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「経津主神」の版間の差分

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'''経津主神'''(ふつぬしのかみ)は[[日本神話]]に登場する[[神 (神道)|神]]である。[[日本書紀]]のみに登場し、[[古事記]]には登場しない。別名、'''斎主神'''(いわいぬしのかみ)、'''伊波比主神'''(いわいぬしのかみ)。
'''経津主神'''(ふつぬしのかみ)は[[日本神話]]に登場する[[神 (神道)|神]]である。[[日本書紀]]のみに登場し、[[古事記]]には登場しない。別名、'''斎主神'''(いわいぬしのかみ)、'''伊波比主神'''(いわいぬしのかみ)。出雲国風土記では布都怒志命として登場する


日本書紀の[[神産み]]の第六の一書では、[[イザナキ|伊弊諾尊]]が[[カグツチ|軻遇突智]]を斬ったとき、[[十束剣]]から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしている。第七の一書では、軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたことにより岩裂神、根裂神が生まれ、その御子の磐筒男、磐筒女が生んだのが経津主神であるとしている。[[葦原中国平定]]では[[タケミカヅチ|武甕槌神]]を従えて出雲へ天降り、[[大国主]]と国譲りの交渉をしている。[[出雲国風土記]]や[[出雲国造神賀詞]]では経津主神のみが天降ったとしている。
日本書紀の[[神産み]]の第六の一書では、[[イザナキ|伊弊諾尊]]が[[カグツチ|軻遇突智]]を斬ったとき、[[十束剣]]から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしている。第七の一書では、軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたことにより岩裂神、根裂神が生まれ、その御子の磐筒男、磐筒女が生んだのが経津主神であるとしている。[[葦原中国平定]]では[[タケミカヅチ|武甕槌神]]を従えて出雲へ天降り、[[大国主]]と国譲りの交渉をしている。[[出雲国風土記]]や[[出雲国造神賀詞]]では経津主神のみが天降ったとしており、出雲の意宇郡楯縫郷(島根県安来市)で天石楯を縫い合わせたとの逸話が残っている。


神名の「フツ」は刀剣で物がプッツリと断ち切られる様を表すもので、刀剣の威力を神格化した神である。一説には、[[神武東征]]において建御雷神が神武天皇に与えた刀である[[布都御魂]](ふつのみたま)(または佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ))を神格化したものであるともいう。逆に[[先代旧事本紀]]では、経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。
神名の「フツ」は刀剣で物がプッツリと断ち切られる様を表すもので、刀剣の威力を神格化した神である。一説には、[[神武東征]]において建御雷神が神武天皇に与えた刀である[[布都御魂]](ふつのみたま)(または佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ))を神格化したものであるともいう。逆に[[先代旧事本紀]]では、経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。

2008年3月15日 (土) 09:49時点における版

経津主神(ふつぬしのかみ)は日本神話に登場するである。日本書紀のみに登場し、古事記には登場しない。別名、斎主神(いわいぬしのかみ)、伊波比主神(いわいぬしのかみ)。出雲国風土記では布都怒志命として登場する。

日本書紀の神産みの第六の一書では、伊弊諾尊軻遇突智を斬ったとき、十束剣から滴る血が固まって天の安河のほとりの岩群となり、これが経津主神の祖であるとしている。第七の一書では、軻遇突智の血が天の安河のほとりの岩群を染めたことにより岩裂神、根裂神が生まれ、その御子の磐筒男、磐筒女が生んだのが経津主神であるとしている。葦原中国平定では武甕槌神を従えて出雲へ天降り、大国主と国譲りの交渉をしている。出雲国風土記出雲国造神賀詞では経津主神のみが天降ったとしており、出雲の意宇郡楯縫郷(島根県安来市)で天石楯を縫い合わせたとの逸話が残っている。

神名の「フツ」は刀剣で物がプッツリと断ち切られる様を表すもので、刀剣の威力を神格化した神である。一説には、神武東征において建御雷神が神武天皇に与えた刀である布都御魂(ふつのみたま)(または佐士布都神(さじふつのかみ)、甕布都神(みかふつのかみ))を神格化したものであるともいう。逆に先代旧事本紀では、経津主神の神魂の刀が布都御魂であるとしている。

古事記においては、建御雷之男神の別名が建布都神(たけふつのかみ)または豊布都神(とよふつのかみ)であるとしており、葦原中国平定は建御雷之男神が中心となって行っているなど、建御雷之男神と経津主神が同じ神であるように書かれている。布都御魂を祀る石上神宮物部氏の武器庫であったと考えられていることから、経津主神も元々は物部氏の祭神であったと考えられる。後に中臣氏が擡頭するにつれて、その祭神である建御雷神にその神格が奪われたものと考えられている。

経津主神は香取神宮で主祭神として祀られているが、香取神宮と利根川を挟んで相対するように、建御雷神を祀る鹿島神宮がある。また、春日大社では経津主神が建御雷神らとともに祀られている。これは香取神宮・鹿島神宮のある常総地方が中臣氏(藤原氏)の本拠地であったため、両神社の祭神を勧請したものである。また、鹽竈神社でも経津主神・建御雷神がシオツチノオジとともに祀られている。

関連項目