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「ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世」の版間の差分

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'''ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世'''('''Vittorio Emanuele II di Savoia''', [[1820年]][[3月14日]] - [[1878年]][[1月9日]])は[[サルデーニャ王国]]の最後の国王(在位:[[1849年]] - [[1861年]])、および[[イタリア王国]]の初代国王(在位:[[1861年]] - [[1878年]])。'''VERDI'''(Vittorio Emanuele Re d'Italia, イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ)と略される。サルデーニャ王[[カルロ・アルベルト]]と[[トスカーナ大公国|トスカーナ]]大公女[[マリーア・テレーザ・ディ・トスカーナ|マリーア・テレーザ]]の子


== イタリア統一 ==
== イタリア統一 ==
[[1849年]]、父[[カルロ・アルベルト]]王の亡命と退位によりサルデーニャ王位に就く。[[1852年]]に[[カミッロ・カヴール|カヴール]]を[[首相]]に迎え、イタリア統一運動を進める。1854年に[[クリミア戦争]]に参戦して、国際社会に王国の地位を高めた。[[1859年]]、軍事と外交を用い[[リソルジメント]](イタリア統一戦争)を開始する。
[[1849年]]、父[[カルロ・アルベルト]]王の亡命と退位によりサルデーニャ王位に就く。[[1852年]]に[[カミッロ・カヴール|カヴール]]を[[首相]]に迎え、[[イタリア統一運動]]を進める。1854年に[[クリミア戦争]]に参戦して、国際社会に王国の地位を高めた。[[1859年]]、軍事と外交を用い[[リソルジメント]](イタリア統一戦争)を開始する。


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[[プロンビエールの密約]]を取り付け、[[フランス第二帝政|フランス皇帝]][[ナポレオン3世]]の支持のもとに[[オーストリア帝国]]を退けて統一に成功するものの、代償として王国発祥の地[[サヴォワ]]と[[ニース]]を失った。[[トリノ]]、[[フィレンツェ]]と[[首都]]を代替わりさせた後、[[1870年]]に[[教皇領]]を併合し、[[ローマ]]に都を構え、統一戦争は終結した。


[[1861年]]から[[1878年]]までイタリア王として統治した。 [[1861年]][[3月17日]]にイタリア[[議会]]において国王就任を宣言した。[[イタリア]]は統一されたものの、イタリア南部の貧困層の生活改善がされないなど不満が残り、大量の匪賊・[[移民]]が生み出されていった。また、オーストリア領に[[未回収のイタリア]]が残り、回復されざるイタリア領として、[[第一次世界大戦]]まで禍根を残すこととなった。
[[1861年]]から[[1878年]]までイタリア王として統治した。 [[1861年]][[3月17日]]にイタリア議会において国王就任を宣言した。[[イタリア]]は統一されたものの、イタリア南部の貧困層の生活改善がされないなど不満が残り、大量の匪賊・[[移民]]が生み出されていった。また、オーストリア領に[[未回収のイタリア]]が残り、回復されざるイタリア領として、[[第一次世界大戦]]まで禍根を残すこととなった。


王は統一イタリアの象徴として国民から敬愛され王の頭文字は奇しくも同時期の音楽家ジュゼッペ・ヴェルデと合致し、統一戦争時には「viva!verdi!」の言葉がイタリア全土で流行った。 
王は統一イタリアの象徴として国民から敬愛された。王の頭文字は奇しくも同時期の音楽家[[ジュゼッペ・ヴェルディ]]と合致し、統一戦争時には「viva! verdi!」の言葉がイタリア全土で流行った。 


==家族==
==家族==
1842年、[[ハプスブルク]]の[[ラニエーリ・ダズブルゴ|ライナー・ヨーゼフ(ラニエーリ)大公]]([[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]の子)の末子[[マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ|マリア・アーデルハイト]]イタリア名マリーア・アデライデ)と結婚、7子が成人した。
[[1842年]]、[[ハプスブルク]]の[[ラニエーリ・ダズブルゴ|ライナー・ヨーゼフ(ラニエーリ)大公]]([[神聖ローマ皇帝]][[レオポルト2世 (神聖ローマ皇帝)|レオポルト2世]]の子)の末子で、母の従妹に当たる[[マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ|マリア・アーデルハイト(マリーア・アデライデ)]]と結婚、7子が成人した。

* [[マリーア・クロティルデ・ディ・サヴォイア|マリーア・クロティルデ]](Maria Clotilde, 1843年 - 1911年)
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2008年6月22日 (日) 01:26時点における版

ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世
Vittorio Emanuele II
イタリア王
在位 1861年3月17日 - 1878年1月9日
戴冠式 1861年3月17日
別号 サルデーニャ王1849年 - 1861年
ピエモンテ公
サヴォイア公

出生 1820年3月14日
イタリア王国の旗 イタリア王国トリノ
死去 (1878-01-09) 1878年1月9日(57歳没)
イタリア王国の旗 イタリア王国ローマ
埋葬  
パンテオン
配偶者 マリーア・アデライデ・ダズブルゴ=ロレーナ
子女 マリーア・クロティルデ
ウンベルト1世
アメデーオ
オッドーネ・エウジェーニオ・マリーア
マリーア・ピーア
カルロ・アルベルト
ヴィットーリオ・エマヌエーレ
ヴィットーリオ・エマヌエーレ
家名 サヴォイア家
王室歌 王室行進曲
父親 サルデーニャ王カルロ・アルベルト
母親 マリーア・テレーザ・ディ・トスカーナ
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ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世Vittorio Emanuele II di Savoia, 1820年3月14日 - 1878年1月9日)はサルデーニャ王国の最後の国王(在位:1849年 - 1861年)、およびイタリア王国の初代国王(在位:1861年 - 1878年)。VERDI(Vittorio Emanuele Re d'Italia, イタリア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ)と略される。サルデーニャ王カルロ・アルベルトトスカーナ大公女マリーア・テレーザの子。

イタリア統一

1849年、父カルロ・アルベルト王の亡命と退位によりサルデーニャ王位に就く。1852年カヴール首相に迎え、イタリア統一運動を進める。1854年にクリミア戦争に参戦して、国際社会に王国の地位を高めた。1859年、軍事と外交を用いリソルジメント(イタリア統一戦争)を開始する。

プロンビエールの密約を取り付け、フランス皇帝ナポレオン3世の支持のもとにオーストリア帝国を退けて統一に成功するものの、代償として王国発祥の地サヴォワニースを失った。トリノフィレンツェ首都を代替わりさせた後、1870年教皇領を併合し、ローマに都を構え、統一戦争は終結した。

1861年から1878年までイタリア王として統治した。 1861年3月17日にイタリア議会において国王就任を宣言した。イタリアは統一されたものの、イタリア南部の貧困層の生活改善がされないなど不満が残り、大量の匪賊・移民が生み出されていった。また、オーストリア領に未回収のイタリアが残り、回復されざるイタリア領として、第一次世界大戦まで禍根を残すこととなった。

王は統一イタリアの象徴として国民から敬愛された。王の頭文字は奇しくも同時期の音楽家ジュゼッペ・ヴェルディと合致し、統一戦争時には「viva! verdi!」の言葉がイタリア全土で流行った。 

家族

1842年ハプスブルク家ライナー・ヨーゼフ(ラニエーリ)大公神聖ローマ皇帝レオポルト2世の子)の末子で、母の従妹に当たるマリア・アーデルハイト(マリーア・アデライデ)と結婚、7子が成人した。

  • マリーア・クロティルデ(Maria Clotilde, 1843年 - 1911年)
  • ウンベルト(Umberto) - イタリア王ウンベルト1世
  • アメデーオ(Amedeo) - スペイン王アマデオ1世、アオスタ公
  • オッドーネ・エウジェーニオ・マリーア(Oddone Eugenio Maria, 1846年7月11日 - 1866年1月22日) - モンフェッラート公
  • マリーア・ピーア(Maria Pia) - ポルトガルルイス1世
  • カルロ・アルベルト(Carlo Alberto, 1851年6月2日 - 1854年6月22日) - シャブレ公
  • ヴィットーリオ・エマヌエーレ(Vittorio Emanuele) - 1852年に夭折
  • ヴィットーリオ・エマヌエーレ(Vittorio Emanuele, 1855年1月8日 - 1855年5月17日) - ジェノヴァ伯

1869年11月7日、愛妾ローザ・テレーザ・ヴェルチェッラーナ・グエッリエーリ(Rosa Teresa Vercellana Guerrieri)と再婚。1子が成人した

  • エマヌエーレ・アルベルト - ミラフィオーリ及びフォンタナフレッダ伯

関連項目

先代
カルロ・アルベルト
サルデーニャ王
1849 - 1861
次代
イタリア王国成立
先代
イタリア王
1861 - 1878
次代
ウンベルト1世