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「バークとヘア連続殺人事件」の版間の差分

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<blockquote>バークとヘアは、この対策の真の著者であり、この対策は決して[[議会]]の慎重な叡智にて認可されることなかったであろう、この対策は恐怖が再来しないようまさに押し進められる。もし恐怖がわかっていて、16名の人間が[[行政]]と[[立法]]の無関心により被害者となる前に行動されていたらよかったであろう。特別に賢くなくても予見できただろうこの最悪の結果は解剖学者と屍体盗掘人との取引関係から間違いなく起き得た。そこには、行政が存在していなかった。政府は過去のその無知と寛容により育てられたこの犯罪に対し相応の重い責任がある。<ref>''Lancet'' editorial, 1828-9 (1), pp 818-21, 28.3.1829.</ref></blockquote>
<blockquote>バークとヘアは、この対策の真の著者であり、この対策は決して[[議会]]の慎重な叡智にて認可されることなかったであろう、この対策は恐怖が再来しないようまさに押し進められる。もし恐怖がわかっていて、16名の人間が[[行政]]と[[立法]]の無関心により被害者となる前に行動されていたらよかったであろう。特別に賢くなくても予見できただろうこの最悪の結果は解剖学者と屍体盗掘人との取引関係から間違いなく起き得た。そこには、行政が存在していなかった。政府は過去のその無知と寛容により育てられたこの犯罪に対し相応の重い責任がある。<ref>''Lancet'' editorial, 1828-9 (1), pp 818-21, 28.3.1829.</ref></blockquote>


ブーギマン
==大衆文化への影響==
==大衆文化への影響==
この殺人は、時を超えて童謡として歌いつがれた。聞かん坊をしつけるため両親は、バークとヘアがやってくると言って脅かした([[ブーギマン]]のように)。またこのコンビの名前は、縄跳び歌や石蹴り歌にも取り入れられた。こんな具合に、
この殺人は、時を超えて童謡として歌いつがれた。聞かん坊をしつけるため両親は、バークとヘアがやってくると言って脅かした([[ブーギマン]]のように)。またこのコンビの名前は、縄跳び歌や石蹴り歌にも取り入れられた。こんな具合に、

2008年5月21日 (水) 04:01時点における版

バークとヘア連続殺人事件(ばーくとへあれんぞくさつじんじけん、時にウェストポート連続殺人事件とも呼ばれる)は、西暦1827年から1828年に露見したイギリススコットランドエディンバラでウイリアム・バークとウイリアム・ヘアが17人の被害者の屍体を解剖のためにエディンバラ医学校に売り払い、それのみならず殺人にまで手を染めた事件。彼らの上客はロバート・ノックス医師だった。共犯者はバークの愛人ヘレン・マクドゥガルとヘアの妻マーガレット・ヘアであった。[1]

歴史背景

1832年以前は、連合王国医学校解剖の教育と研究用の合法的な屍骸の供給は不足していた。19世紀になり医学が進歩するにつれ、需要は急上昇したが、合法的な供給(刑死者)は暗黒時代のいわゆる血の法典が改正されたため18世紀に比べ減っていた。手段を問わない犯罪者集団がここにつけ込むこととなる。。人体盗と、屍体盗掘人は大衆から恐れられ、嫌われた。

常軌の逸脱

1827年迄はバークと情婦ヘレン・マクドウガルはヘアのエディンバーグの借家の普通の店子であった。以前にともに連合運河に勤めていた際に面識があったか否かは不明である。ヘアの証言によると初めての売り屍体はヘアに4磅の店賃の借りがあり死んだ老退役陸軍年金生活者であった。1827年11月に棺桶から屍体を盗み出し、エディンバーグ医学校に7磅で売り払った。これが彼らのエディンバーグきっての解剖学教師ロバートノック博士との出会いである。

バークとヘアの次の被害者は、病弱な店子、粉引きのジョセフである。ウイスキーを盛り、窒息させた。他に死にかけた店子はいなかったので、町に出かけカモを釣ることとした。1828年2月、年金生活者のアビガイルシンプソンを帰省の前日に招待し、同じ手法で処理した。死体は新しかったので15磅貰った。 ヘア婦人、マーガレットヘアは女性を店に連れ込み、酒を飲ませた後旦那に送った。次に、バークは淫売婦メリーパターソンとジャネットブラウンを連れ込んだ。しかし、ブラウンはバークとマクドウガルが口論をしているときに場所を離れた。彼女が戻ったとき、パターソンはバークと一緒に出かけたと告げられた。翌朝、世話になった医学生には、淫売婦の死体に見覚えがあった。

次の被害者は、バークの知り合いのエフィーという乞食女であった。10磅貰った。バークは警察から知り合いであると言って彼女を引き取った。一時間後には医学校に死体が届けられた。

次の被害者2名は、老女と聴覚障碍少年。バークとヘアは少年については口論したがバークが背中を割って夫々8磅で売り払った。続く2名は、バークの知り合い「オストラ婦人」とマクドウガルの親戚「アン・マクドウガル」。

続いて、ヘアは老売春婦メリーハルダンを片付けた。娘のペギーが所在をいろいろ尋ね探し、医学校の解剖台に辿り着き母親の屍体に出会った。しかしながら、メリーハルダンは近所でよく知られていたのでこの失踪の件は、安穏ではなかった。 次の被害者はよりよく知られていた。当時18歳の「ダフトジャミイ」とよばれた跛行の障碍者。この少年は抵抗したので殺すのにバークとヘアともに関わらざるを得なかった。翌朝、ノック博士が見たとき、何人かの医学生はジャミイとわかった。学生に死体を見せた後ノックにより頭と足が切り落とされた。ノックはジャミイではないと言ったが、明らかに顔面から解剖せざるを得なかった。

最後の被害者はマジョリ・キャンベル・ドチャティ(訳注スコットランドには多い名)。バークは自分の母親もドチャティだといい誘い込んだ。しかし、ジェイムスとアングライが同室していたので待つ必要があった。その夜グライ夫妻が出かけた後、隣人は騒ぎの音を聞いた。

探査

次の日、寝台に忘れた靴下をとりに行かせてくれなかったのでアン・グレイはバークをいぶかしく思った。その午後、夫妻のみとなった時に寝台をみたら、その下にドチャティの死体があった。警察に知らせにいく途中でマクドウガルと出くわし、マクドウガルは一週間10磅ではどうかとの賄賂で買収を試みたが断った。

マクドウガルとマーガレットヘアは連れ合いどもに警告したが、バークとヘアは警察到着前に屍体を運び出した。しかし、職務質問の中でバークはドチャティは午前7時に立ち去ったと言ったのに対しマクドウガルは夕刻だと言った。警察は彼らを逮捕した。匿名の秘密情報があり、ノックの教室へ向かい、ドチャティの屍体を見つけた。ジェイムス・グライにより本人確認された。マクドウガルとマーガレットヘアも暫くして逮捕された。殺人は18ヶ月に続いた。 エディンバーグの新聞が1828年11月6日に失踪記事を載せたとき、ジャネット・ブラウンはそれを聞きつけ警察へ行った。そこでメリー・パターソンの衣服を確認した。

証拠は充分ではなかったので司法のウイリアムレ卿はヘアに訴追の免除を、自白してバークに不利な証言をすることにより与えた。(訳注、所謂司法取引) その証言により、バークは1828年12月死刑となり、絞首の後彼の被害者と同じ運命となった。医学生のための解剖である。ヘレンマクドウガルは殺人に対しては嫌疑不十分で釈放された。ロバート・ノックは世論にも関わらず屍体の供給源につき知り得る立場になかったので訴追されなかった。

ヘレン・マクドウガルは自宅へ戻ったが、怒りの群衆によりいじめにあった。イングランドへ逃げたが、悪評はしっかりあとをつけてきた。豪州へ行き1868年に死んだと伝えられる。マーガレットヘアはいじめから逃げるために、アイルランドへ行ったと伝えられる。以後不詳。

ヘアは1829年2月に釈放された。世の中の話をまとめるとロンドンの路上で盲乞食をしているとか、殴られ石灰石鉱山に投げ込まれたとかであるが、どれも確認されたものではない。イングランドのカーリスルの町で最後に見かけられた。

ロバート・ノックはバークとへアとの関わりについて沈黙したが、人気はがた落ちした。エディンバーグ医学校の他の部署へ異動しようとしたが蹴られた。ロンドン癌病院へ移り、1862年に死んだ。

バークの皮膚は革の小冊子を綴じるのに使われ、この本は現在王立エディンバーグ外科学校にある。彼の骨格標本は、エディンバーグ大学医学校にある。

政治的影響

この殺人は医学教育の危機的状況を明らかにし、1832年解剖に関する法律の立法の流れとなった。この法律で、合法的な医学用屍骸の供給を増し、斯様な行動の理由が無くなった。この法律に就いてランセットの編者は以下のようにのべでいる。

バークとヘアは、この対策の真の著者であり、この対策は決して議会の慎重な叡智にて認可されることなかったであろう、この対策は恐怖が再来しないようまさに押し進められる。もし恐怖がわかっていて、16名の人間が行政立法の無関心により被害者となる前に行動されていたらよかったであろう。特別に賢くなくても予見できただろうこの最悪の結果は解剖学者と屍体盗掘人との取引関係から間違いなく起き得た。そこには、行政が存在していなかった。政府は過去のその無知と寛容により育てられたこの犯罪に対し相応の重い責任がある。[2]

大衆文化への影響

この殺人は、時を超えて童謡として歌いつがれた。聞かん坊をしつけるため両親は、バークとヘアがやってくると言って脅かした(ブーギマンのように)。またこのコンビの名前は、縄跳び歌や石蹴り歌にも取り入れられた。こんな具合に、

バークは肉屋
ヘアは親分
ノックはお坊っちゃま、肉を買った。[3]

ラドヤード・キップリングの『キム』で登場人物のバブは有名な著者としてバークとヘアをあげている。多分これは、歴史家で議員のエドマンド・バークと旅行記作家のオーガスタス・ヘアを指しているのだろうが、この二つの名前が並べば、読者は当然二人の墓悪魔 (ghoul) を想像することだろう。[4]

この殺人の物語は、1948年に『バークとヘアの犯罪』Crimes of Burke and Hare として映画化されたが、全英映画検閲機構はこの歴史的事件の映画化はあまりにも穏やかでないと考え、バークとヘアの名を消すように要求した。そのためバークの名は Hart に、ヘアは Moore に、そしてノックス医師はコックス医師 Dr. Cox と書き換えられアフレコし直した。タイトルも『強欲ウイリアムハート』The Greed of William Hartと改めて公開された。[5]しかし、読唇術の心得のあるものには元の台詞は明らかであった。

1972年にはデレン・ネスヴィットがバークを演ずる『バークとヘア』Burke and Hare が製作された。1960年の映画『死体解剖記』The Flesh and the Fiends もピーター・カッシングがノックス、ドナルド・プレザンスがヘアと実名を使っている。[6]翌1961年のアラステア・シムがノックス医師を演じた『解剖屋』The Anatomist でもバークとヘアの名前を使っている 。[7]バークとヘアはまた、ハマーホラーの1971年作品『ジキル博士とハイド嬢』Dr Jekyll & Sister Hyde にも登場している。

1985年にはフレディ・フランシス監督の『贖われた7ポンドの死体』The Doctor and the Devils が公開された。[8]ディラン・トマスの戯曲にもとづく本作では、ノックス医師はロック医師として登場、バークとヘアの名も変えられている。


エディンバーグの豪州流蹴球団は、バークとヘアの別名「屍体盗掘人」

ゲームティーフ2のヲタクが「7姉妹」と称するノック博士と二人の殺人鬼を含む使節を楽しんでいる。これには、ゲームコンパクトディスクと最新のダークローダー、プログラムが要る。

この殺人はスコットランドの作家イアン・ランキンのジョン・リーバス警部シリーズの『滝』The Falls において詳しく言及されている。

この殺人、特にメアリー・パターソンとダフト・ジャミイは、コリン・ベイカー、レズリー・フィリプス、デヴィッド・テナント出演しているドクター・フーのオーディオドラマ「医学の目的」Medicinal Purposes の主題である。

ワーナー・ブラザーズの、ダフィ・ダック主演の短編作品「私の小さなダカル」ではナスティ・カナスタがバークとヘアの著わした「墓掘り人足の冗談の本」を読んでいる。

ここを見よ

参考文献

  • Adams, N. (2002) Scottish Bodysnatchers ISBN 1-899874-40-2
  • Bailey, B. (2002) Burke and Hare: The Year of the Ghouls ISBN 1-84018-575-9
  • Douglas, H. (1973) Burke and Hare ISBN 0-7091-3777-X
  • Edwards, O.D. (1993) Burke and Hare ISBN 1-873644-25-6
  • MacDonald, H.P. (2005) Human Remains: Episodes in Human Dissection ISBN 0-522-85157-6
  • Menefee, Samuel Pyeatt and Allen Simpson (1994). “The Westport Murders and the Mineature Coffins from Arthur's Seat”. Book of the Old Edinburgh Club 3: ns 63-81. 
  • Richardson, R. (2001) Death, Dissection and the Destitute ISBN 0-226-71240-0
  • Roughead, W. (1966). Classic Crimes 1: Katharine Nairn, Deacon Brodie, The West Port Murders, Madeleine Smith, Constance Kent and The Sandyford Mystery. London: Panther 

脚注

  1. ^ William Burke & William Hare
  2. ^ Lancet editorial, 1828-9 (1), pp 818-21, 28.3.1829.
  3. ^ The Know-it-all, by A. J. Jacobs,
  4. ^ Alan Sandison, annotated edition of Kim, pages 163 and 302.
  5. ^ The Greed of William Hart (1948) - IMDb(英語)
  6. ^ The Flesh and the Fiends (1960) - IMDb(英語)
  7. ^ The Anatomist (1961) - IMDb(英語)
  8. ^ The Doctor and the Devils (1985) - IMDb(英語)

外部