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「城郭都市」の版間の差分

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== 城郭都市の例 ==
== 城郭都市の例 ==
[[画像:Carcassonne-vignes.jpg|250pix|thumb|right|南仏の城郭都市カルカソンヌ]]
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[[画像:Sighisoara 1740 reconstituire.PNG|250pix|thumb|right|いにしえの[[ルーマニア]]都市[[シギソアラ]]鳥瞰図]]
[[画像:Sighisoara 1740 reconstituire.PNG|250pix|thumb|right|いにしえの[[ルーマニア]]都市[[シギショアラ|シギソアラ]]鳥瞰図]]


=== 東アジア ===
=== 東アジア ===

2008年6月19日 (木) 15:08時点における版

平遥古城

城郭都市(じょうかくとし)とは周囲を土塁城壁(市壁)などの防御施設によって囲まれた都市をいう。囲郭都市城塞都市ともいい、城壁に囲まれている場合は特に城壁都市ともいう。

意義

中国では「城」という文字の本来の意味は防塁・城壁そのものを指していたが、のちに城壁で囲まれた内部をも含むようになり、内城を「城」、外城を「郭」といった。特に城壁のみを指す場合は「城牆(じょうしょう)」という。

ヨーロッパでは城を意味する用語 (英:castle、仏:château、独:burg / Schloss など) は封建領主の居館を兼ねた軍事施設のことであり、城郭都市を表わす用語としては 英:walled city、fortified city、仏:ville fortifiée、Cité fortifiée、ville avec rempart、独:befestigte Stadt などがある。ちなみに城壁は英:city wall、仏:rempart、独:stadtmauer という。

日本では城郭都市が発展しなかったため、城というと欧州のような領主の居館を意味することが多いが、語源的には中国と同様、防衛用の堀や柵・土塁のことであり、そういった意味で使われることもある(を参照)。

概要

かつてゲッティンゲンを囲った稜堡式城壁(模型)

最も原始的な城郭都市の典型は新石器時代に農耕が誕生するとともに世界各地で普遍的に見られるようになった環濠集落であろう。農耕文化の発達によって農耕経済や、それから生み出される余剰を背景とした交易活動に依存する集落に富が蓄積されるようになり、これをめぐる戦争状態が潜在的、恒常的な脅威となるにつれ、古代人は自らの集落を外敵から守るため、周囲に堀をうがち土を盛り上げて土塁とした。やがて防御力強化のためより堀を深くし、水を溜め、土塁にはを設けた。さらに煉瓦を積んで壁を作り、壁はより高く、より堅固、長大になっていった。これらの城郭都市は中東、欧州、中国など古くから文明が興隆し、部族、民族間の争いが頻発していた地域において著しい発展を遂げた。

城壁には城門が構えられ、堀がうがたれて跳ね橋などが設けられている場合もあった。城門の外側にもう1重城壁が設けられるなど防備は厳重を極めた。城壁の上には一定間隔で望楼が設置され、壁に開けられた銃眼によって敵を射撃した。城郭都市の内部には、丘陵に領主の城館が建てられるなどして城塞(シタデル)を形成し、周辺には家臣団の他、一般住民も居住した。大きなものでは郭内に耕地があるものもあり、井戸がいくつもあって長期の籠城に耐えられるようになっていた。

大陸の主要大都市にはほとんどの場合高い城壁が備えられていることが一般的であり、パリの城壁は市域拡大に併せて放射状に拡張されたし、2度のウィーン包囲に耐えたウィーンは深い堀と総延長4kmに及ぶ城壁に堡塁を備えていた。イスラム文化圏の中心都市であったバグダッドも7つの城門を持つ直径2.35kmの円形の城壁で囲まれていたし、ビザンティン帝国の帝都コンスタンティノープルは高さ10数メートルの3重の城壁で守られていた。

近世にいたり大砲が発達したことで、高い城壁は防御の面で重要性を低下させ、実戦に耐えうるために城壁は低くなり、大砲の死角を無くすため、星形に稜堡を配する稜堡式城壁(star fort) が主流となっていく。しかしそういった城壁も市域の拡張や航空機出現による戦術の転換のため、20世紀中には次々と取り壊されていった。残された城壁は壁上が整備され、線路が敷設されたり、高速道路になっているものがある。

姫路古地図

日本の城郭都市

日本には本格的な都市が出現する以前の弥生時代に、すでに互いに割拠、抗争するクニの防衛拠点として環濠集落が発達していたが、これは統一国家の形成へと向かう中で姿を消した。やがて中央集権的な律令国家が建設されていく中で、中国の都城制の概念が輸入され、国都としての平安京平城京などは城門や望楼を設け、囲郭都市の体をなしていた。だが、これらの都城は戦時の防衛に耐えられる城壁などは築かれなかった。

その後、武士の支配拠点や惣村防衛のための要塞としての城砦は建設されたものの、集落や都市そのものを防衛する城郭は発達することなく、戦闘に巻き込まれた集落や都市の住民は、通常の居住地を離れて後背地の丘陵などに建設された拠点防衛に与る城砦に避難するのが通例であった(ただし、鎌倉幕府の本拠地である鎌倉は馬蹄型の盆地である特性を生かし、切通しなどを用いて山間部を要塞化し、一種の総構え体制を構築しており「鎌倉城」と呼ばれる事もある。もっとも、幕府崩壊時にはこれらの防衛機能が活かされる事は無かった)。しかし戦国時代になり、城が戦国大名の領国経営における支配中枢拠点としての重要性を増してくると、小田原城などに見られるように城下町の周囲に自然の河川や堀、土塁を配した「総構え」という外郭構造が取られる城郭が現れた(総構えを参照)。

城郭都市の例

南仏の城郭都市カルカソンヌ
いにしえのルーマニア都市シギソアラ鳥瞰図

東アジア

欧州

中東

中央アジア

北米

関連項目