「海軍対潜学校」の版間の差分
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2008年8月5日 (火) 03:15時点における版
海軍機雷学校(かいぐんきらいがっこう)および同校から1944年3月25日に改名した海軍対潜学校(かいぐんたいせんがっこう)は、機雷や防潜網の敷設・管制・掃海術、対潜哨戒・対潜掃討術、水中探索術の習得者を養成する教育機関のことである。日本海軍では海軍水雷学校普通科修了者を中心に、普通科・高等科・特修科・専攻科を設置した。
概要
日露戦争で、敵味方入り乱れての機雷戦は、双方に大戦果と大損害をもたらした。これに着目した海軍では、水雷学校の教育課程に機雷戦のカリキュラムを設定した。また、潜水艦の実用化が進むにつれて、潜水艦の泊地攻撃を阻止するための防潜網や管制機雷の研究も開始する。さらに地中海での船団護衛活動の実績や教訓を踏まえ、対潜哨戒・掃討術の必要性も実感する。しかし、砲術と水雷を二本柱とし、潜水艦と航空機が補助兵力として注目を集める一方で、機雷術や対潜術は注目されることもなく、水雷学校のカリキュラムの中で取り扱われるだけに過ぎなかった。
1934年に各鎮守府に防備戦隊を設置したことを契機に、防備人員の確保が課題となり、機雷戦教育の強化が必要となった。1940年に海軍時間を委員長とする「防備委員会」を立ち上げ、機雷戦専門の学校として術科学校の設立が答申された。海軍機雷学校が設立されたのは、太平洋戦争開戦目前の1941年4月である。ただし、「対潜」や「防備」の呼称は戦術用語であり、兵器の操作を学ぶ術科学校の名称にはふさわしくないと反対され、推進派が強く推挙した「対潜学校」の名称に変わるのは1944年になってからであった。
他の術科学校と同じく、対潜艦艇長・機雷長を養成する高等科、初級将校を養成する普通科、特務士官・准士官を養成する特修科、高等科修了者を対象とした専攻科の4科を設置した。また兵・下士官を練習生として受け入れた。
1945年に本土決戦要員を捻出するために、増設された術科学校生徒は7月15日付で繰り上げ卒業、任地派遣が決定した。このため対潜学校も同日に閉校し、高等科教育を海軍水雷学校に編入した。
沿革
歴代機雷学校長・対潜学校長
- 杉山六蔵中将(1941年4月1日-)
- 欠員(1941年7月5日-)
- 佐藤波蔵少将(1941年10月20日-)
- 鍋島俊策少将(1944年1月20日-)
- 河野千万城中将(1945年5月1日-)
- 木村昌福少将(1945年6月1日-1945年7月15日閉校)