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* 香港到着まで車内に備品として搭載していた観葉植物は、国内持込にあたり検疫の観点から[[農林水産省]]の許可が下りず、代用品を搭載した。
* 香港到着まで車内に備品として搭載していた観葉植物は、国内持込にあたり検疫の観点から[[農林水産省]]の許可が下りず、代用品を搭載した。
* 青函トンネルなど長大トンネル通過にあたっては、木製で<!--の箇所があり ←参考資料に「車体はマホガニー製」と記載があることからも、シンプルに元通り「木製」に戻すのが妥当かと。逆に言えばどんな木製車両でも、金属やプラなど木材以外の素材を一切使用していない車両などまずないでしょう。部材が100%木製でなければ木製車両と述べてはいけない、といった慣習もないと思います。また現在の記事の内容では「木製の『箇所がある』」ことが「防火基準を満たなさない」ことの一条件であるかのような文脈になってしまい、これでは事実に反します。なにせ、トンネルの多い九州新幹線の800系だって内装にクスノキや桜材を使用していますから(笑)-->石炭焚きボイラーを持つ客車は国内の防火基準を満たさないため原則として走行は不可能であった。しかし、欧州では長大トンネルとして有名な[[シンプロントンネル]]の通過が認められている実績に鑑み、全車両に放送装置と火災報知器を追設することと、係員を終夜置くことを条件に特例として認められ、同列車の北海道直通が実現した<ref name="rf">「鉄道ファン」1989年1月号、交友社</ref><ref name="rj">「鉄道ジャーナル」1989年1月号、2月号、鉄道ジャーナル社</ref>。
* 青函トンネルなど長大トンネル通過にあたっては、木製で<!--の箇所があり ←参考資料に「車体はマホガニー製」と記載があることからも、シンプルに元通り「木製」に戻すのが妥当かと。逆に言えばどんな木製車両でも、金属やプラなど木材以外の素材を一切使用していない車両などまずないでしょう。部材が100%木製でなければ木製車両と述べてはいけない、といった慣習もないと思います。また現在の記事の内容では「木製の『箇所がある』」ことが「防火基準を満たなさない」ことの一条件であるかのような文脈になってしまい、これでは事実に反します。なにせ、トンネルの多い九州新幹線の800系だって内装にクスノキや桜材を使用していますから(笑)-->石炭焚きボイラーを持つ客車は国内の防火基準を満たさないため原則として走行は不可能であった。しかし、欧州では長大トンネルとして有名な[[シンプロントンネル]]の通過が認められている実績に鑑み、全車両に放送装置と火災報知器を追設することと、係員を終夜置くことを条件に特例として認められ、同列車の北海道直通が実現した<ref name="rf">「鉄道ファン」1989年1月号、交友社</ref><ref name="rj">「鉄道ジャーナル」1989年1月号、2月号、鉄道ジャーナル社</ref>。
* ワゴン・リ客車はJR線での営業のため、日本滞在期間中のみJR東日本品川運転所に在籍し、車体妻面には所属区「東シナ」・定員・形式・自重・換算両数・検査施工表記が追記された。また国際列車運行に関与するため、JR東日本が<!---非欧州圏国としては初めて--->UIC([[国際鉄道連合]])に加盟し[[UICコード]](42)を取得している(後に北海道・四国を除く[[JR]]旅客各社及び[[日本貨物鉄道|JR貨物]]・[[鉄道総合技術研究所|JR総研]]が加盟)。
* ワゴン・リ客車はJR線での営業のため、日本滞在期間中のみJR東日本東京圏運行本部品川運転所に在籍し、車体妻面には所属区「東シナ」・定員・形式・自重・換算両数・検査施工表記が追記された。また国際列車運行に関与するため、JR東日本が<!---非欧州圏国としては初めて--->UIC([[国際鉄道連合]])に加盟し[[UICコード]](42)を取得している(後に北海道・四国を除く[[JR]]旅客各社及び[[日本貨物鉄道|JR貨物]]・[[鉄道総合技術研究所|JR総研]]が加盟)。


また各国で動態保存中だった蒸気機関車が牽引機関車に抜擢された。牽引した順に記す<ref name="fuji">「これがオリエント急行だ」フジテレビ出版</ref>。
また各国で動態保存中だった蒸気機関車が牽引機関車に抜擢された。牽引した順に記す<ref name="fuji">「これがオリエント急行だ」フジテレビ出版</ref>。

2008年5月17日 (土) 06:11時点における版

オリエント急行(オリエントきゅうこう)は、ヨーロッパの長距離列車で、次の4つに分類する事ができる。

  1. 国際寝台車会社(日本での通称ワゴン・リ社)により1883年に運行がはじめられ、それを引き継いで1977年まで運行されたパリ-コンスタンティノープル(イスタンブール)間の列車(#国際寝台車会社のオリエント急行で後述)。
  2. 1980年代から運行が始められ、現在パリ-ウィーンを走行するヨーロッパの国際夜行列車#国際夜行列車のオリエント急行で後述)。
  3. 国際寝台車会社の寝台車を復元した観光列車。オリエント・エクスプレス・ホテルズが1982年に運行をはじめたロンドンとイタリアを結ぶベニス・シンプロン・オリエント急行」(VSOE)と、スイスの旅行会社インターフルーク社による「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行」(NIOE)がある。また、フランスが主に団体専用列車用として所有する、「プルマン・オリエント急行」(POE)もある(#国際寝台車会社の寝台車を復元した観光列車のオリエント急行で後述)。
  4. アメリカ東南アジアの観光列車の名称。オリエントエクスプレスホテルズ社がバンコクとシンガポールの間で運行を行っている「イースタン・オリエント急行」(E&O)と、アメリカン・オリエントエクスプレス社が所有する「アメリカン・オリエント急行」、メキシコを走行する「サウス・オリエント急行」、中国を走行する「チャイナ・オリエント急行」、インドを走行する「ロイヤル・オリエント急行」が存在する(#オリエント急行の名を冠したアジアとアメリカの観光列車で後述)。

国際寝台車会社のオリエント急行

オリエント急行のポスター

1872年、ベルギーの銀行家ジョルジュ・ナゲルマケールスは国際寝台車会社を設立した。彼は1868年にアメリカを旅行し、アメリカのプルマン社の寝台車に感銘を受け、ヨーロッパでの寝台車会社の設立を思い立ったといわれている。アメリカの大富豪、ウィリアム・ダルトン・マンもこの会社の設立を支援し、当時大陸ヨーロッパに進出しようとしていたプルマン社との参入競争に打ち勝ち、ヨーロッパ大陸の寝台車市場において独占的な地位を築きあげていた。

この会社が1883年から、パリ-コンスタンティノープル(イスタンブール)間に走らせた列車が「オリエント急行」である。当初のルートは、パリ-シュトラスブルグ(現ストラスブール)-ミュンヘン-ウィーン-ブダペスト-ブカレスト-ヴァルナ-コンスタンティノープルで、ルーマニアブルガリアの国境のドナウ川と、ヴァルナ-イスタンブール間は船で連絡した。なおオスマン帝国では首都の市名を「イスタンブル」と称していたが、西ヨーロッパでは旧名の「コンスタンティノープル」が使われており、オリエント急行の行き先も旧名で表記されていた。

一番列車は1883年10月4日夜にパリ・ストラスブール駅(パリ東駅)を発車し、6日かけてイスタンブルに到着した。各界の名士やジャーナリストが招待客として乗車し、ルーマニアでは国王カロル1世自ら離宮に招待するなど沿線各国で歓迎を受けた。

当初運行便数は週1便であったが、1885年には途中ウィーンまでは毎日運行となった。また当初のルートのほかブダペストからベオグラードソフィアを経由する列車(一部馬車連絡)も運転された。1889年には念願のイスタンブールまでの列車の直通運転が実現した。

オリエント急行は沿線各国の貴族や富豪、外交官らに愛用された。王族ですら、専用列車を利用するよりも自分の専用車をオリエント急行に連結することを好んだ。東ヨーロッパ各国はオリエント急行ができるだけ多く自国領内を通るよう、経路やダイヤをめぐって互いに争った。

ただし、オリエント急行の走る東ヨーロッパの政情は不安定であり、インフラストラクチャーの整備も西ヨーロッパと比べ遅れていた。このため列車の運行にはさまざまな困難が伴った。1891年には盗賊団が列車を襲い、乗客を誘拐して身代金を要求する事件が起こった。1907年には吹雪のために列車が11日間にわたって立往生した。

第一次世界大戦が勃発するとオリエント急行は運休を余儀なくされた。大戦中ドイツはフランスを起点とするオリエント急行に取って代わるべく、ベルリン-イスタンブル間に「バルカン列車」を走らせた。

戦後すぐの1919年には、イタリア止まりだったシンプロン急行を延長する形で、シンプロントンネルを経由し、ローザンヌミラノベネチアベオグラードを経由する「シンプロン・オリエント急行」が登場している。これは敗戦国のドイツ・オーストリア領を避けたルートである。「オリエント急行」の全盛期は1930年代で、「オリエント急行」が週3便運行、「シンプロン・オリエント急行」が毎日運行、オリエントエクスプレスの補完列車として「アールベルク・オリエント急行」「オステンデ・ウィーン・オリエント急行」が週3-4便運行されていた。これらはいずれも国際寝台車会社の寝台車のみで編成され、その設備は人々の注目を集めたが、第二次世界大戦の戦火によりふたたび運行休止となった。

第二次世界大戦後、これらの列車は座席車連結の夜行急行列車として徐々に復活する。しかし、かつての豪華さは失われ、またモータリゼーション時代の到来や飛行機の性能向上、東西冷戦の影響もあり、規模の縮小や列車名の改変なども行われた。最期まで残った「ダイレクト・オリエント急行」(「シンプロン・オリエント急行」を1962年に改名した列車)が1977年に廃止された事で、本来の意味でのオリエント急行の歴史は幕を閉じる事となった。

国際夜行列車のオリエント急行

現在、ヨーロッパの国際夜行特急(ユーロナイト)262・263列車として、パリ-ウィーン間を走行している「オリエント急行」は1980年代の中頃登場した列車である。ルートはパリ東駅-ストラスブール-カールスルーエ-ミュンヘン-ウィーン西駅で、かつてのオリエント急行と同じルートをたどる。元々はハンガリーブダペストまで行く列車で、一時期はルーマニアブカレストに足を伸ばしていた。2001年の7月のダイヤ改正でウィーン止まりとなり、スピードアップが行われたが、食堂車の連結は取りやめられた。2004年3月現在のパリ-ウィーン間直通の編成は次のようなものである。

寝台車1両-クシェット(簡易寝台車)2両-2等座席車 3両

その他に、パリ-ストラスブール間とザルツブルク-ウィーン間で1・2等の座席車の増結が行われている。

なお、2007年6月10日のTGV東ヨーロッパ線の開業にともない、この列車は運転区間がストラスブール~ウィーン間に短縮され、ストラスブールでTGVに接続するダイヤに改められたほか、停車駅の大幅な削減が行われた。

国際寝台車会社の寝台車を復元した観光列車のオリエント急行

1976年、スイスのインターフルーク社は、かつての国際寝台車会社の寝台車を購入・復元し、観光用の「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行(NIOE)」の運行をはじめた。NIOEはチャーター運行を基本とし、ヨーロッパ各地を走行した。

1993年にインターフルーク社は経営難のためにNIOEを手放し、客車はあちこちの所有者のもとを転々とするほか、一部が廃車になったが、NIOE編成のチャーター運行は現在でも続けられている。

国際寝台車会社の寝台車を使った観光列車はもう1編成存在する。海運会社であるシーコンテナ社の社長のジェームズ・シャーウッドが1977年にオークションで購入、オリエント・エクスプレスホテルズ社という子会社を設立し1982年から運行をはじめた「ベニス・シンプロン・オリエント急行(VSOE)」である。VSOEはイギリスロンドンイタリアのベネチアの間を結んで年24往復運行され、イギリス国内は、かつてのプルマン社のイギリス子会社による豪華車両にちなんだブリティッシュ・プルマンと呼ばれる座席車、大陸側では1920年代に製造された国際寝台車会社の寝台車で運用されている。大陸側では1泊2日の旅だが、ディナーのドレスコードはフォーマル指定、乗客の要望に対応するスチュワートが同乗する上に、記念として列車内にあるポストから手紙が出せる(切手代はオリエント急行持ち)。

またフランスでも「プルマン・オリエント急行(POE)」の名で、主にチャーターにより運行する列車が存在する。登場はNIOE・VSOEのそれとほぼ同時期である。

なお、オリエント急行は1930年代の列車であり、スペースや室内設備の機能性などの面では、現在の新型列車の個室寝台に見劣りするところもある。これは復元車両でも同様であるが、調度品の質や人的なサービスが充実していたり、車内でのイベント出席の際のドレスコードが設けられているなど、演出としての豪華さに関しては他の観光列車と比べても際立っている。

オリエント急行'88

日本を走行したオリエント急行

1988年には、フジテレビ東日本旅客鉄道(JR東日本)主導のもと、各国政府・鉄道各社の協力により、NIOEの車両を利用してパリ→東京間でオリエント急行'88が運行された。当初国鉄と交渉していたのはVSOEであったが、紆余曲折のうえ実際に来日したのはNIOEである。この列車がD51形EF58形EF65形(1000番台)機関車などに牽引され、団体列車として国内各地を走行したことにより当時のJR各社が受けたインパクトは大きく、その後JR東日本は豪華寝台車「夢空間」を試作、JR北海道は寝台列車「北斗星」の個室車両の増備や設備のグレードアップを実施、JR西日本は「トワイライトエクスプレス」を誕生させることとなった。

列車はフランスから西ドイツ(当時)、東ドイツ(当時)、ポーランドソ連(当時)、中華人民共和国を経由し香港まで陸路を走行、香港から山口県下松港までは客扱いなしで航送(船で輸送)され、メインスポンサーでもあった日立製作所の笠戸工場で台車をJR線走行可能な狭軌のものに交換のうえ広島→東京間を走行した。大陸側の運行ルートは、パリ・リヨン駅 (パリ)ランス駅→ストラスブール駅→★→フランクフルト中央駅→★→ベルリン・リヒテンベルク駅→★→ソハチェフ駅→ワルシャワ駅→★→ブレスト駅→ミンスク駅→モスクワ・ベロルシア駅→モスクワ・ヤロスラヴリ駅ノボシビルスク駅→イルクーツク駅→ウラン・ウデ駅→ザバイカルスク駅→★→満州里駅→ハルビン駅→北京駅→★→英領香港(九龍)駅、であった(★は国境)[1][2]。なおこの列車の走行距離は実に15,494kmであり、最長距離列車としてギネスブックにも登録されている(正式な国際列車として認められたのはパリ→香港間のみ)[1]

列車の詳細は以下の通り。

  • 編成は、マニ50、寝台車6両(WLA Lx16×5両、WLA Lx20×1両)、バー・サロンカー(ARP)、プルマン・カー(WSP)、食堂車(WR)、荷物車(D)、スタッフ・カー(WLA YU)、オニ23(以上、連結順)の13連であった。
  • 食堂車「プレジデンシャル」は1927年に製造され、1955年にフランス大統領用専用車に改造された車両で、シャルル・ド・ゴール大統領がエリザベス女王ケネディ大統領と会食を楽しんだことで知られているが、上記「国際寝台車会社のオリエント急行」に使用されたことはなかった。国内試運転時には、あまりの重さに台車のバネがすべて縮んでしまったため、客車製造当初は未搭載であったエアコンを撤去し重量の軽減を図った(運行が秋から冬であったため特に問題にはならなかった)。
  • プルマン・カー「コートダジュール」は本来サロン・カーであり、上記「国際寝台車会社のオリエント急行」に使用されたことはなかったが、運行時は食堂車として使用された。現在は箱根のラリック美術館で展示公開・保存されている。
  • バー・サロンカー「トランブルー」は1929年にプルマン車として製造されたもので、1952年に改造されている。車内にはグランドピアノが設置され、専任ピアニストオットー・ハーンツェル氏による生演奏を楽しむことができた。
  • 専任車掌のダニエル・グフェラー氏はスイス国鉄からの出向者で、発車の合図にホルンを吹くのがトレードマークであった。身長は約2mで、趣味は鉄道模型[1]

日本国内での運行のため、以下のような措置がとられた。

編成両端には控車が連結された。最後部はマニ50 2236
控車として使用されたオニ23 1
  • 日本国内走行用に使用された狭軌の台車は、国鉄末期に大量に廃車されたスハ43系旧型客車の発生品であるTR47形台車を、バネ定数等を調整のうえ使用した[3]。この結果、オリジナルの台車に装備されていた車軸発電機が使えなくなるため、荷物車にディーゼル発電機を搭載し、各車両へ給電することとした[1]
  • NIOEに使用されているワゴン・リ客車の車体幅(2850mm程度)は日本の在来線規格(2950mm)より狭いため幅は問題ないが、全長が23.5m程度(在来線電車20m、気動車・客車は21.5m)とやや長いため、曲線通過時に車両限界に支障する恐れがあった。このため、走行区間を主要幹線のみに限定したうえで支障箇所の洗い出しが行われ、支障箇所800箇所のうち300箇所については軌道の移動が実施された[3]。 (東北貨物線赤羽駅構内の軌道調整作業は、NHKの特集番組にも取り上げられた) また客車側は、ホームに支障するため全車両ドア下のステップを切除した。
  • ワゴン・リ客車の連結器・緩衝器は欧州標準のねじ式・バッファー式でそのままでは日本の機関車と連結できないため、客車編成の前後に1両ずつ控車マニ50 2236とオニ23 1)を連結した。マニ50形は余剰車の片側連結器を欧州タイプに改造のうえ倉庫として使用、一方オニ23形は一旦廃車となっていたナハネフ23 8を車籍復活のうえ連結器改造・映像放映設備(ハイビジョンテレビ)等の設置を行い「日立パビリオンカー」として使用した。
  • ブレーキ関係については、通過国すべて圧力が同じであったため、ブレーキ管同士を接合するための部品を製造するだけで済んだ[3]
  • 荷物車については、屋根上のキューポラと監視窓が車両限界に支障するため、取り外したうえで日立製作所が現物を模して作成した若干小型のものを代わりに搭載した[2]。また長距離運行への対応として、調理準備室の改造、6機の冷蔵庫・冷凍庫新設のほか、水タンクもより大容量のものへと交換された[1]
  • 香港到着まで車内に備品として搭載していた観葉植物は、国内持込にあたり検疫の観点から農林水産省の許可が下りず、代用品を搭載した。
  • 青函トンネルなど長大トンネル通過にあたっては、木製で石炭焚きボイラーを持つ客車は国内の防火基準を満たさないため原則として走行は不可能であった。しかし、欧州では長大トンネルとして有名なシンプロントンネルの通過が認められている実績に鑑み、全車両に放送装置と火災報知器を追設することと、係員を終夜置くことを条件に特例として認められ、同列車の北海道直通が実現した[1][3]
  • ワゴン・リ客車はJR線での営業のため、日本滞在期間中のみJR東日本東京圏運行本部品川運転所に在籍し、車体妻面には所属区「東シナ」・定員・形式・自重・換算両数・検査施工表記が追記された。また国際列車運行に関与するため、JR東日本がUIC(国際鉄道連合)に加盟しUICコード(42)を取得している(後に北海道・四国を除くJR旅客各社及びJR貨物JR総研が加盟)。

また各国で動態保存中だった蒸気機関車が牽引機関車に抜擢された。牽引した順に記す[2]

  • フランス国鉄 230G 353号(フランス・パリ~モゥ間)
  • 東ドイツ国鉄 01-137号・01-1531-1号の重連(東ドイツ・マリエンボルン~ベルリン間)
  • ポーランド国鉄 Pt47-112号・Ty51-32号の重連(ポーランド・クトノ~ワルシャワ~ブレスト間)
  • ソ連国鉄 P36-0064号(ソ連・ブレスト~モスクワ間)
  • 中国国鉄 前進2991号(中国・安達~哈爾浜間)
  • JR東日本 D51 498号(日本・大宮~上野間)

オリエント急行の名を冠したアジアとアメリカの観光列車

「ベニス・シンプロン・オリエント・エクスプレス」で成功を収めたオリエント・エクスプレスホテルズ社は東アジアからの顧客誘致を積極的に進めるために、アジアのオリエント急行と題してシンガポールからマレー半島を縦断しタイバンコクシンガポールを結ぶ、「イースタン&オリエンタル・エクスプレス」(E&O)の運行を1993年にはじめた。現在、シンガポールからバンコクを2泊3日、バンコクからシンガポールを3泊4日、そしてタイのバンコクからチェンマイを周遊するコースが通年で運行されている。いずれもヨーロッパのオリエント急行と同系列で雰囲気やサービス、食事も豪華そのものだ。なお使用される車両はニュージーランド国鉄で使われていた日本製の車両を改装したものである。他方中華人民共和国の鉄道では、シルクロード沿いで「チャイナ・オリエント急行」の運行が行われている。これは、カナダの旅行会社が中国国鉄の元貴賓車を観光用に貸し切り、北京ウルムチとの間で運行を行うツアーの名称で、1990年から行われている。

また、インドの鉄道では豪族マハーラージャの専用列車を復元した宮殿列車が1995年から「ロイヤル・オリエント急行」の名前で運行をしている。これは、デリーからアラビア海に面したマハーラージャまでの約1400kmを7泊8日かけて往復する観光列車で、途中あちこちで下車しての観光が組まれている。

オリエント急行の名前を冠した観光列車はアメリカにも存在する。これらは東洋には関係がないが、かつての鉄道黄金時代の車両を復元したという点でヨーロッパのオリエント急行と似ている。

アメリカのオリエント急行は2列車存在する。1つは、オレゴン・レイルホールディングス社が所有する「アメリカン・オリエント急行」である。1950年前後に活躍したアメリカの流線型客車を改造し観光列車に仕立てたもので、ニューヨーク・セントラル鉄道20世紀特急で活躍した流線型展望車やミルウォーキー鉄道で活躍したスーパードーム車など、アメリカの鉄道黄金時代の各鉄道の有名な客車が組み込まれている。北はカナダ、南はメキシコまで足を伸ばすが、走行するルートはほぼ決まっていて、季節に応じたツアーが設定されている。

アメリカには、「サウス・オリエント急行」という観光列車も存在する。これは「アメリカン・オリエント急行」ほどは知られていないが、やはりかつての流線型車両を復元し、メキシコ北部で運行を行っている列車である。

その他の「オリエント急行」

オリエントを冠した列車としては、上記の一連の「オリエント急行」の他、アメリカの鉄道会社の一つであるグレートノーザン鉄道(現バーリントン・ノーザン・サンタフェ鉄道)の「オリエンタル特急(Oriental Limited)」という列車を挙げることが出来る。この列車は1890年代から1930年代にかけて、シカゴシアトル間で運行されていたが、シアトルでは日本郵船の太平洋航路に連絡していて、アメリカと東洋を結ぶ列車として機能していた。

年表

  • 1883年10月4日 パリ発コンスタンチノープル(現イスタンブール)行き第一号「オリエント急行」列車の運行開始。
  • 1889年 コンスタンチノープル(現イスタンブール)までの直通運転が実現する。
  • 1919年 「シンプロン・オリエント急行」の登場。
  • 第二次大戦中、運行中止。
  • 1946年 座席車や簡易寝台車併結列車として、「シンプロン・オリエント急行」の運行が再開される。
  • 1962年5月26日 「シンプロン・オリエント急行」運行休止、「ダイレクト・オリエント急行」として一般列車化。
  • 1976年 スイスのインターフルーク社の「ノスタルジー・イスタンブール・オリエント急行」(NIOE)運行開始。
  • 1977年5月 「ダイレクト・オリエント急行」運行中止。
  • 1982年5月25日 オリエントエクスプレスホテルズ社の「ベニス・シンプロン・オリエント急行」(VSOE)、運行開始。
  • 1988年 NIOE、フジテレビの開局30周年記念イベントで、日本のJR線を走る。
  • 1993年夏 「イースタン・オリエント急行」(E&O)運行開始。

オリエント急行を題材にした各分野の作品

イスタンブール直通のオリエント急行は、上流貴顕の乗車が多く、東洋に連なる列車であることから、エキゾチシズムを伴った豪奢な乗り物というイメージが、世界的に広く敷衍していた。また国際的な紛争多発地域であるバルカン半島を経由ルートとしており、第二次世界大戦後の東西冷戦下にはイデオロギーの相違する多数の国々を貫通して運行された。

このようなオリエント急行の特徴は、古くから興味深い題材として作家たちの関心を集めることにもなり、しばしば小説の「走る舞台」に取り上げられた。グレアム・グリーンによる群像劇的な小説「イスタンブール特急」(1932)や、アガサ・クリスティの華やかな密室物推理小説オリエント急行殺人事件」(1934)は著名な例である。特に後者は、1974年にシドニー・ルメットの監督で秀逸な映画化が為されている。

第二次世界大戦後には、イアン・フレミングがスパイ小説「007シリーズ」の一つとして「ロシアから愛をこめて」(1957)を書いている。この小説はのち1963年にショーン・コネリー主演で「007 ロシアより愛をこめて」として映画化されており、オリエント急行でのシーンも見せ場の一つとして魅力的に描かれている。

また、この列車を題材とした音楽としては、イギリスフィリップ・スパークによるブラスバンド楽曲「オリエント急行(Orient Express)」(1986)がある。この曲はスパークの代表曲のひとつとされ、欧州放送連合(EBU)の"New Music for Band Competition"で第1位を獲得した。急行列車の出発から到着までを描写した、輝かしい曲想を特徴とする。日本国内においても吹奏楽ブラスバンドのコンサートにて頻繁に演奏され、人気がある。尚、吹奏楽版は作曲者スパーク自身の手によって編まれている。

日本国内で発行された漫画『月館の殺人』(つきだてのさつじん:原作・綾辻行人 作画・佐々木倫子)では、物語の舞台となる夜行列車「幻夜号」の描写において、精緻な作画と各方面からの監修によりオリエント急行の車両や接客サービス等をかなり精密に模している。

脚注

  1. ^ a b c d e f 「鉄道ファン」1989年1月号、交友社
  2. ^ a b c 「これがオリエント急行だ」フジテレビ出版
  3. ^ a b c d 「鉄道ジャーナル」1989年1月号、2月号、鉄道ジャーナル社

外部リンク

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