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2008年7月19日 (土) 15:40時点における版

武見 太郎たけみ たろう1904年8月7日 - 1983年12月20日)は日本医師日本医師会会長(1957年 - 1982年)。世界医師会会長(1975年)。東海大学教授・自由民主党参議院議員武見敬三は息子。 

年譜

  • 1904年8月7日、京都府に武見可質・初夫妻(4男1女をもうける)の長男として出生。武見家はもと新潟県長岡市出身という。生後まもなく東京の上野桜木町に転居。私立開成学園中学校へ入学。3年のとき腎臓結核となり療養中に法華経などに親しむ。その後、慶應義塾中学普通部に転学。
  • 1922年(大正11年)4月、慶應義塾大学医学部に入学。柴田一能教授の日蓮聖人讃迎会に入り、また大学に仏教青年会を創設、なかでも当時慶應義塾大学予科の講師をしていた友松円諦を仏教や生き方の師として永く親交があった。
  • 1930年に慶應義塾大学医学部を卒業、内科学教室に入るも教授と折り合わず退職する。
  • 1938年理化学研究所入りし、仁科芳雄の指導の下、放射線が人体に与える影響を研究する。その傍ら翌1939年銀座で武見診療所を開業、ユニークな開業医として生計を立てながら政財界の要人とも交わる。
  • 1941年(昭和16年)秋月英子(父・子爵秋月種英と母・利武子(利武子の父は牧野伸顕伯爵))と結婚する。
  • 1944年(昭和19年)11月に長女昭子が生まれ、以後2男2女が誕生。

戦後、中央区医師会から日本医師会の代議員となり、副会長を経て会長となる。

  • 1950年3月、日本医師会副会長に就任。
  • 1957年4月、日本医師会会長に就任(連続13選)。
  • 1961年2月、医師会、歯科医師会の全国一斉休診実施。"喧嘩太郎"の異名をとる。
  • 1975年、世界医師会会長に就任。
  • 1982年4月、日本医師会会長を引退。
  • 1983年12月20日、死去。法名(戒名)は太清院醫王顕壽日朗大居士

日本医師会会長

日本医師会会長を連続13期25年その座にあった。戦後の厚生行政に於いて、医師代表として各種審議会の委員を委嘱され、時には保険診療の拒否を強行するなど厚生省官僚との徹底的な対決をも辞さない姿勢はケンカ太郎とまで言われた。医師会内部でも自分の意に沿わない医師を冷遇するなど独裁的な権力を揮い、医師会のみならず薬剤師会歯科医師会を含めたいわゆる「三師会」に影響を及ぼし武見天皇とまで呼ばれた。医師会サイドからだけでなく、吉田茂閨閥(吉田茂の妻雪子は牧野伸顕の長女)に連なり、その私的なブレーンとしても政治に関わっていた。

厚生行政に関わること以外では母校・慶應義塾大学医学部に援助を惜しまず、その地位を旧帝国大学医学部並みに高めた。また、防衛医科大学校の設立にも貢献し、漢方薬の普及にも尽力している(北里研究所附属東洋医学総合研究所の誕生には、武見の助力が大いに寄与したことが知られている)。

東海大学が医学部を設置する際に便宜を与え、息子、敬三の東海大学への就任はその見返りとも噂された。また、一説には早稲田大学が医学部の設置を企図しながら果たせなかったのは、武見の政治的圧力によるものとも言われている。

人柄

日本医師会のトップとして「医師会は高いモラルと技術を備えた職能集団である」と公言して憚らず、「自由主義経済化における開業医の独立を守る」為に“喧嘩太郎”とも呼ばれる行動に出たが、その一方では、「(医師の集団は)3分の1は学問的にも倫理的にも極めて高い集団、3分の1はまったくのノンポリ、そして残りの3分の1は、欲張り村の村長さんだ」と嘆いたとも言われる。銀座にあったクリニックでの治療費は患者が自ら診療代を自由に決めて支払いする方式は伝説になっている。人柄は、権力をかざす政治家や官僚に対しては異常な位厳しい対応をするが、弱者や老若男女にはいつでも優しく接した。「喧嘩太郎」の異名の一方「情けと涙の太郎」を知る者も多い。

医師としての実力は未知で、実際は稀有な名医と言われている。読書量は半ば超人的であり、紀伊国屋書店における書籍購入金額は国内の並み居る大学教授や研究者を押しのけて三本の指に入るという凄まじいものであったといわれている。これについては、かつて「実際には読んでいないのでは」という評価もあったが、読んだ本を譲られた人間は必ずポイントごとに印がつけられているのを見つけており、勉強量は本物であったと思われる。吉田茂の指示で高血圧を病んでいた米内光政を往診した。

その他

ハーバード大学公衆衛生大学院に武見国際保健プログラムが設置されている。

参考文献

医師性善説に賭けて…………武見太郎 p283~p306
〔初出:「武見太郎・二十五年の功罪」 『潮』1982年8月号〕
  • 保阪正康『天皇が十九人いた さまざまなる戦後』(角川文庫、2001年) ISBN 4043556039
「ケンカ太郎」の棺を覆うてから――武見太郎の功罪 p238~p265
〔初出:『新潮45』1988年5月号〕

関連項目

外部リンク

先代
小畑惟清
日本医師会会長
第11代: 1957年-1982年
次代
花岡堅而

{DEFAULTSORT:たけみたろう}