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ところが、当時のイングランド王[[エドワード3世 (イングランド王)|エドワード3世]]もフランス王家の血を引く人物であったことから、エドワード3世はフランス王位並びにフランス北部における領土を要求し、[[1337年]]から[[百年戦争]]が勃発した。 |
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名将[[エドワード黒太子]]率いるイングランド軍の攻勢の前に、フランス軍は連戦連敗を喫した。フィリップ6世の子[[ジャン2世 (フランス王)|ジャン2世]]などは黒太子に敗れて捕虜となったほどである。しかしジャン2世の子[[シャルル5世 (フランス王)|シャルル5世]](賢明王)は優秀な人物で、フランス王国を再建することに成功した。しかしそのシャルルが[[1380年]]に食中毒が原因で44歳の若さで他界すると、再びフランス軍はイングランド軍の前に連戦連敗を喫し、イングランド国王は、フランス国王にまで推戴され、遂には王国存続の危機にまで立たされた。 |
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そのような中で[[シャルル7世 (フランス王)|シャルル7世]]の時代に現れた[[ジャンヌ・ダルク]]の活躍により、フランス軍はイングランド軍に対して反攻を開始する。ジャンヌは後にイングランド軍の捕虜となって火あぶりにされたが、フランス軍の攻勢の前にイングランド軍は敗戦を重ね、[[1453年]]、遂に百年戦争はフランス軍の勝利で幕を閉じた。 |
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=== イタリア侵略 === |
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[[1515年]]に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、同じくオルレアン公ルイの孫で従兄であるアングレーム伯シャルルの息子フランソワを養子とした。これが'''ヴァロワ=アングレーム家'''である。ヴァロワ=アングレーム家は[[フランソワ1世 (フランス王)|フランソワ1世]]から[[アンリ3世 (フランス王)|アンリ3世]]まで5代続いた。 |
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その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たした[[スペイン]]と対立し、後にはスペイン王位を兼ねた[[オーストリア]]の[[ハプスブルク家]]によって挟撃され、敗北し、国力は衰えた。その後、ヴァロワ朝内部では権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、[[1589年]]に第13代国王 |
その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たした[[スペイン]]と対立し、後にはスペイン王位を兼ねた[[オーストリア]]の[[ハプスブルク家]]によって挟撃され、敗北し、国力は衰えた。その後、ヴァロワ朝内部では権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、[[1589年]]に第13代国王アンリ3世が宗教紛争の最中に一聖職者によって暗殺された。アンリ3世には子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶し、[[フランスブルボン朝|ブルボン朝]]に代わった。 |
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ただし、断絶したのは嫡流の方で、厳密に言えばヴァロワ家の血脈自体は絶えていない。オルレアン公ルイの[[庶子]]である[[ジャン・ド・デュノワ|ジャン]]を祖とする[[ロングウィル公|ヴァロワ=ロングウィル家]]は17世紀末まで存続し、[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]の庶子である[[シャルル・ド・ヴァロワ (アングレーム公)|アングレーム公シャルル]]を祖とする家系も17世紀初期まで存続した。又、[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]の庶子である[[アンリ・ド・サン=レミー]]を祖とする家系は19世紀末まで存続し、[[首飾り事件]]で有名な[[ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア|ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ]] はこの出身と言われている。 |
ただし、断絶したのは嫡流の方で、厳密に言えばヴァロワ家の血脈自体は絶えていない。オルレアン公ルイの[[庶子]]である[[ジャン・ド・デュノワ|ジャン]]を祖とする[[ロングウィル公|ヴァロワ=ロングウィル家]]は17世紀末まで存続し、[[シャルル9世 (フランス王)|シャルル9世]]の庶子である[[シャルル・ド・ヴァロワ (アングレーム公)|アングレーム公シャルル]]を祖とする家系も17世紀初期まで存続した。又、[[アンリ2世 (フランス王)|アンリ2世]]の庶子である[[アンリ・ド・サン=レミー]]を祖とする家系は19世紀末まで存続し、[[首飾り事件]]で有名な[[ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロア|ジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ]] はこの家系の出身と言われている。 |
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== 歴代国王 == |
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2008年8月2日 (土) 12:58時点における版
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ヴァロワ朝(ヴァロワちょう、dynastie des Valois)は、中世フランス王国の王朝。1328年から1589年まで続いた。
1328年にカペー朝が断絶したため、カペー家の支流ヴァロワ家からフィリップが即位しヴァロワ朝が始まった。初期には1339年に勃発した百年戦争に苦しんだが、この戦争を通じて英仏両国で国民意識が形成された。1589年までの間に13代の王を輩出した。
歴史
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/9/9a/FrancisIFrance.jpg/220px-FrancisIFrance.jpg)
成立と百年戦争
カペー朝第10代国王・フィリップ3世の子シャルルが1285年にヴァロワ伯に封じられ、ヴァロワ家を創始した。1328年にカペー朝が断絶し、シャルルの子フィリップ6世が諸侯の推挙により即位し、ヴァロワ朝が成立した。
ところが、当時のイングランド王エドワード3世もフランス王家の血を引く人物であったことから、エドワード3世はフランス王位並びにフランス北部における領土を要求し、1337年から百年戦争が勃発した。
名将エドワード黒太子率いるイングランド軍の攻勢の前に、フランス軍は連戦連敗を喫した。フィリップ6世の子ジャン2世などは黒太子に敗れて捕虜となったほどである。しかしジャン2世の子シャルル5世(賢明王)は優秀な人物で、フランス王国を再建することに成功した。しかしそのシャルルが1380年に食中毒が原因で44歳の若さで他界すると、再びフランス軍はイングランド軍の前に連戦連敗を喫し、イングランド国王は、フランス国王にまで推戴され、遂には王国存続の危機にまで立たされた。
そのような中でシャルル7世の時代に現れたジャンヌ・ダルクの活躍により、フランス軍はイングランド軍に対して反攻を開始する。ジャンヌは後にイングランド軍の捕虜となって火あぶりにされたが、フランス軍の攻勢の前にイングランド軍は敗戦を重ね、1453年、遂に百年戦争はフランス軍の勝利で幕を閉じた。
イタリア侵略
フランスを事実上統一したヴァロワ朝はイタリアへと領土的野心を向け、シャルル8世は1494年にイタリア戦争を開始する。1498年、フィリップ4世に始まるヴァロワ本家はシャルル8世の死去で断絶し、ヴァロワ朝第3代のシャルル5世の子オルレアン公ルイの孫がルイ12世として即位した。これをヴァロワ=オルレアン家という。
1515年に死去したルイ12世にも世継ぎがなく、同じくオルレアン公ルイの孫で従兄であるアングレーム伯シャルルの息子フランソワを養子とした。これがヴァロワ=アングレーム家である。ヴァロワ=アングレーム家はフランソワ1世からアンリ3世まで5代続いた。
その間も続いていたイタリア戦争では、同じように統一を果たしたスペインと対立し、後にはスペイン王位を兼ねたオーストリアのハプスブルク家によって挟撃され、敗北し、国力は衰えた。その後、ヴァロワ朝内部では権力闘争や宗教紛争が相次いだ。このような中で王朝も衰退し、1589年に第13代国王アンリ3世が宗教紛争の最中に一聖職者によって暗殺された。アンリ3世には子がなかったため、ヴァロワ朝は断絶し、ブルボン朝に代わった。
ただし、断絶したのは嫡流の方で、厳密に言えばヴァロワ家の血脈自体は絶えていない。オルレアン公ルイの庶子であるジャンを祖とするヴァロワ=ロングウィル家は17世紀末まで存続し、シャルル9世の庶子であるアングレーム公シャルルを祖とする家系も17世紀初期まで存続した。又、アンリ2世の庶子であるアンリ・ド・サン=レミーを祖とする家系は19世紀末まで存続し、首飾り事件で有名なジャンヌ・ド・ラ・モット・ヴァロワ はこの家系の出身と言われている。
歴代国王
- フィリップ6世(1328年 - 1350年)
- ジャン2世(善王le Bon1350年 - 1364年)
- シャルル5世(賢明王le Sage1364年 - 1380年)
- シャルル6世(親愛王、狂気王le Fol1380年 - 1422年)
- シャルル7世(勝利王le Victorieux1422年 - 1461年)
- ルイ11世(商人王1461年 - 1483年)
- シャルル8世(1483年 - 1498年)
- ルイ12世(1498年 - 1515年) ヴァロワ=オルレアン家
- フランソワ1世(1515年 - 1547年) 以下5代ヴァロワ=アングレーム家
- アンリ2世(1547年 - 1559年)
- フランソワ2世(1559年 - 1560年)
- シャルル9世(1560年 - 1574年)
- アンリ3世(1574年 - 1589年)