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==経歴==
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2008年3月27日 (木) 03:56時点における版

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日本の旗日本国 内閣総理大臣
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生年月日
銅像(香川県観音寺市)

大平 正芳おおひら まさよし1910年3月12日 - 1980年6月12日)は、日本大蔵官僚政治家。第68・69代内閣総理大臣正二位大勲位

経歴

生い立ち

香川県三豊郡和田村(現観音寺市)の中農・大平利吉の次男として生まれる。和田村立大正尋常高等小学校(現観音寺市立豊浜小学校)、旧制三豊中学校(現香川県立観音寺第一高等学校)、に進み、海軍兵学校を受験したが身体検査で不合格となったため高松高等商業学校(現香川大学経済学部)に進む。1936年(昭和11年)東京商科大学(現一橋大学)卒業。在学中は、上田辰之助ゼミナールに所属していた。

大蔵省時代

1935年(昭和10年)、高等試験行政科試験合格。当時大蔵次官だった同郷の津島寿一の勧めで1936年大蔵省に入省。以下の役職を歴任した。

  • 1937年(昭和12年): 横浜税務署長
  • 1939年(昭和14年): 興亜院にて大陸経営にかかわり、しばしば現地にも出張
  • 1942年(昭和17年): 本省主計局主査
  • 1945年(昭和20年): 津島寿一大蔵大臣の秘書官
  • 1946年(昭和21年): 初代給与局第三課長
  • 1948年(昭和23年): 経済安定本部建設局公共事業課長
  • 1951年(昭和26年): 池田勇人大蔵大臣の秘書官

政治家としての活動

池田側近として

1952年(昭和27年)、大蔵省時代の上司だった池田勇人の誘いを受け、大蔵省を退官し自由党公認で衆議院議員に立候補し当選。以後、連続当選11回。

宮澤喜一黒金泰美らと池田勇人側近の秘書官グループと呼ばれる。1960年(昭和35年)に第1次池田内閣で官房長官に就任。「低姿勢」をアピールする同内閣の名官房長官と評された。続く第2次池田改造内閣で外務大臣

宏池会会長

次の佐藤政権では政調会長を務めたのち第2次佐藤内閣の2度目の改造内閣で通商産業大臣、第1次・第2次田中内閣で再び外務大臣、第2次田中改造内閣・三木内閣で大蔵大臣を務めるなど、内政外政にかかわる要職を歴任した。

また1971年(昭和46年)、「大平クーデター」で前尾繁三郎にかわって宏池会会長に就任、1980年の死去まで派閥の領袖として自民党リーダーの一翼を担った。

三角大福の争い」となった1972年(昭和47年)総裁選では3位につけ、その後も田中角栄と盟友関係を続ける。田中内閣で外務大臣だったときに中国を訪問、それまでの台湾との日華平和条約を廃し、新たに日中の国交正常化を実現させた。

その後1974年(昭和49年)12月の田中金脈政変で田中が総理を辞任すると大平はポスト田中の最有力候補となり、田中派の後押しを背景に総裁公選での決着を主張、しかし椎名裁定により総理総裁は三木武夫に転がり込んだ。

1976年(昭和51年)の三木おろしでは再び総裁を狙うも、最終的に福田赳夫と「2年で大平へ政権を禅譲する」と約束したいわゆる「大福密約」を結び、福田内閣樹立に協力し、自民党幹事長ポストを得る[1]。保革伯仲国会では大平幹事長は「部分連合(パーシャルれんごう)」を唱えて野党に協調的対応を求め、国会運営を円滑化に努める。

総理大臣就任

1978年(昭和53年)の自民党総裁選挙に福田は「大福密約」を反故にして再選出馬を表明、大平は福田に挑戦する形で総裁選に出馬する。事前の世論調査では福田が有利だったが、田中派の全面支援の下、総裁予備選挙で福田を上回る票[2]を獲得。この直後の記者会見で、「一瞬が意味のある時もあるが、十年が何の意味も持たないことがある。歴史とは誠に奇妙なものだ」と発言し、「大福密約」の無意味さについて触れている。この結果を受けて福田は本選を辞退、大平総裁が誕生し、1978年12月7日に第68代内閣総理大臣に就任した。

総理在任中の政策

1980年1月、外遊先のアメリカ合衆国メリーランド州アンドリュース空軍基地にて(後方は志げ子夫人)

大平は直属の民間人有識者による長期政策に関する研究会を九つ設置し、内政については田園都市構想、外交においては環太平洋連帯構想総合安全保障構想などを提唱した。

大平政権期の世界は、1978年に発生したイラン革命と第二次石油危機の余波、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻などといった事件によって、「新冷戦時代」と呼ばれる環境にあった。このような情勢への対応として、大平は日米の安全保障関係を日本側から公の場では初めて「同盟国」という言葉で表現し[3]、米国の要望する防衛予算増額を閣議決定した。また「西側陣営の一員」として1980年のモスクワオリンピック出場ボイコットを決定するなど、後の中曽根康弘政権へと継承される対米協力路線を鮮明にした政権であった[4]

また環太平洋構想によってアジア太平洋地域のの経済的な地域協力を模索したり、総合安保構想によって地域経済やエネルギー供給などを含む包括的かつ地球規模での秩序の安定化を図る安全保障戦略を模索するなど、「国際社会の一員」としての日本の役割を意識した政策を打ち出した。

四十日抗争と衆参同日選挙

政権基盤が強固ではなく田中角栄の影響が強かったことから、大平内閣は「角影内閣」と呼ばれた。大平を支える田中派など自民党主流派と福田を支持する三木派らの反主流派との軋轢は大平の総理就任後も続いた。1979年衆院選で自民党が過半数を割り込む[5]結果を招くと、大平の選挙責任を問う反主流派は大平退陣を要求、ここに四十日抗争と呼ばれる党内抗争が発生し、自民党は分裂状態になった。選挙後国会首班指名選挙では反主流派が福田に投票した結果過半数を得る者がなく、決選投票では、大平派田中派・中曽根派渡辺系・新自由クラブの推す大平と、福田派三木派中曽根派・中川グループが推す福田の一騎打ちとなった結果、138票対121票[6]で大平が福田を下して[7]、第2次大平内閣が発足した。

しかし、これによって自民党内にはかつてない「怨念」が残り、事実上の分裂状態が続いた結果、第2次大平内閣は事実上の少数与党内閣の様相を呈した。翌1980年(昭和55年)5月16日社会党内閣不信任決議案を提出すると、反主流派はその採決に公然と欠席してこれを可決に追い込んだ。大平はこれを受けて衆議院を解散(ハプニング解散)、総選挙を参議院選挙の日に合せて行うという秘策・衆参同日選挙で政局を乗り切ろうとした。

死去

総選挙が公示された5月30日、大平は第一声を挙げた街頭演説の直後から気分が悪くなり、翌日過労不整脈虎の門病院に入院した。大平は心臓に不安があり、以前にもニトログリセリンを服用することがあったが、そのことは公表されていなかった。容体は安定したかに見えたが、6月12日未明心筋梗塞を起こし、5時54分死亡。70歳3ヵ月、突然の死だった。最期の言葉は、前の晩に娘婿で秘書官の森田一ベネチアサミットについて報告した際に返した「そうか、わかった」だった。

大平の死によって権限は、首相権限は伊東正義官房長官が首相臨時代理として、自民党総裁権限は西村英一自民党副総裁が総裁代行として、ベネチアサミットには大来佐武郎外務大臣が代理出席し、3人に分かれた。

48年ぶりの現職総理の死去[8]という想定外の事態は状況を一変させた。自民党の主流派と反主流派は「弔い合戦」を大義名分に挙党態勢に向かい、有権者の多くも同情票[9]を自民党候補に投じた結果、自民党は衆参両院で安定多数を大きく上回る議席を得て大勝した。

人物

  • 一般消費税への強いこだわりなど、財政家としての側面の一方で、外交に通じた政治家であった。田中内閣においては田中角栄から外交の一切を任され、党内に反対の根強かった日中国交正常化交渉と航空協定の実務を取りまとめた。大平内閣においては「環太平洋連帯構想」が著名であり、今日のAPECを始めとするアジア太平洋における様々な地域協力へと受け継がれている。なお、専任の外務大臣としての在職日数は戦後最長である(総理大臣との兼任を含めると吉田茂が1位)。
  • 大蔵省時代に特筆すべきエピソードとしては、大陸経営の関与のほか、文部省担当主査として大日本育英会(後の日本育英会、現独立行政法人日本学生支援機構)の設立に尽力したことがあげられる。
  • 演説や答弁の際に「あー」「うー」と前置きをする事から“アーウー宰相”の異名を取る(この「あー」「うー」は当時流行語にもなり、アニメ主題歌の題材になったり、物まねする子供も多かった)。またその風貌から“鈍牛”とも呼ばれる(しかし、実際はユーモアのセンスがあり、頭の回転も早かった。訪米の折、当時日米間の懸案となっていた捕鯨問題に関して記者から質問された際、「鯨は大きすぎて、私の手には負えません」と答え、記者たちを大笑いさせ、その質問は立ち消えとなったり、国会での野党の質問に答える際、「私はあーうーですから」と言ってその場を和ませてから答弁をする等、その場の雰囲気を掴んで和らげる手腕に長けていた)。「あーうー」のイメージから、話すスピードが遅い印象を受けたが、実際のところ、1分間に話す文字数(速度)は、歴代の首相の中でも早い方であった。
  • 大平には自身の後継者として長男を考えており、秘書官として大平を補佐する準備として見聞を広めるために世界旅行に行かせていた。しかし、長男はアフリカ旅行をした時に風土病であるベーチェット病に罹り、1964年に他界した。大平は長男について「私にとっては全部に近い存在であった」と語っており、長男の死はその後の大平の政治姿勢に影響を与えた。
  • 朴訥な印象の一方で、「戦後政界指折りの知性派」(北岡伸一『自民党』)との評が示すとおり、政治における知性や言葉に重きを置く政治家であった。その政治思想や経済観、国際政治観などの先見性は、今日顧みられることが少なくない。読書家としても知られ、郷里の記念館には1万数千に及ぶ蔵書が収められている。また文章を良くし、『財政つれづれ草』『春風秋雨』などといった政治経済論と随想を合わせた本を折に触れて出版した。なお、大平の著作の全てと、『大平正芳 政治的遺産』をはじめとする大平財団の下でまとめられた研究者・政界関係者による大平についての論稿が、下記外部リンクの大平財団ホームページにてPDFファイルの形で読むことが出来る。
  • 反面、失言も多く「東京の人間郵便番号も書かない○○だ」や、「東京に三代住むと白痴になる」などと言って物議を醸した。
  • 長女に対して口癖のように「女子(おなご)は勉強せんでいい。可愛い女になれ。そして早くお嫁に行きなさい」と語っていたとされ、こうした言動が『婦人公論』誌で長女により明かされたところ、国会で市川房枝により女性蔑視として厳しく追及された。政治とは直接関係のない話題での追及に議場は大爆笑に包まれ、大平は顔をくしゃくしゃにしながら苦笑した。
  • 盟友田中角栄は「オヤジ」と呼ばれたが大平は「おとうちゃん」と呼ばれていた。
  • 敬虔なクリスチャン聖公会)で、しばしば聖書を好んで引用した。葬儀も立教学院諸聖徒礼拝堂で行われている。
  • 靖国神社にはA級戦犯が合祀される前に参拝したことがある。靖国神社参拝に関して野党から国会で質問されると「大東亜戦争に関する審判は、歴史が下すであろうと考えています」と答弁した。
  • 「政治とは?」との問いに対して「明日枯れる花にも水をやることだ」と答えたという。

栄典

注釈

  1. ^ ただし福田は著書『私の履歴書』で「大福密約」は存在しなかったとしている。
  2. ^ 福田47万2499票に対し大平55万0889票
  3. ^ ホワイト・ハウスにおける歓迎式の際の大平内閣総理大臣答辞
  4. ^ 五百旗頭真編『戦後日本外交史』。
  5. ^ ただし獲得議席としては前回獲得議席を1議席しか下回らなかった。
  6. ^ 新自由クラブを除く野党(社会党、公明党、共産党、民社党など)は欠席した。
  7. ^ この138票というのが首班に指名された者が獲得した最も少ない票の記録となっている。
  8. ^ 1932年5月15日に犬養毅が官邸で青年将校に暗殺されて以来(五・一五事件)、また病死としては1926年1月22日に加藤高明が心臓麻痺で急死して以来。
  9. ^ 「香典票」と呼ばれた。

関連項目

大平個人・大平政権に関連する文献

大平個人・大平政権に集中した一部を掲載する
  • 田中六助『大平正芳の人と政治』(朝日ソノラマ、1981年)
  • 田中六助『再び大平正芳の人と政治』(朝日ソノラマ、1981年)
大平側近の政治家による人物評。
  • 川内一誠『大平政権・554日』(行政問題研究所出版局、1982年)
大平派の番記者による大平政権の概説書
  • 国正武重『権力の病室――大平総理最期の14日間』(文藝春秋、2007年)
大平政権時の官邸記者クラブ付記者による、病床の大平についてのドキュメント
  • 伊藤昌哉『自民党戦国史』(朝日ソノラマ、1982年/朝日文庫、1985年)
大平の側近(大平派幹部)による、当時の政局の回想とドキュメント
  • 村松岐夫「大平正芳―歳入歳出政治の問題提起者」渡辺昭夫編『戦後日本の宰相たち』(中央公論社、1995年/中公文庫、2001年)
  • 内田健三「第一次大平内閣」「第二次大平内閣」林茂辻清明編『日本内閣史録6』(第一法規、1981年)
  • 奥島貞雄「自民党幹事長室の30年(3)寡黙な哲学者 大平正芳」『中央公論』2001年9月号
自民党幹事長室長による回想。『自民党幹事長室の30年』(中央公論新社、2002年/中公文庫、2005年)に収録。
  • 金斗昇「大平正芳と日韓会談―請求権問題合意の論理を中心に」『法学政治学論究』44号(2000年3月)
  • 倪志敏「田中内閣における中日国交正常化と大平正芳(1・2)」『龍谷大学経済学論集』45巻5号/46巻5号(2006年3月・2007年3月)
  • 倪志敏「池田内閣における中日関係と大平正芳(1-3)『龍谷大学経済学論集』 44巻5号/45巻2・3号(2005年3-12月)
  • 倪志敏「大平正芳と日韓交渉――「大平・金メモ」の議論を中心に」『龍谷大学経済学論集』43巻5号(2004年3月)
  • 倪志敏「大平内閣における第一次対中政府借款」『龍谷大学経済学論集』 42巻5号(2003年3月)

外部リンク

親族

大平を師と仰ぐ政治家

外部リンク


先代
福田赳夫
自由民主党総裁
第9代:1978年 - 1980年
次代
鈴木善幸
先代
内田常雄
自由民主党幹事長
第17代:1976年 - 1978年
次代
斎藤邦吉
先代
福田赳夫
大蔵大臣
第76代:1974年 - 1976年
次代
坊秀男
先代
前尾繁三郎
宏池会会長
第3代:1970年 - 1980年
次代
鈴木善幸
先代
椎名悦三郎
通商産業大臣
第31代:1968年 - 1970年
次代
宮澤喜一
先代
西村直己
自由民主党政務調査会長
第16代:1967年 - 1968年
次代
根本龍太郎
先代
小坂善太郎
福田赳夫
外務大臣
第92・93代:1962年 - 1964年
第100・101代:1972年 - 1974年
次代
椎名悦三郎
木村俊夫
先代
内藤誉三郎
文部大臣
第124代:1979年(兼任)
次代
谷垣專一
先代
椎名悦三郎
内閣官房長官
第22代:1960年 - 1962年
次代
黒金泰美