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安房醍醐氏の起源は[[仁寿]]の昔([[851年]]頃)までさかのぼる。その興りには諸説あるが、種々の[[古文書]]によれば、三十八代まで「佐王藤原姓」とみえ、「[[弘治 (日本)|弘治]]2年([[1556年]])3月没、行年86歳徳仁院殿安房大居士、俗名醍醐新兵衛藤原安房」<ref>「[[康平]]5年([[1062年]])秋佐王親定藤原新兵衛筆」文書</ref>という記述が見られることから'''醍醐新兵衛'''開祖の7代前には安房に移住し、[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]の乱世の中で落剥して[[漁師]]となったのではないかと云われている。「[[日本紋章学]]」には[[平家物語]]に[[醍醐実秀|醍醐三郎実秀]]の名が登場する。また、[[安房国]]の名族鑑には醍醐氏の記載があり、殊に'''醍醐新兵衛家'''は[[里見氏]]時代より加知山村に居住し、世々捕鯨に従事し云々とある。 |
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2008年7月13日 (日) 02:01時点における版
醍醐 新兵衛(だいご しんべえ)は千葉県の捕鯨家の名跡の一。醍醐新兵衛家の当主名。 屋号は大井屋。家紋は「丸に橘」。菩提寺は妙典寺。通名は新兵衛どん(しんべえどん)である。
安房醍醐氏
安房醍醐氏の起源は仁寿の昔(851年頃)までさかのぼる。その興りには諸説あるが、種々の古文書によれば、三十八代まで「佐王藤原姓」とみえ、「弘治2年(1556年)3月没、行年86歳徳仁院殿安房大居士、俗名醍醐新兵衛藤原安房」[1]という記述が見られることから醍醐新兵衛開祖の7代前には安房に移住し、戦国時代の乱世の中で落剥して漁師となったのではないかと云われている。「日本紋章学」には平家物語に醍醐三郎実秀の名が登場する。また、安房国の名族鑑には醍醐氏の記載があり、殊に醍醐新兵衛家は里見氏時代より加知山村に居住し、世々捕鯨に従事し云々とある。
年表
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歴代 醍醐新兵衛
醍醐家は、関東(房総)捕鯨の祖と云われ、初代定明の時に勝山組と岩井袋組の船団を組織化し、江戸湾でツチクジラを捕獲した。定明以来代々醍醐 新兵衛を称し、捕鯨業の総網元・大名主として村を指導した。近代になると製油産業や缶詰工業を興し、盛大ならしめたが、嫡子がなく11代目で廃絶してしまった。
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- 関東捕鯨の祖。
- 定明の末子。
- 明広の嗣子。精白と号し、字は素仙、通称新兵衛。
- 明定の長子で通称小平次。
- 定恒の長子で通称新平・字は子盛。蝦夷地鯨漁を請け負う。
- 定昌の次子。
- 定昌の次子、通称新平。
- 徳太郎の庶子。館山関沢晴清の工場にて缶詰製法について研究。以下家系は続くが捕鯨業と割愛する。
参考文献
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関連機関
- 臨海荘 黒潮資料館 - 勝浦市 - 古式~近代捕鯨史に関する資料館
- 妙典寺 - 鋸南町 - 醍醐新兵衛の菩提寺
- 姥山貝塚公園 - 市川市 - 1926年に日本で初めて竪穴式住居が発見された場所(クジラの骨も出土された)