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== 経歴 ==
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[[1898年]]、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](10期)卒業。[[1908年]]、[[陸軍大学校]](20期)卒業。作戦資材整備会議幹事長、[[陸軍省]]人事局長、近衛歩兵第1旅団長、[[第19師団 (日本軍)|第19師団]]長、[[第3師団 (日本軍)|第3師団]]長を歴任。[[教育総監部]]本部長、[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]司令官、[[軍事参議官]]を経て[[陸軍大臣]]に就任。
[[松山市立番町小学校|松山市外側尋常小学校]]、[[愛媛県立松山東高等学校|愛媛県尋常中学校]]を経て、[[1898年]]、[[陸軍士官学校 (日本)|陸軍士官学校]](10期)卒業。[[1908年]]、[[陸軍大学校]](20期)卒業。作戦資材整備会議幹事長、[[陸軍省]]人事局長、近衛歩兵第1旅団長、[[第19師団 (日本軍)|第19師団]]長、[[第3師団 (日本軍)|第3師団]]長を歴任。[[教育総監部]]本部長、[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]司令官、[[軍事参議官]]を経て[[陸軍大臣]]に就任。


[[二・二六事件]]後[[予備役]]に編入。終戦の年の1945年9月8日死去。
[[二・二六事件]]後[[予備役]]に編入。終戦の年の1945年9月8日死去。

2008年4月7日 (月) 02:07時点における版

川島義之

川島義之(かわしま よしゆき、明治11年(1878年5月25日 - 昭和20年(1945年9月8日)は日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将愛媛県生まれ。

経歴

松山市外側尋常小学校愛媛県尋常中学校を経て、1898年陸軍士官学校(10期)卒業。1908年陸軍大学校(20期)卒業。作戦資材整備会議幹事長、陸軍省人事局長、近衛歩兵第1旅団長、第19師団長、第3師団長を歴任。教育総監部本部長、朝鮮軍司令官、軍事参議官を経て陸軍大臣に就任。

二・二六事件予備役に編入。終戦の年の1945年9月8日死去。

人物

陸士10期卒業時110位。同期に松木直亮西義一植田謙吉などがいる。陸大20期卒業時6位。

岡田内閣で陸相に就任した時統制派皇道派の対立が激化しているときであり、川島はどちらにも属していないため陸相に選ばれた。両派はおろか青年将校までもが彼を傀儡として用いようと企んでいたところに川島の周囲からの評価が窺える。

二・二六事件の黒幕とされる真崎甚三郎と親しかったようである。

二・二六事件時陸相として反乱に理解を示すかのような陸軍大臣告示を東京警備司令部から出した。事件をうまく処理できなかったため事件後予備役に編入されることになった。

松山中学で夏目漱石の教え子だった。ただし、当の川島はそれほど偉い先生だとはちっとも思っていなかったようである。

先代
林銑十郎
陸軍大臣
第25代: 1935年 - 1936年
次代
寺内寿一