は赤ストライプが太くなり、首、袖、パンツのラインが赤一色になる。
    • ビジター用はスカイブルーの色がやや落ち着き、白ストライプが消える
      • 1980年 - スパイクが白地に赤ラインになる。
      • 1982年 - 、ビジター用の首、袖、パンツのラインにそれまでの赤に加えて青が追加され、赤・青・赤の三本ラインになる。
        • 1978年の日本一に輝いたゲンのいいユニフォームで、計12年間使用された。
  • 1990年 - 1998年 野村克也監督就任により、マイナーチェンジ。パンツの赤ラインと、胸ロゴ、背番号の赤白の縁取りが消える。
    • ホーム用は、赤ストライプが若干細くなる。
    • ビジター用は、光の加減でストライプに見える「シャドー・ストライプ」を採用。胸番号が赤色になり、ロゴ、背番号にはサッカーの背番号のような白いシャドーがつき、首、袖のラインが白青のツートンカラーになる。
      • 1994年には、ホーム用の袖の赤ラインが消え、帽子のYSマークがアトムズ時代に使われた「Ys」型になり、左袖に「つば九郎」のペットマークがつく。
      • 1997年には、ビジター用の袖ラインも消える。
        • ID野球に象徴される、強いヤクルトのイメージがあり、4度のリーグ優勝、3度の日本一を齎したユニフォームである。
        • 1970年代 - 1980年代、各球団ともビジター用のユニフォームの色はスカイブルー地が定番であったが、1990年代に入ると、各球団が徐々にグレーやチームカラーを施したものを採用しつつあったが、1998年まで12球団で唯一スカイブルー地を使用し続けた。
  • 1999年 - 2005年 若松勉監督就任に伴い、ホーム用が9年ぶりモデルチェンジ。青から紺に戻る。ホーム、ビジター用共ボタン式になり、背番号、選手名の書体が中日ドラゴンズに続いて、メジャー・リーグで採用されているタイプになる。
    • ホーム用は、首周りのラインが消え、赤ストライプがさらに細くなり、幅も狭くなる。
    • ビジター用は、大幅にモデルチェンジし、提携していたクリーブランド・インディアンスのロード用のデザインを世襲したものになる。
    • 1999年夏場からビジター用のアンダーシャツ、キャップのツバ部が赤くなる。2000年には紺に戻るが、一時ホーム・ビジター用で、また赤が採用。赤いアンダーシャツ、キャップのツバは2002年に廃止された(2002年に1試合だけ若松監督のゲン担ぎでホームの試合で使用。これが最後である。なお最後に着た先発投手は入来智元投手であり、対巨人戦であったものの負け試合であった。ただし、2005年までユニフォームの登録はしていた模様)。
      • ビジター用は、本来1998年から導入される予定だったが、前年日本一になったことからゲン担ぎのために当時の監督・野村克也が導入を止めさせた。
  • 2006年 - 2007年 古田敦也選手兼任監督就任、球団あげての観客増員プロジェクト「F-PROJECT」の一環として、「BEAMS」が手がける。ホーム、ビジター共基本カラーは変わらない。
    • ホーム用は、1974年より32年間採用されていた赤ストライプが消え、白地のユニフォームとなった。胸ロゴに赤、白、水色の縁取りが入る。ホーム。ビジター用共に首、袖の赤ラインが入る。ホーム・ビジターともに右肩に「Tokyo」のロゴが入り、さらに選手名の書体が変わり、背番号、胸番号の角が丸い角型に変わる。

http://www.yakult-swallows.co.jp/images/39_image1.jpg

  • 2008年 - 高田繁監督就任に伴い、ユニフォームの変更はないものの、右上のUNIDENマークがナイキに変更される予定である。

スポンサー

セ・リーグでは、各球団の申し合わせにより、2002年度からホーム用ユニフォームに限定して、スポンサー広告を掲載できるようになった。スワローズでは2005年まで掲載していなかったが、2006年のユニデンから広告が入る。

歴代監督

※太字は優勝監督
※1 ここからサンケイスワローズ
※2 ここからサンケイアトムズ
※3 ここからアトムズ
※4 ここからヤクルトアトムズ
※5 ここからヤクルトスワローズ
※6 1979年は8月17日まで指揮、残り試合は佐藤孝夫が代行
※7 1984年は4月26日まで指揮、5月22日までは中西太が代行
※8 ここから東京ヤクルトスワローズ

永久欠番

球団として公認された永久欠番は無い。欠番的な背番号には以下のものがある。

  • 1若松勉
    1989年、若松の引退時に、背番号1番を永久欠番にとの署名などが多く集まり、球団が「準永久欠番」に指定。入団当初「36」を着けていた池山が1990年オフに「1」を希望して1991年から昇番。2001年に池山が「1」を返上して「36」に戻ったのに伴って岩村に継承された。2006年限りで岩村がメジャーに移籍し、「1」を青木宣親に打診したが辞退したため、再び欠番となった。
  • 27古田敦也
    2007年限りで引退した古田の功績を称え、球団は同年10月11日に「27」を“名誉番号”とすると発表。「実績を積んだ選手だけが使用できる番号」で、着用に相応しい選手が現れるまでは欠番となる。 古田敦也の前には、ダイヤモンドグラブ賞(現ゴールデングラブ賞)やベストナインを受賞している大矢明彦(07年から横浜監督)が着けていた。

歴代の球団歌

  • とびだせヤクルトスワローズ(歌:松岡弘
  • ビクトリーロード(歌:ILYS(アイリス))
2006年度からヒットした時の音となる。
  • 「勇気を出して! GOGOGOヤクルトスワローズ!」(歌・不明)
東京ヤクルト戦で勝った場合最後に必ず神宮球場で流す曲。1980年代後半頃から流れており流れ始めた時期は不明。なおNHKでもデーゲームで一部流れた事がある。
  • 新とびだせヤクルトスワローズ
  • 青春のダイヤモンド
スワローズの応援歌としては東京音頭があまりに有名なため、いずれもあまり知られていないが、熱心なファンには支持されている。なお「♪味方だ〜ヤクルトスワローズ」の部分を「♪味方だ〜東京ヤクルトスワローズ」と言っている人もいる。
  • とびだせ東京ヤクルトスワローズ
新とびだせヤクルトスワローズの「ヤクルトスワローズ」の部分の歌詞に「東京」を加えた替え歌

主なキャンプ地

キーワード

下山事件とプロ野球参入

1949年にセ・パ2リーグ分立騒動が起こるが、当初国鉄は公共企業体という性質上、プロ野球参入には消極的であった。

一方、1949年7月5日、国鉄総裁・下山定則が失踪し、常磐線綾瀬駅付近の線路上で謎の轢死体で発見された(下山事件)。その後下山の死因をめぐり、2リーグ分立の主役である読売新聞毎日新聞の報道面での相違(読売と朝日新聞が他殺体と報道しているのに対して、毎日が自殺と報道した)があった。

歴史の項でも触れたように2リーグ分立が具体化されると国鉄野球部員の集団引き抜きも相次ぎ、国鉄職員の団結力の向上を目指し、下山から総裁を引き継いだ加賀山之雄が、1950年1月に国鉄スワローズを結成。どちらのリーグに参加するかで話題となったが、「鉄道マンは鉄道自殺をしない」という験(げん)もあり、自殺説を報じた毎日主導のパ・リーグへの参加を断固拒否し、他殺説を報じた読売主導のセ・リーグへの加盟申請を行ったといわれている。

※この項の参考資料『ザ・真相』(2004年10月11日放映・テレビ東京

ノーヒットノーラン最年少記録

1951年9月5日、金田正一投手がの対阪神戦(大阪球場)で、18歳1ヶ月という球界史上初の記録を達成した。

フジサンケイグループ

1963年に国鉄球団と業務提携を結んだフジテレビジョンは、当時後楽園球場のテレビ放映権が日本テレビ放送網しか与えられていなかったため、当時東映フライヤーズがメイン球場としていた神宮球場を本拠地にすることを前提に球団経営を引き受けたといわれる。その後先述どおり1965年のシーズン開幕直後に正式に球団譲渡を受け入れてサンケイ(産経)スワローズ(1966年からサンケイアトムズ)とした。

国鉄から球団を買収した産業経済新聞社、フジテレビジョンは共にフジサンケイグループの企業。1970年に産経新聞は球団経営から撤退したが、ヤクルトは引き続きフジサンケイグループが球団を後援する事を条件に経営を引き受けたという。2000年にヤクルト球団の第三者割り当てで、産経撤退後も5%弱の球団株を保有していたフジテレビは従来の分も併せて20%程度の株式を引き受ける事となり、球団と業務提携を締結した(以降、スタッフ社員も代替わりし、スタッフはほとんどフジサンケイグループの者が取り仕切り、資金面、管理はヤクルト本社系統、チームの運営等はフジサンケイ系統からヤクルト球団に転入したもので構成されているという)。

これに伴い、フジテレビと同じフジサンケイグループのラジオ局・ニッポン放送も従来以上にヤクルト球団をバックアップすることとなったが、しかしながらそのニッポン放送は1979年以来横浜ベイスターズ(旧:大洋球団)の株式を保有している。同一企業グループが複数の、しかも同一リーグに所属するチームに関与している事が長年の問題になっているが(実際横浜が筆頭株主をニッポン放送に変更しようとした際に他球団のオーナーの猛反対にあいTBSが筆頭株主となった)、2005年にゴールデンイーグルスのオーナーである楽天が、横浜ベイスターズのオーナー(70%保有)であるTBSとの資本提携を図った際に、根来コミッショナーは「楽天とは異なり、フジテレビは横浜、ヤクルト両球団に対して実質的な支配権を持っていない」との見解を示している。

尚、フジテレビ739フジテレビジョンのCS衛星放送)では、これまでの巨人戦の地上波とのトップ&リレーナイターに加え、2005年から巨人戦以外の主催ゲーム全62試合(交流戦(日本版インターリーグ)18試合含む)を『SWALLOWS BASEBALL L!VE』という題でCS衛星放送独占中継することになった(これまではフジテレビが資本参加するJ SPORTSで放送されていた)。

最少観客動員

サンケイアトムズ時代の1966年10月12日川崎球場で開催された中日ドラゴンズ戦ダブルヘッダーでは、2試合ともたった100人の観衆しか集まらなかった。これはプロ野球の最少観客動員記録である。サンケイはその前日の10月11日にも同球場で広島カープ戦ダブルヘッダーを開催したが、こちらもそれぞれ250人、300人しか入らず、シーズン終盤の消化試合とはいえ、不人気ぶりを露呈する結果に終わった。

試合球到着遅延事件

サンケイアトムズ時代の1967年10月9日横浜公園横浜平和球場で行われた中日ドラゴンズ戦ダブルヘッダーでの出来事。試合で使用する予定の公式球を搬送していたスポーツ店の自動車が交通渋滞のあおりを受けてしまい、試合開始予定の正午を過ぎても到着しないというハプニングが起きた。

その為公式記録員がセ・リーグの鈴木龍二会長に連絡を取ったところ、鈴木は「応急処置として中日側の了解を得て練習球で試合をするように」と指示を出したものの、中日側はこれを拒否。結果的には公式球の到着を待って37分遅れで試合が開始された。当時セ・リーグのアグリーメントでは「ダブルヘッダーで試合を行う場合、第1試合は日没5時間前までに開始しなくてはならない」と定められていたことから、中日の西沢道夫監督は「このままでは第2試合は中止になってしまうのではないか」と抗議したが、日程調整上当初のダブルヘッダー開催を強行した。

初優勝決定の日

  • 1978年10月4日、ヤクルトは地元・神宮で中日ドラゴンズを相手に試合をした。ヤクルトの応援席であるライト側外野席には「国鉄スワローズ→サンケイアトムズ→ヤクルトスワローズ初優勝!! 29年間のご支援ありがとう」という旨の横断幕が既に試合前から掲揚された。そして圧倒的な9-0のリードで迎えた9回1アウト1塁から谷沢健一の打球がセカンドゴロからのゲッツーとなり、念願の地元胴上げで初優勝を達成したのである。
  • 決定の瞬間、選手らが1塁ベンチから飛び出して広岡達朗監督を胴上げすると、興奮の余りに客席からグラウンドに飛び出したファンからも祝福の胴上げや拍手をし、優勝記念の表彰式どころの騒ぎではなくなっていた。この模様はフジテレビジョンから全国に放送された。
  • 更にバックスクリーンのスコアボードにもセ・リーグ参加の他5チームに対するお礼のコメントを書いた垂れが掲げられた。
  • 余談だが阪神タイガースはその年、球団創設初の最下位(1987年、1988年、1990年、1991年、1995年、1996年、1998年〜2001年も最下位)と言う結果を出しており、阪神に取っては辛いシーズンであった。

開幕129試合連続得点

初優勝した1978年、ヤクルトは開幕戦から完封負けも0-0の引き分けもなしの記録を129試合続け、ついにシーズン最終戦(対広島)を迎えることになった。広島の先発はプロでは完投経験もなかった2年目の大野豊で、シーズン全試合得点の大記録達成は確実と思われた。ところがこの大野をヤクルト打線は打ち崩すことができずプロ入り初完封勝利を献上、あと一歩のところで記録を逃した。前年からの143試合連続得点は当時の日本記録。のちにシーズンを跨ぐ形の記録は更新されたが、1シーズン全試合得点の記録は2006年までまだ達成した球団はない。

なお、大野はその後ヤクルト戦を得意とするようになり、1998年に引退するまで通算31勝10敗(大野自身の現役通算成績は148勝100敗)、1985年から88年までは12連勝を記録した。

1978年の日本シリーズ

使用球場変更

1978年、ヤクルトは前身の国鉄時代から数えて29年目で初のリーグ優勝を決定し、日本シリーズに駒を進めた。しかし、神宮球場を本来使用するべきところだったが、この時期は東京六大学野球リーグ戦、東都大学野球リーグ戦と開催日が重複しているため、日本シリーズのナイター開催、あるいはその逆で学生野球のナイター開催を双方が提案したが折り合いが付かず、この年のシリーズのヤクルト主催ゲームは後楽園球場に代替して開催された。

その後、1992年・1993年の日本シリーズは学生野球をナイター開催とし、日本シリーズ(デーゲーム開催)の神宮開催が実現している。

上田抗議に大杉の2発

ヤクルトと阪急(現在のオリックス)が共に3勝3敗で迎えた第7試合(10月22日)、ヤクルトが1-0でリードして迎えた6回裏、当時の4番・大杉勝男選手がレフトポールぎりぎりにホームランを放った。しかし、これが後楽園球場のレフトポールを切れてスタンドに入ったのではないか(即ちファールボールではないか)と、阪急の簑田浩二選手と上田利治監督らが抗議。

一時阪急は放棄試合も検討し始め、「審判があんな判定をするんだったら変えるべきだ」とまで要求してしまい、挙句の果ては金子鋭コミッショナーが阪急のベンチに説得するまでの事態に発展。「(コミッショナーである)ワシが頭を下げてもダメなのか!?」と言わせてしまうまでに上田監督は試合再開をかたくなに拒否し、結局1時間19分という日本シリーズ史上最長の中断時間を経て試合が再開された(この時点で上田監督は辞任を決意していたという)。

尚、この時の上田監督と金子コミッショナーの会話はテレビ中継の集音マイクで拾われており、そのまま放送されていた。

異様な雰囲気が続く中、大杉はベンチの中で「人の仕事にケチをつけやがって」と1人憤慨していたという。その後8回裏に「正真正銘のホームラン」を放ち、阪急に引導を渡した。大杉はこのシリーズのMVPを獲得している。

なお試合終了=優勝決定後、1塁側内野席で日本一を称えるくす玉が割られると同時に、リーグ優勝の時同様ファンがスタンドから飛び出し、広岡監督を選手共々胴上げする光景が見られた。

本拠地で優勝チームの胴上げ

ヤクルトは1985年1986年に2年連続で最下位になったが、1985年は阪神タイガースの優勝、翌1986年は広島東洋カープの優勝と2年連続で本拠地の神宮球場で許した。2年以上連続で最下位になったチームがその内2年以上連続で自分たちの本拠地で敵将の胴上げを許しているのはセ・リーグではヤクルトだけである。87年以降神宮球場での他球団胴上げは99年の中日ドラゴンズのみである(日本シリーズでは92年の西武ライオンズがある)

日本プロ野球選手会脱退

1985年日本プロ野球選手会労働組合の資格を得た。だが、当時のオーナー松園尚巳は「(親会社の)ヤクルト本社をはじめ、グループ内で労組を結成している会社は無い」として、ヤクルト選手会を労組選手会から脱退させた(労働組合格の選手会は脱退したが、社団法人格の選手会には継続して参加)。

この際、本社側からは「表向きには“労組脱退は選手の自発的な行動”とするように」などとする緘口令が敷かれたが、脱退を表明する記者会見で当時の選手会長角富士夫が声明文を読み上げる際『表裏一体』を“おもてうらいったい”と誤読してしまうハプニングがあった。

しかし1989年、当時の球団社長桑原潤が「労組といっても、政治的な背景があるわけではない」と活動に理解を示したことなどから、ヤクルト選手会は労組選手会に復帰した。

プロ野球史上最長試合

1992年9月11日の対阪神戦(甲子園)で記録(6時間26分)。

この試合、3対3で迎えた9回裏、阪神八木裕のレフトへの当たりが、一度はホームランと判定されて阪神のサヨナラ勝ちと思われたが、ヤクルト側の抗議を受けエンタイトルツーベースに訂正される。今度は阪神側が抗議し、この判定を巡って37分間中断。結局エンタイトルツーベースで試合が再開されるも、共に優勝を争う両軍は譲らず、7回からロングリリーフした岡林洋一の力投もあり、延長15回引き分けに終わった。

この記録は2005年シーズン終了時でも破られておらず、また延長の規定が12回までと短縮されてしまったので、当分は破られそうにない。

なお、中断なしでの最長試合もヤクルトがらみ(1996年9月8日対横浜戦(下関) 6時間19分)である。

交流戦での最も遅い終了時間としては、これもヤクルトがらみで2006年5月21日のヤクルト-ソフトバンク戦において0時12分という終了時刻を記録した。なお、この時は東都大学野球が長引き、試合開始時刻が30分遅れていた。

幻の「優勝決定プレーオフ」

1992年のセ・リーグは史上まれにみる混戦となり、9月下旬の段階でヤクルト、阪神、巨人、広島の4チームに優勝の可能性があるという状態だった。最終的に優勝の可能性が残ったヤクルトと阪神が、同率で並ぶ可能性があったため、急遽「プレーオフ委員会」が開かれ、「2勝したほうが優勝とし、第1戦を甲子園、2戦目を神宮、3戦目を東京ドームでおこなう」プレーオフを実施するとあらかじめ決定していた。第3戦が東京ドーム開催とされたのは、最終戦(10月11日)と日本シリーズ開幕(10月17日)の間にわずかな日数しかなく、雨天での順延を避けるためである(当時公式戦に使用できるドーム球場は東京ドームだけであった)。

甲子園で最後の直接対決2連戦を阪神が連勝すれば、プレーオフ実施となったところであったが、その1戦目(10月10日)でヤクルトが勝って優勝が決定し、プレーオフは幻に終わった。

高得点の1点差試合の日本記録

1993年5月19日・神宮球場での広島東洋カープ戦は、1回表に広島の先頭打者が一塁手・広沢のエラーで出塁するという、はなから波乱じみた幕開けとなった試合。ヤクルトの先制後に広島が逆転するが、ヤクルトが3回裏に池山隆寛の1イニング2本塁打(3ランと満塁)などで逆転した。しかし、広島もジワジワと追い上げ、ヤクルトはこの年から抑え投手となった高津臣吾を投入するが、8回に追いつかれてしまう(この試合の頃では高津は抑えとして信用されていたわけではなかった)。結局試合は延長戦に突入し、広島はエース佐々岡真司までも投入するが、午前0時を回った延長14回にヤクルトがサヨナラ勝ち。この試合がヤクルトの快進撃と広島の急降下のきっかけとなった。

試合終了後、インタビューに答えた池山が「1イニング2ホーマーが昨日のことのようだ」と話したが、すでに午前0時を回っていたため、本当に昨日のことだったという笑い話がある。 なお、この試合のスコアは以下のとおり。

1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14
広島 0 1 4 2 1 1 1 6 0 0 0 0 0 0 16
ヤクルト 2 0 11 0 1 0 2 0 0 0 0 0 0 1X 17

1995年の開幕3連戦

1993年の日本一から、1994年は一転してあわや最下位のBクラス(4位)へ転落。さらに主軸の広沢克己ジャック・ハウエルの2人が前年優勝の巨人へ移籍、そしてその巨人と開幕3連戦でぶつかることとなり、ヤクルトは最初から正念場に立たされた。初戦は斎藤雅樹に完封され、続く第2戦も桑田真澄に8回まで完璧に抑え込まれ、連敗の気配が濃厚となったその時、桑田が飯田哲也に頭部死球を与えてまさかの一発退場。突然の登板に戸惑う巨人のリリーフ投手陣に連打を浴びせ、土壇場で大逆転勝ちを収める。続く第3戦も接戦で制して、まさかの開幕戦勝ち越しを果たし、これがこの年の優勝へ繋がるシーズンの分岐点となった。

この「頭部死球は即退場」というルールは、この前年のヤクルト-巨人戦で、ヤクルトの西村龍次が巨人の村田真一の頭部に死球を与えたことを発端に定められたもので、それが皮肉にもヤクルトを利する結果となってしまった。

1997年優勝

シーズン開幕前、オマリーが退団し4番が不在になり、落合の獲得を目指したが失敗。オマリーの後釜として期待された新外国人のホージーもキャンプで酷評されオープン戦でも不調で悲壮感が漂っていた。一方開幕戦の相手で連覇を目指す巨人は清原和博ヒルマン石井浩郎を獲得。優勝の大本命に挙げられていた。

迎えた開幕戦、巨人の先発は4年連続開幕戦完封勝利を目指す斎藤雅樹。しかしヤクルトは広島から移籍した小早川毅彦の3打席連続本塁打で斎藤を粉砕。野村克也監督が「135分の135。負けたら終わり」とまで言い切っていた開幕戦の勝利で勢いづいたチームは開幕ダッシュに成功。さらに怪我の高津臣吾に代わって伊藤智仁がストッパーに定着、抜群の安定感を見せる。また開幕前からダメ外人の烙印を押されていたホージーのまさかの活躍などもありペナントレースを独走。このまま優勝かと思われたが8月頃から横浜が猛追。最大10あったゲーム差を2.5まで縮められた。しかし大事な横浜との天王山で石井一久がノーヒットノーランを達成し勢いを取り戻し、最終的には横浜に9ゲーム差をつけ、開幕から1度も首位の座から転落することなく優勝した。

2001年のリーグ優勝

シーズン開幕前は、川崎憲次郎の退団・伊藤智仁の怪我などがあり先発投手陣に不安を抱えていたため前評判は例によって著しく低かった。しかし、先発の穴を藤井秀悟入来智前田浩継の新戦力で埋め前半戦を2位(勝率では1位)で折り返す。

後半戦は開始当初は好調を維持していたが8月下旬に古田敦也が負傷し戦線離脱すると徐々に成績が低下。2位巨人との最終3連戦では3連敗を喫し、残りを大きく勝ち越さないと逆転優勝を許すという窮地に立たされる。しかし、その巨人がシーズンを4連敗で終えたうえ、ヤクルトも直後の中日との4連戦(ナゴヤドーム)で4連勝して再び突き放し、10月6日の横浜スタジアムで優勝を決めた。

そしてこのシーズンのキーワードのひとつになったのが勝ち数優先の順位決定である。2001年、セ・リーグは勝数で順位を決定(ただし、勝数が最も多い球団と勝率が最も高い球団が異なる場合はプレーオフで優勝決定)する方式へと変更し、マスコミ等に掲載される順位表も勝数順とされた。しかし各球団試合消化数には違いがあり、実際に優位に立つのは勝率の高いチームであった。

ドーム球場をフランチャイズとし順調に試合を消化した巨人に対し、雨天中止があるヤクルトは例年に比べさらに試合消化が鈍かった。このため前半戦終了時には巨人の方が試合数が多いため勝数も多く首位に立ったが、勝率ではヤクルトが上回り、ゲーム差(勝数優先の順位表では表示されなかったが)でも4.5差をつけていた。この「隠れ首位」の状態は8月まで続き、ヤクルトはその間首位の重圧から解放され、巨人は首位にも関わらず追いつめられた状況に陥るなど、順位決定制度が精神的にヤクルト側へ有利に働くこととなった。

このような経緯があったためか、2002年からは勝率優先の順位へと戻った。ただし、勝率が最も高い球団と勝数が最も多い球団とが異なる場合はプレーオフで優勝決定する事は変わらない。

史上最速でのサイクルヒット

2003年7月1日横浜ベイスターズ戦(松本市野球場)で、稲葉篤紀は第1打席から順番に三塁打、本塁打、単打、二塁打の順番でサイクルヒットを達成したが、これは5回までに達成するという史上最速の記録だった。試合は5回雨天コールドゲームで試合終了となったが、サイクル安打がコールドゲームで記録されたのも日本プロ野球史上初めてのことだった。 尚同日阪神の桧山もサイクルヒットを記録していた。

対巨人7年連続負け越し中

ヤクルトは巨人のエース上原浩治を大の苦手にしており、1点差や2点差の僅差の試合でも平気で完投させてしまっている(その中には1-0というスコアで完封勝利させてしまう試合まであった。ちなみに、ヤクルトの上原との通算対戦成績は勝利数、三振数、勝率、総得点ともにダントツでリーグワーストである)上に、上原の自己最高記録である1試合14奪三振を2度も許している(上原に1試合14奪三振を許しているのはヤクルトと楽天)。その他にも桑田真澄をはじめとして苦手投手が多く、これが響いてかヤクルトは優勝した2001年から毎年巨人に負け越し続けている。2001年や2004年2005年2006年はセ・リーグ5球団の中で対巨人戦は勝率、敗数共にリーグワーストであり、特にBクラスに転じた2005年はその上原や桑田が大不振に陥っており、巨人が低迷していたにもかかわらずヤクルトは彼らからなかなか点を取ることができず、セ・リーグ5球団の中で唯一巨人に負け越した。

2007年はチーム自体が低迷している中、7月6日 - 8日の神宮球場での3連戦で3連勝し、負け越しを阻止するかに見えたが、その後は4連敗を含む連敗を重ね、9月11日に5-6でジャイアンツに敗れ、7年連続負け越しが決定、同年10月2日に1点リードの9回裏、宮本慎也の悪送球でサヨナラ負けを喫し、17年ぶりにジャイアンツの胴上げを目の前で見ることとなった。

また、1994年オフにはジャック・ハウエル広澤克実が、2002年オフにはロベルト・ペタジーニが、2007年オフにはアレックス・ラミレスセス・グライシンガーとチームの主力となる選手が相次いで巨人へ移籍するという事態となっている。

ロケットボーイズ

  • 2人のリリーフ投手五十嵐亮太石井弘寿のコンビ。五十嵐は日本人右投手最速の158km/hの直球を、石井は日本人左投手最速の155km/hの直球をそれぞれ持った球界最速のリリーフコンビとしてその名を轟かせている。「ロケットボーイズ」という愛称自体は、2002年5月にファンの公募により決められた。
  • もともとリリーフエース・高津臣吾へ繋ぐセットアッパーとしての役割を果たしていたが、高津がFAシカゴ・ホワイトソックスに移籍したことにより2004年から五十嵐がストッパーとなる。五十嵐は抑えの守護神として2004年度、リーグ最多の66試合に登板し球団新記録となる42セーブポイントを挙げ最優秀救援のタイトルを獲得した。一方の石井は2004年度、故障とアテネオリンピック出場でチームを離れることが多かったが、後半戦における登板機会は多く、中継ぎエースとして活躍した。先発投手から石井→五十嵐への継投はヤクルトの盤石の投手リレーであった。

社会人野球大会出場

F-Projectとヤクルトタウン

2005年秋に古田敦也が監督に就任し、日本プロ球界では29年ぶりとなる選手兼任監督が誕生した。日本プロ野球選手会の会長でもあった古田は、かねてから「ファンにとって、プロ野球をもっと身近な存在にしたい」という想いが強く、また2004年球界再編問題で自ら奔走した経験から、その想いをより強くした。そこで監督就任と共にファンサービス向上や地域密着の強化などを柱とした球団改革構想「F-Project」の活動を同年11月1日に開始した。

F-Projectの「F」はFuruta(古田)の他、プロジェクトが目指すFan(ファン)、Fun(楽しむ)、Full(満員の球場)の3つの言葉を表しており「よりファンと選手・チームの距離を身近なものにして、本拠地の明治神宮野球場をスワローズファンで満員にし、且つ単に応援するだけでなく、ファン自らチームに参加してもらい、共に楽しみを分かち合いたい」という願いが込められていた。プロジェクトには古田の他、ヤクルト球団職員、外部からもカカクコム社長の穐田誉輝(当時。現相談役)や芸能・放送関係者を招聘し、IT産業やマスメディアを巻き込んだ球団の多角的経営を目指すことを打ち出した。同年11月23日に神宮で行われたファン感謝デーに合わせて、球団モバイルサイトのURLのQRコードが刷り込まれた名刺が作成され、当日は古田自らファンにこの名刺を配布するパフォーマンスが繰り広げられた。また都内の企業ともオフィシャルパートナーシップを締結、カカクコムの他、家電製造業のユニデンとも契約した(2006年からホーム用ユニフォーム左胸部分にロゴマークを掲出)。また都民参加型のチームを作るという観点から東京都民銀行ともスポンサー契約を締結した。

さらに古田は球団に対し、当時の球団名「ヤクルトスワローズ」に「東京」を冠し、地域密着をアピールすることを提案した。古田は1990年代半ばから契約更改交渉の席などで球団幹部に対し「球団名に都市名か地域名を入れることはできないか」と提案を続けてきたものの実現には至らなかったが、球団もF-Projectの立ち上げを機に協力することを決定。球団名を「東京ヤクルトスワローズ」と変更した(同年12月19日のプロ野球実行委員会で承認)。なお、球団名に「東京」を冠していた球団は過去に例があり、戦前の東京巨人軍(読売ジャイアンツ)、東京セネタース大東京軍(いずれも消滅)、戦後の東京オリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)の4球団。東京オリオンズは1969年を最後に「ロッテ」に改称したが、東京ヤクルトはそれ以来37年ぶりに「東京」を冠する球団となった。また、これを機に神宮球場がある明治神宮外苑周辺の新宿区港区渋谷区の3つの特別区をホームタウンと位置づけ、「スワローズタウン(ヤクルトタウン)」と銘打って地域密着活動を行う方針も決定した。

このF-Projectが立ち上げられた背景には、ヤクルトの主催公式戦の観客動員数が慢性的に減少していたという事実がある。14年ぶりのリーグ優勝を果たした1992年には2,477,000人を集めたが、以後は徐々に減少。2005年から動員数は実数発表となったが、同年は130万人台にとどまった。本拠地の神宮球場ではスワローズファンの来場者減少が顕著な一方でビジター球団のファンの来場者が多く、ビジター側のファンがスワローズファンの数を上回ることがしばしばある。特に阪神タイガース戦ではビジター側の三塁・左翼側だけにとどまらず、あぶれた観客がホーム側の一塁・右翼側に入場するケースも多い。こうした現状に対し、選手会長の宮本慎也は「かなり複雑な気分。観客数が多くても自分たちを応援してくれる人が少ないのは寂しい」、五十嵐亮太も「神宮はヤクルトの本拠地だが、阪神ファンの方が多い」と語るなど、選手の間からも現状を憂える声が挙がっており、スワローズのファン層を拡大し、来場者を増やすことが求められていた。

また、神宮球場でのデーゲーム開催数を増やす方針も打ち出された。神宮球場は学生野球(東京六大学野球連盟東都大学野球連盟)公式戦のスケジュールが優先されているため、ヤクルト主催公式戦は4月初旬の週末を除き、ほとんどがナイター開催となっていた。だが2005年から球団は学生野球側と積極的に折衝を行うようになり、デーゲームの開催数が増加。東都リーグが開催されている6月にもデーゲームが開催されるようになった。さらにF-Projectの活動開始に伴って折衝が行われた結果、2006年には東都リーグに割り当てられていた5月3日5月4日のデーゲーム枠を取得(代わって東都はナイター開催)、集客力の高いゴールデンウイークのデーゲーム開催を実現した(神宮球場の使用権については明治神宮野球場#優先使用権も併せて参照)。

この他、都内を本拠とする他のプロスポーツチームとの提携も積極的に進め、2006年7月にはJリーグFC東京と「東京のスポーツ振興」に共同で取り組むと発表。双方のファンの取り込みを目指した共同キャンペーンなどを展開している。また同年9月にはbjリーグ東京アパッチとも提携を結んだ。

なお古田の引退・監督辞任により、F-Projectは2007年シーズンをもって活動を終了したが、球団は2008年以降もファンサービスの改善に取り組む意向を示している。

主な活動

2006年

プロジェクト初年度は「チームとファンの新しい関係」をテーマに、ファンに親しまれる球団をアピールする活動を行った。

2007年

2年目は「ファンによる、ファンのための神宮」がテーマ。前年はファンの来場回数増加など一定の成果を挙げたが、ファンから寄せられた意見を反映して、より楽しめる環境づくりを目指した。

主な企画

  • 応援メッセージボードデー
    紙・または布に選手への応援メッセージを書いてもらう(手持ちのみ可。所定サイズあり)
  • 仮装応援デー
    ファンにコスプレをして応援してもらう。その出来栄えを審査し、優勝者に黄金の傘をプレゼント(傘振りコンテストという東京音頭などに乗って傘を持って応援する技術を競うコンテストもあり(優勝者には黄金傘のプレセントあり))
  • メガネデー
    古田監督がメガネをトレードマークにしていることや、アイメトリックス社とコマーシャルキャラクター契約を結んでいることなどもあって企画されたものである。この日は球団関係者(選手含む)は皆メガネを着用して会場入りする。ファンもメガネ(伊達メガネもOK)を着用し、面白いものを審査して賞品をプレゼントする企画もある。詳細は古田敦也#野球に関する話題も併せて参照。

明治神宮外苑創建80年記念奉納試合

明治神宮外苑創建80年を記念して、2006年11月4日に東京六大学選抜とスワローズのアマ・プロ交流試合が実施された。「この一戦、球界史上初」と銘打たれたこの試合は、シーズンオフにも関わらず23,010人の観衆を集め、東京六大学合同応援団とスワローズ私設応援団とのエール交換など普段見られないシーンもあって盛り上がりを見せた。試合はスワローズが3-2と接戦を辛うじて制し、プロの意地を見せた。なお、記念試合は1度のみの予定であるが、古田監督は継続実施を希望するコメントを出しており、今後も継続して行われる可能性もある。

ベンチはクラブハウス位置の関係でスワローズが1塁側、代わりに東京六大学選抜が後攻となった。通常内野席に陣取る東京六大学の応援団も、この日は外野席での応援であった。スワローズのメンバーは、帰国済みの外国人選手とFA移籍を控えた岩村明憲が欠場したものの、出場選手はほぼ一軍に在籍した選手が出場している。なお、同日に東京ドームで実施されていた日米野球のメンバーに選ばれていた青木宣親が、早稲田大学出身ともあってこの試合に出場し、その後ナイター開催の日米野球にも出場するダブルヘッダーをこなした。

セ・リーグ1試合最多タイホームラン

2007年7月11日広島東洋カープとの対戦において、両チーム12本のホームランを放ち、延長11回参考記録ではあるが1試合の合計本塁打数のセ・リーグ最多タイ記録を樹立した。また、1試合8チーム本塁打はスワローズの球団新記録である。試合は延長11回、ラミレスのサヨナラホームランでスワローズが12-10で勝利した。

人事面に関する問題

東京ヤクルトは国鉄、サンケイ時代を通じた過去において、一軍で長年活躍し実績を挙げたチームの功労者を厚遇する一方、不振が続くと実績如何にかかわらず容赦なく人事整理を行ってきた一面がある。

広岡監督電撃辞任騒動

1978年広岡達朗監督の下で球団史上初の日本一を勝ち取ったヤクルトは、翌1979年は開幕から失速し下位に沈んだ。7月、当時の球団オーナー松園尚巳はヘッドコーチの森昌彦、投手コーチの植村義信の両名を二軍降格するよう広岡に勧告。しかし広岡は現場一任を求め、事態は一旦収束した。ところが翌8月、突如として当時の球団社長が森、植村の無期限休養を一方的に発表した。また一連の動きが球団幹部からメディアに漏洩していたこともあって広岡は8月17日に電撃辞任、同日の読売ジャイアンツ(巨人)戦は広岡、森、植村の3人が不在のまま、打撃コーチの佐藤孝夫が代理監督を務める異常事態となった。結局このシーズンは最下位に沈み、その後ヤクルトは実に14年もの間リーグ優勝から遠ざかり低迷を続けた。

広沢克己に「君の時代は終わった」発言

1984年秋のドラフト1位でヤクルトに入団した広沢克己は、ルーキーイヤーの翌1985年から主軸に定着し、チーム内・ファンからも愛された選手であった。ところが9年目のシーズンを終え、15年ぶり日本チャンピオンとなった1993年オフのある日、広沢は契約更改の席で球団幹部に(同年セリーグMVP獲得した古田がチームの顔となった事に関連し)「君の時代は終わった」との言葉を投げかけられた。ショックを受けた広沢はFA権を行使して翌1994年オフ、読売ジャイアンツに移籍した。

古田選手兼監督に「引退勧告」

2007年選手兼任監督古田敦也はかねてから傷めていた右肩の回復具合が思わしくなく、出場試合数も8月の段階で僅か3試合にとどまっていた。古田自身はシーズン序盤の段階で現役引退を決意し、シーズン終盤にタイミングを計った上で現役引退を表明する心積もりであった。一方、球団幹部は古田との2年契約が切れることから翌年以降の契約交渉を行うため、8月上旬の段階で「2008年以降は監督専任とし、現役は今季限りで引退」という条件を提示する意向を示していた。ところが、この旨を鈴木正球団社長がメディアを通じて公表したことで、これが事実上の“引退勧告”となったことから古田は態度を硬化、交渉は暗礁に乗り上げた。結局東京ヤクルトがクライマックスシリーズ進出を逃しBクラスが確定した段階で、古田は「チームの不振の責任を取りたい」として現役引退、さらに監督も退任して退団する旨を表明した(当時の状況に関する詳細は古田敦也#現役引退、監督退任へも併せて参照)。

高津臣吾、突然の戦力外

10月10日には高津臣吾が戦力外通告を受けた。また通告の旨を発表した際、鈴木は報道陣を前に「(“早めに去就を相談し、お別れ出場などの配慮を行うべきだったのでは”という問いに)それが配慮だとは思わない。現役を続けたければトライアウトを受ければいい」と発言した。この高津の解雇に対して球団には約600件の苦情が寄せられた。これを受け、球団は10月15日になって球団Webサイトに鈴木名義で謝罪文を掲載した。[1]高津はその後、シカゴ・カブスとマイナー契約を結ぶ。

本拠地移転に関するエピソード

後楽園球場から神宮球場移転の経緯

1964年当時後楽園球場の放送権は日本テレビのみに放送権があり、国鉄から球団株が渡った産経新聞社、当時ニッポン放送と文化放送の合資子会社のフジテレビには放送権を持っておらず、当時東映フライヤーズが後楽園球場に移転した事により、フランチャイズを後楽園球場から神宮球場に変えた。しかし、内部抗争により金田正一投手等を放出することとなった。

なお当初は神宮第2球場を本拠地にすることを計画していたが、グラウンドサイズが公式野球規格に適合しない恐れがあることや、第2球場をアマチュア専用にしたいという意向・学生野球連盟の反対運動まであったことなどから第2球場の改修を見送って、本球場を通年利用できる専用球場として登録した。

宮城球場移転構想

2004年6月、宮城県の複数の市民団体がヤクルトスワローズを同県仙台市宮城球場に誘致する活動を開始した。宮城球場は1973年から1977年までの5年間、ロッテオリオンズ(現千葉ロッテマリーンズ)が暫定的に本拠地とするなど多数のプロ公式戦が開催されていたが、近年は老朽化や狭隘化など設備の陳腐化が著しく、県の財政難などもあり改修・改築もままならない状況で、その打開策としてプロ球団を誘致する構想が浮上した。またヤクルト球団は神宮球場の使用契約更新を1年毎に行っているが、これが不安定要素であるとして「ヤクルトが本拠地移転を検討している可能性がある」との情報から、活動を活発化した(但し当時、ヤクルト球団はその旨の意思表示は公式には全く行っていなかった)。団体は非公式ながら署名など誘致活動を行い「5年後を目途に誘致したい」という意向を見せていたが、直後にオリックス・ブルーウェーブと大阪近鉄バファローズの合併問題に端を発する再編騒動が勃発、その後は宮城県を保護地域とする新規参入球団の構想が浮上した事[2]により、同県のヤクルト誘致構想はそれに引き継がれる形で消滅した。

スワローズ戦の放送権事情

地上波ナイター中継での放送事情の歴史

※デーゲーム地上波中継は時々、フジテレビテレビ朝日テレビ東京NHK、ビジターでTBSで放送される為、ここではヤクルト対巨人戦以外での地上波ナイター中継のみ表示します。

  • 1950年 日本テレビ放送網巨人と同じく放送権を保有。
  • 1964年 国鉄スワローズからサンケイスワローズに改称し、球場も後楽園球場から神宮球場に変更した為、日本テレビから放送権が外れる。(なお現在日テレはヤクルト球団と無関係の東京六大学野球中継と日米野球等のイベント時のみ神宮球場から中継することがある。また2軍の戸田球場での対2軍巨人戦の放送権を保有している。)
  • 1964年 フジテレビ、テレビ朝日、TBS、NHKが放送権獲得し地上波放送を開始。しかし、他地域の敵チームのみ放送される事が多くなる。
  • 1967年 テレビ東京でようやく地上波放送を開始。しかし、他地域の敵チームのみ放送される事が多い、
  • 1976年 TBSが放送権から外れる。
  • 1978年 優勝マジック1になりかかった時に地上波放送が多くなる。
  • 1981年 - 2001年 巨人戦以外の中継はテレビ朝日が放送時間延長なしで年数回全国ネットで実施した。時折西武ライオンズ主催ゲームとの二元中継も実施した。フジテレビは対戦相手の地元局向けの技術協力が主体となる。
  • 1992年 サンテレビまたは朝日放送が単独及び共同(試合開始 - 7時、9時24分 - 試合終了までサンテレビ持ち、7時 - 9時24分まで朝日放送)で神宮球場での対阪神戦ビジター放送開始(関東ローカル及びテレビ朝日では放送されない、またトップ&リレー中継の元祖と言われている)。これとは別にテレビ朝日が全国ネットで中継することがあった。
  • 1992年 優勝マジック1になりかかった時に12年ぶりに放送が見直され、フジテレビでは初めて番組を差し替えて放送。
  • 1995年 東京MXテレビが開局し放送される事が期待されるも神宮球場の対中日戦のみ中継開始。
  • 1997年 優勝マジック1になりかかった時の放送ではダウンタウンのごっつええ感じを差し替えて放送し、スペシャル放送を1週遅れにした事による出演者とスタッフとの対立により、打ち切りに追いやった伝説がある。
  • 2001年 東京MXテレビがサンテレビの阪神戦を取り扱う様になり、時々甲子園球場と大阪ドームでの中継で放送される様になる。
  • 2001年10月4日 神宮球場で世にも奇妙な物語を中断させて、緊急野球中継として、放送したが、阪神と引き分け、10月6日ではドラマ再放送枠を打ち切って放送された。
  • 2003年 日テレ系列で放送中の広島市民球場での広島対巨人戦が雨でノーゲームとなり、残りの時間は甲子園球場で阪神対ヤクルト戦を放送した。
  • 2003年9月11日 放送権を横浜戦しか取り扱わないtvkがサンテレビでの神宮球場のネット放送が中継される。
  • 2005年 巨人戦の視聴率不振により、ヤクルト戦がCS送りになり、初めてフジテレビ地上波で深夜放送される。なおBSフジは未放送。
  • 2006年 巨人戦の視聴率不振により、テレビ朝日でも東京ヤクルト戦の放送分がBS朝日にくら替え放送が多くなった。
  • 2007年 巨人戦の視聴率不振により、その中でも巨人戦中継を増やす考えを持っていたテレビ東京にも放映権が渡された。テレビ東京でヤクルト主催試合放送は久しぶりのこととなった。(オープン戦・裏送りは除く)
  • 2007年10月7日 古田敦也引退試合の模様を新報道プレミアAスペシャル内で放送(ただしアナウンサーとのからみなし)。

BS局での放送事情の歴史

  • 2000年12月1日BSフジが開局し翌年シーズンから開始。しかし横浜戦だけ優先させられ打ち切りとなり現在も2006年のオールスター中継以外未放送。またBS朝日BSジャパンも開局したが、BS朝日はテレビ朝日の東京ヤクルト戦が放送できない場合はナイター中継をカバーをするが、BS朝日、BSジャパンは巨人戦以外の東京ヤクルト戦ナイター中継は1度も放送していない。
  • 2005年交流戦が開始。しかし、BS朝日では西武対中日戦と対横浜戦しか放送されず、BS朝日では本来放送されるべきの神宮球場でのヤクルト戦及び西武ドームでの西武対ヤクルト戦(この試合はNHK衛星第一で放送)は放送しなかった。
  • 2006年当初テレビ朝日で放送予定だったヤクルト対巨人戦を急遽BS朝日で放送するという措置を取った。

CS局での放送事情の歴史

  • 1996年パーフェクTV開局、しかし、放送数が少なかった。
  • 1996年ディレクTV開局、パーフェクトチョイスで神宮球場の中継のみ一部テレビ神奈川運営の横浜ベイサイドTVでの放送があるものの、全試合放送カバーされる。ただし地上波とは違って有料放送。
  • 1998年ディレクTVとパーフェクTVが合併し、スカパーが開局。ホーム&ビジター含め全試合視聴可能になる。
  • 2002年CS日本開局により、東京ドームでの巨人対ヤクルト戦が時々見られなくなる現象が起る。
  • 2004年CS日本がスカパー2と合併し、スカパー110(現e2byスカパー)が誕生。G+がスカパーでも放送開始した為、東京ドームでの巨人対ヤクルト戦が時々見られなくなる現象が解消される。
  • 2006年フジテレビ739が巨人戦を除く主催全試合をSWALLOWS BASEBALL L!VEとして全試合放送する。2007年からは対読売ジャイアンツ戦を「プロ野球中継」枠で放送。
  • 2007年9月27日、jsportsの編成が間に合わなかった為、e2byスカパープロモ100ch及びスカパーパーフェクトチョイスのスペシャル放送として広島市民球場の対東京ヤクルト戦のビジター中継を無料放送。
  • 2007年9月30日、27日と同上、jsportsの編成が間に合わなかった為とjsportsでは1度もダブルヘッダーの中継をした事がない為、e2byスカパープロモ100ch及びスカパーパーフェクトチョイスのスペシャル放送として横浜スタジアムの対東京ヤクルト戦のビジター中継のダブルヘッダーを無料放送される予定だったが、9月30日の中継が雨で中止になり、予備日に放送される事となった為、10月8日と9日に分割され、ナイターで放送された。なお10月9日が古田敦也の最後の出場試合となった。

関連項目

脚注

  1. ^ 球団経営に積極的であった産経新聞・フジテレビ社長の水野成夫が病に倒れ、後を継いだ鹿内信隆がフジサンケイグループの事業見直しを行った結果、不採算であったプロ野球からの撤退を決めたもの。当時、ヤクルト本社は水野とは旧知の間柄であった南喜一が代表者であった。
  2. ^ これは東北楽天ゴールデンイーグルスとして実現している。

外部リンク

先代
王貞治
日本プロスポーツ大賞受賞者
1978年
次代
具志堅用高

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