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2008年8月12日 (火) 06:37時点における版
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F1での経歴 | |
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国籍 |
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所属チーム |
1991年ジョーダン '92-'95ベネトン '96-'06フェラーリ |
活動時期 | 1991 - 2006 |
出走回数 | 250 |
優勝回数 | 91 |
通算獲得ポイント | 1,369 |
表彰台(3位以内)回数 | 154 |
ポールポジション | 68 |
ファステストラップ | 76 |
F1デビュー戦 | 1991年ベルギーGP |
初勝利 | 1992年ベルギーGP |
最終勝利 | 2006年中国GP |
最終戦 | 2006年ブラジルGP |
タイトル | 7 (1994, 1995, 2000, 2001, 2002, 2003, 2004) |
ミハエル・シューマッハ(Michael Schumacher, 1969年1月3日 - )は、ドイツ生まれの元F1ドライバーである。ドイツ語読みではミヒャエルに近い発音となるが、本稿では日本ではマスコミで多く用いられるミハエルと記す。また、メディアによっては、ラストネームをシューマッハーと表記することもある。愛称は名前を英語読みしたマイケル、もしくはシューミー(Schumi)。現在はフェラーリスーパーアドバイザーとして、F1の現場に立っている。
チャンピオン獲得回数7度などF1界の主な記録を更新したドライバーである。ドイツ人初のF1チャンピオンであり、2007年現在ドイツ人ドライバー唯一のF1チャンピオンでもある。
6歳年下の弟ラルフも元F1ドライバーであり、既婚で2子をもうけている。
フェラーリ移籍後、フジテレビではF1中継で「赤い皇帝」や「ターミネーター」などの呼称・通称が使われた。
プロフィール
F1デビュー前( - 1991年)
幼少時、煉瓦職人だった父が誕生日に贈ってくれた“手作りカート”がクルマとの出会いである。夢中で路上を走らせていたミハエルが電柱に衝突した為に心配した父が近所のカート場に連れて行き“本格的なレーシングカート”と遭遇した。やがてカートレースを始めるが、彼の家庭は出費のかさむこのスポーツを継続できるほど経済的に豊かではなく、他人が使い古したタイヤを拾ってきて使う事もあったという。だが、カート場のオーナー(F1ドライバー時代にはファンクラブ会長を務めた)の支援により十分な環境とは言え無いもののレースを続けた。この時父もカート場の管理人となり、母がその食堂に勤めるようになった。1984年、1985年にドイツ・ジュニア・カートチャンピオン、1987年にはドイツ・ヨーロッパ・カートチャンピオンとなった。メルセデス・ベンツに才能を見出され、スポーツカーシリーズ(プロトタイプ)、F3に参戦。
1990年にはドイツF3王者となり、不利と言われたレイナードVWで同年のマカオGPで“本命”と見られていたイギリスF3王者ミカ・ハッキネンらを下し優勝。第1レグでハッキネンは、2位シューマッハに対して約5秒引き離し圧勝していた(第一レグ終了後、シューマッハはミカ・ハッキネンに対して「ヤツは速すぎる。何かが起こらなければ勝負にならない」とコメントを出している[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。)。シューマッハが優勝するためには第2レグで約5秒以上の差をハッキネンにつける必要があった。第2レグがスタート。序盤シューマッハーはハッキネンを抜き1位をキープするが、1秒弱差にハッキネンがピタリとつける展開。ハッキネンの総合優勝が濃厚だと思われていたファイナルラップ。1位に固執したハッキネンは、1位でメインストレート走行中のシューマッハをスリップストリームからオーバーテイクを試みる(ハッキネンのチームのスタッフはハッキネンがオーバーテイクを仕掛けた事に驚き「当時F3で無線が普及していれば絶対に現状維持を指示出来たのに…」とコメントしている)。シューマッハは、スリップストリームから出たハッキネンのほうへ急激にラインを変更。両者は接触し、ハッキネンはコース右側のガードレールにクラッシュしリタイヤした。シューマッハはリヤウイングが脱落したものの、そのまま残り1周をなんとか走りきり第2レグ優勝を飾る。この結果、第1、第2レグタイム合計でシューマッハが90年マカオグランプリ総合優勝を決めている。
マカオGPの一週間後には、日本の富士スピードウェイで「第1回インターF3リーグ」が催され、マカオGPを戦ったドライバーがそのまま日本に集まった。マカオとは性格が異なる高速・富士では未曾有の「スリップストリーム合戦」となったが、シューマッハーはこのレースでも勝利した。
この頃よりカール・ヴェンドリンガー、ハインツ=ハラルド・フレンツェンとともにメルセデスの若手育成プロジェクトで、ヨッヘン・マスらのベテランドライバーと同じチームで走る英才教育を受け、グループCに参戦する。この当時はF3ではハッキネン、グループCではフレンツェンの評価の方が高かった。
1991年7月には、菅生で開催された全日本F3000第6戦に、F1参戦と重なったジョニー・ハーバートの代役としてチーム・ルマンよりスポット参戦した。初のF3000、初のサーキットというだけでなく、性能的にも不利と言われたラルトシャーシといった悪条件をものともせず、決勝では2位を獲得し、日本のレース関係者・ファンに衝撃を与えた。前年のマカオGPとインターF3リーグで勝利をおさめ、またグループCにも参戦していた事から、日本で全く無名の存在というわけではなかったが、あらゆる面で「特殊」とされていた全日本F3000でのいきなりの活躍は、異質の驚きをもって迎えられた。
この当時、ブリヂストン・ヨコハマ・ダンロップの3社が鎬を削った全日本F3000のタイヤはF1のそれよりも高性能であったといい、また、当時の国際F3000以下の下級フォーミュラがバイアスタイヤを使用していたのに対し、全日本F3000はF1と同じラジアルタイヤを使っていた。これらの事情から全日本F3000のタイヤの使い方は非常に特殊なものとなっており、来日した外国人ドライバーは今まで身につけてきたドライビングの感覚をいったん捨てた上で、多大な苦労をかけてタイヤの使い方を習得する事を強いられていた。後にF1でともに仕事をする事になるブリヂストンの浜島裕英は、僅かな練習走行でその使い方をマスターするべく、タイヤの特性を根掘り葉掘り質問攻めにしてくる他のドライバーには見られない姿勢と、そして実際に短時間でタイヤを使いこなしてしまったその才能に強い印象を受けたという。
F3からF1へステップアップする間に参戦したF3000のレースはこの1戦のみである。ただ全日本F3000がハイレベルなシリーズであったことには相当衝撃を受けたようで、後に弟のラルフが1996年にフォーミュラ・ニッポンや全日本GT選手権に参戦したのも、ミハエルから強い勧めがあったためと言われており[1]、ラルフも日本では同じチーム・ルマンに所属していた。
ジョーダン→ベネトン在籍期(1991年 - 1995年)
1991年
当初の予定ではそのまま1991年シーズン後半の全日本F3000へ参戦を予定していたが、1991年8月、ベルトラン・ガショーの刑事事件をきっかけにして、メルセデス・ベンツが用意した持参金をジョーダンに持ち込み、ベルギーGPにおいて同チームからF1にスポット参戦し、いきなり予選7位を獲得。決勝は0周リタイアに終わったものの、この活躍により、次戦からロベルト・モレノを追い出す形(結果的にはトレードでモレノはジョーダンへ)でベネトンのレギュラーシートを獲得する(この一連の移籍劇にはメルセデス・ベンツやバーニー・エクレストンが絡んでいると言われている)。
1992年
雨のベルギーGPで当時最強のウィリアムズ・ルノー勢を見事な戦略で破りF1初勝利。しかし、フランスGPのオープニングラップでアイルトン・セナに追突してリタイアへ追い込み、そのレースが赤旗中断中にセナに叱責される一幕や、その後のホッケンハイムリンクでのテスト走行中でのセナとのトラブルから両者乱闘寸前になるなど、荒っぽさがまだまだ抜け切れていないとの批判を浴びる事もしばしであった。最終戦で2位6ポイントを獲得、リタイヤしたセナをその6ポイント差で抜きランキング3位に入る。
1993年
開幕戦の南アフリカGPでレース序盤にアラン・プロストやセナを追い回すなど世代交代を予感させた。第14戦ポルトガルGPでは予選6位からピット戦略でトップ走行中のプロストを逆転し優勝。(このレースでプロストは年間タイトルを決める)。しかし、ハイテクマシンであるB193Bの信頼性が低かったことから、表彰台フィニッシュかリタイヤという出入りの激しい結果となってしまった。さらに1992年よりランキングを1つ下げてしまった。
1994年
シーズン開幕から7戦で6勝を挙げるなど、圧倒的な強さを見せた。イギリスGPでは、フォーメーションラップでデーモン・ヒルを追越したことによる5秒のピットストップペナルティを課せられたが、ピットインを指示する黒旗に6周にわたり従わなかったことでレース後に失格とされ、更にレーススチュワードから「25,000ドルの罰金」が課された[2]。ところがその後FIAより7月26日に行われた世界モータースポーツ評議会に召還され、そこで2レースの出場停止と50万ドルの罰金というペナルティが課された[3]。ベネトンチームはこの処分を不服として抗議を行い、その聴聞が8月30日に行われることとなったため、聴聞会までの3レース(ドイツ、ベルギー、ハンガリー)への参戦が認められた。聴聞後に出された裁定は、2レースの出場停止を即座に適用するというもので、その後2戦には参戦することができなかった[4]。2レースの出場停止と2レースの失格によりヒルの追い上げを許し、タイトル争いは最終戦までもつれたが、自身初(ドイツ人としても初)のドライバーズタイトルを獲得した。最終戦ではレース中にヒルと接触し、両者ともリタイアしたことでチャンピオンが決定したため、この接触は故意か否かといった点で物議を醸した。
この年、ベネトンは使用が禁じられたトラクションコントロール使用の嫌疑が掛けられたが、証拠不十分として無罪とされた[4]。また、ベネトンチームは給油装置の燃料フィルタを取り外す改造を加えていることが明らかになったが、これは給油装置の開発会社がラルースチームに対して同様の改造を既に許可していたことが判明したことなどから、処罰は行われなかった[5]。イタリアグランプリではウィリアムズも給油装置への改造を行っていたことが判明し、ウィリアムズは改造個所を元に戻すよう通告された[5]。
第3戦サンマリノGPで発生したアイルトン・セナの死亡事故が発生したとき、シューマッハはセナの直後を走っていたため、至近距離からの目撃者として、FIAと警察の事情聴取を受けている(シューマッハの車載カメラにコンクリートウォールに向かうセナの車が映し出されていた)。
1995年
序盤こそ出遅れたものの第5戦スペインGPの完勝からペースを掴み、17戦中9勝を上げてナイジェル・マンセルが92年に達成した当時のシーズン最多勝記録に並び、2度目のドライバーズチャンピオンを獲得した。この年も、ベルギーGPでのヒルとの接触で執行猶予付き出場停止処分を受けるなど、スポーツマンシップに欠けるとみなされる行動が見られた。
フェラーリ在籍期(1996年 - 2006年)
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/4/47/Michael_Schumacher_win_2004.jpg/230px-Michael_Schumacher_win_2004.jpg)
1996年
名門フェラーリに移籍。フェラーリでは、ルカ・コルデーロ・ディ・モンテゼーモロ社長とジャン・トッド監督の下、長く低迷していたチームの再建が始まっていたものの、当時最強のウィリアムズ勢に対しては劣勢と見られていた。しかし大雨のスペインGPでの優勝など、早くも3勝をマークして見せた。
1997年
ウィリアムズ・ルノーのジャック・ヴィルヌーヴが、勝つかリタイアという不安定なレースを中盤まで続けていたのに対し、ミハエル・シューマッハは信頼性の高いF310Bで5勝他、着実にポイントを稼ぎ、第16戦日本GP終了後には1ポイントリードで首位にいた。ベネトンからロス・ブラウン(テクニカルディレクター)とロリー・バーン(チーフデザイナー)が移籍してきたことで、戦略のレベルアップとマシン開発のスピードに拍車がかかったことも、シューマッハの走りをサポートしていた。そしてヘレスで行われた最終戦ヨーロッパGPでヴィルヌーブとシューマッハは予選で同タイムを叩き出し(タイムを先にだしたヴィルヌーブがポールポジション)、互角の争いをしていた。決勝では1位シューマッハ2位ヴィルヌーブのまま、2度目のピットイン終了。シューマッハのペースが落ち、ヴィルヌーブが0.5秒以内に差を詰めてきた。そして48周目、カーブドライサックへの進入でヴィルヌーブがシューマッハのインをつき、切り込んだシューマッハの右前輪とヴィルヌーブのFW-19の左サイドポンツーンが接触。シューマッハは、弾き出されグラベルに嵌り、後輪が空転して脱出できずにリタイアした。一方のヴィルヌーブは3位で完走し、タイトルを獲得した。しかし、FIAは「シューマッハがヴィルヌーブに故意にぶつけ、リタイアへ追い込もうとした(1ポイントリードのシューマッハがタイトル獲得できる為)」と判断。シーズン終了後の11月11日、FIAに召喚されたシューマッハは、ドライバーズチャンピオンシップのランキング剥奪の裁定を受けた(獲得ポイントなどの剥奪はなし)。なお、この件に関する制裁の一環として、シューマッハはFIAからシーズンオフの交通安全キャンペーンでの奉仕活動も命じられている。また、チャンピオン争いをしたヴィルヌーヴとは不思議なことにこの年に一度も同じ表彰台に立つことは無かった。余談だが、前年にフォーミュラニッポンでチャンピオンとなった弟のラルフ・シューマッハが、ジョーダン・プジョーよりF1に参戦した。
1998年
モンテゼーモロ(フェラーリ社長)が「王座奪回の年」と宣言。チーフ・デザイナーであるロリー・バーンがゼロから設計したニューマシンF300を、ジャン・トッド監督の指揮でテストも十分に重ね、満を持して臨んだミハエル・シューマッハだったが、開幕2連戦はマクラーレンのミカ・ハッキネンに連勝を許し、幸先のよいスタートをきれなかった。それでも前年に引き続きエディ・アーバインのサポート、上方排気システム及びロングホイールベースへの変更をしたF300及び前輪をワイドトレッド化したグッドイヤータイヤの進化、テクニカル・ディレクターであるロス・ブラウンの戦略(ルールの隙をついたイギリスGPやカナダGPとハンガリーGPでの卓越したピットストップ作戦)が結集され、シューマッハの成績もどんどん向上。こうした後押しを受けてポイント首位のハッキネンと熾烈な争いを展開し、フェラーリ地元である第14戦イタリアGPではポールトゥーウィンで6勝目をあげ、ポイントでも80対80と同点に並んだ。第15戦ルクセンブルクGPと最終戦日本GPでは共にポールポジションを取り、いよいよ王座奪回かと期待させたが、両決勝ではハッキネンに逆転勝利され2年連続最終戦でタイトルを逃した。シューマッハは、前述のカナダGPやハンガリーGPで作戦を遂行するため凄みのある走りを見せた反面、モナコGPではアレクサンダー・ブルツ(ベネトン)とペドロ・ディニス(アロウズ)への接触とヌーベルシケインでスピン、オーストリアGPではハッキネンと首位争いしていた17周目のヨッヘン・リントコーナーを曲がりきれずにコースアウト、1位走行中のベルギーGPでは2位のデイモン・ヒル(ジョーダン無限ホンダ )に対して40秒差をつけているにも関わらず周回遅れのデビッド・クルサード(マクラーレン)に追突と、ミスが目立ったシーズンでもあった。特にベルギーGPはせっかくのポイント逆転のチャンス(ハッキネンがリタイアしてた為)をフイにしただけでなく、結果的にタイトルそのものを遠ざけることとなった。
1999年
第3戦サンマリノGP、第4戦モナコGPで勝利し、シリーズをリードする。第6戦カナダGPではポールポジションを獲得。決勝は1位シューマッハと、2位ミカ・ハッキネンがファステストラップの応酬。ところが30周目に入り、1位シューマッハはドライビングミスで最終コーナーのコンクリートウォールに激突し、リタイア。ハッキネンに優勝され、ポイント争いでも逆転される。第8戦イギリスGPでオープニングラップに、ブレーキトラブルでコースアウトし、そのままタイヤバリアにクラッシュ。足を骨折して7レースの欠場を余儀なくされ、ドライバーズタイトル争いからの脱落を余儀なくされた。しかし復帰後はエディー・アーバインをサポートする側に回って共に奮闘し、チームは1983年以来のコンストラクターズタイトル獲得を果たした。
2000年
1999年のシーズン途中でF399の風洞開発を止め、マシンの熟成をそれ以上行なわないで、代わりにF1-2000の開発を進めていったこと[6]が功を奏し、ハッキネンとの激しい戦いを制して、ついに自身3度目、スクーデリア・フェラーリ在籍ドライバーでは1979年のジョディー・シェクター以来となるドライバーズタイトルを獲得した。また、イタリアGPでセナの持つ勝利数(41勝)と並んだ。このレースから翌年のマレーシアGPまで6戦連続のポール・トゥ・ウィンを記録している。
2001年
プロストが持つF1最多ポイント(798.5ポイント)、最多ファステストラップ(41回)と最多勝記録(51勝)を更新し、4度目のチャンピオンを獲得。カナダGPで史上初の兄弟1-2も果たしている(1位・弟ラルフ、2位・兄ミハエル)。
2002年
ファンジオの持つ偉大な記録に並ぶ5度目のチャンピオンを獲得。この年は全17戦中優勝11回で自身(1995年、2000年、2001年)とマンセル(1992年)のもつシーズン最多勝記録を更新し、さらに全レースで表彰台獲得した。7戦を残してチャンピオンを決定するという、圧倒的な強さを見せた。
2003年
シーズン開幕当初に躓いたことにより出遅れ、マクラーレンのキミ・ライコネンやウィリアムズのファン・パブロ・モントーヤらとシーズン終盤までタイトル争いを繰り広げた。第4戦サンマリノGPの決勝日に母を亡くした。このレースでポールトゥーウィンを果たしたが、記者会見ではミハエル・シューマッハの代わりにジャン・トッドが話をした。最終戦鈴鹿で、ライコネンを2ポイント差で下し4年連続6度目のチャンピオンを獲得した。また、ヨーロッパグランプリで、F1史上初の1,000ポイントを獲得した。
2004年
前年の苦境とは打って変わり、開幕戦から5戦連続優勝、第6戦モナコGPはクラッシュでリタイアを喫したもののその後は7連勝を記録し、F2004と共に2002年に勝るとも劣らない圧倒的な強さを見せた。最終的には全18戦中13勝でまたもシーズン最多勝記録を更新。15回の表彰台獲得で圧倒的な差をつけてチャンピオンを獲得し、ベルギーGPでは、ついに5年連続で通算7度のチャンピオンに輝いた。また、同年の鈴鹿が弟のラルフとの最後の1-2フィニッシュである。兄・ミハエルが優勝で、弟・ラルフが2位という結果で終わった。
2005年
新レギュレーションに対応したマシンとタイヤがうまく機能せず、前年とは一転して苦戦した。ミシュラン勢14台が安全上の問題からフォーメーションラップ終了後にボイコットし、わずか6台のみで争われた第9戦アメリカGPで、ようやく勝利をあげることができた。しかし、その後も苦戦が続き、結果的にはその1勝のみに終わり、21世紀になってから初めてチャンピオンの座を、フェルナンド・アロンソに明け渡した。
2006年
開幕戦バーレーンGPでポールポジションの獲得回数がアイルトン・セナと並び、第4戦サンマリノGPでセナを超える通算66度目のポールポジションを獲得し、そのままポール・トゥ・ウィンでシーズン初優勝を飾った。ただシーズン序盤はマシンの信頼性欠如に苦しんでフェルナンド・アロンソにポイントでリードを許したが、シーズンが進むにつれて急速に差を縮める。
第15戦イタリアGP後の公式記者会見で、2006年シーズン限りでの自身のF1ドライバー引退を表明(後任のドライバーはレース直後の会見で2位を獲得し彼の隣に座っていたキミ・ライコネン)した。会見では、ファン、家族、フェラーリの仲間とベネトン時代の仲間に感謝したいとも述べた。
次の第16戦中国GPでは雨中のレースを優勝し、ポイントランキングトップのアロンソと同点としたが、第17戦鈴鹿では、2回目のピットストップの直後、トップを走りながらエンジントラブルによりリタイアした。最終戦ブラジルGPでは、予選の第2ラウンドではトップタイムを記録したものの、第3ラウンドの開始直後にマシンが故障しタイムを記録することができなかったため、10番グリッドからスタートすることとなった。決勝ではジャンカルロ・フィジケラと接触、タイヤがパンクし、優勝は絶望的となったが、フィジケラ、ライコネンらとのバトルを制し、ファステストラップも記録した。最終的には4位でゴールし、フェルナンド・アロンソに2年連続のチャンピオン獲得を許すこととなった。同年のフランスGPが彼にとっての最後の68回目のポールポジションの獲得とポール・トゥ・ウィンを決めたレースで、雨の中国GPが彼にとっての最後の勝利(91勝目)となった。
F1引退後
2007年は、アドバイザーという役職に立場を変えてフェラーリのF1に関わり、チーム監督であるジャン・トッドや、ドライバーのフェリペ・マッサとキミ・ライコネンなどを見守る事となった。この年の開幕戦のオーストラリアでは、フェラーリに移籍してきたライコネンが優勝し、現場にいなかったシューマッハは祝福の電話をキミ・ライコネンにかけた(この年サーキットを初めて訪れたのは、ヨーロッパラウンド初戦のスペインGPであった)。モナコGPでは、去年までのライバルだったフェルナンド・アロンソと握手を交わす姿がTVに映し出された。ヨーロッパGPには、表彰台でトロフィーを渡す役として登場した。また母国・ドイツのフランクフルトモーターショーではフェラーリブースに登場し、注目を集めた。シューマッハはブラジルGPをスイスの自宅で見ていたようで、ブラジルに行かなかったことを後悔したという。スペインで開催されたイベントでドゥカティのMotoGPバイクに乗り、現役ライダーの5秒落ちという好タイムをマークし、ジャーナリストらを驚かせた。また、この事で2輪レースに対する興味が湧いたのか、2008年3月にはイタリアのマイナーレースでレースデビューを果たし4位入賞、5月にはドイツ国内のスーパーバイク選手権に同国内の大手チームよりホンダCBR1000RRを駆って参戦したが、第1ヒートは28位完走、第2ヒートは転倒リタイアに終わった。
2007年11月のバルセロナ合同テスト、同12月のヘレス合同テストに参加した。約1年ぶりにF1マシンのステアリングを握ったが、バルセロナでは2日連続でトップタイムをマークし、関係者を驚かせた。 同年のシーズンオフに、シューマッハ最後のチームメイトだったフェリペ・マッサが主催のカートイベントに参加し、総合優勝(第1レース優勝、第2レース6位)を果たした。
その後、2009年用のスリックタイヤテストのときに、テストドライバーとしてF2008を走らせたりしている。
主な記録
- ワールドチャンピオン獲得回数 歴代1位 - ファン・マヌエル・ファンジオが持っていた通算5回の記録を上回る6回目のタイトルを2003年に獲得(通算7回)
- ワールドチャンピオン連続獲得回数 歴代1位 - ファンジオが持っていた連続4回の記録を上回る連続5回のタイトルを2000-2004年に獲得
- 優勝回数 歴代1位 - アラン・プロストが持っていた通算51勝の記録を上回る52勝目を2001年第14戦ベルギーGPで記録(通算91勝)
- ファステストラップ回数 歴代1位 - プロストが持っていた通算41回の記録を上回る42回目を2001年開幕戦オーストラリアGPで記録(通算76回)
- ポールポジション回数 歴代1位 - アイルトン・セナが持っていた通算65回の記録を上回る66回目を2006年第4戦サンマリノGPで記録(通算69回)
- シーズン勝利数 歴代1位 13勝(2004年) - 自身の11勝(2002年)を塗り替える。
- 通算ポール・トゥ・ウィン回数 歴代1位 40回 - セナが持っていた通算29回を塗り替える。
- 通算表彰台フィニッシュ回数 歴代1位 154回 - プロストが持っていた通算106回を塗り替える。
- 通算獲得ポイント 歴代1位 1369pt - プロストが持っていた通算798.5ptを2001年第17戦日本GPで塗り替える。
- シーズン獲得ポイント 歴代1位 148pt(2004年) - 自身の144pt(2002年)を塗り替える。
- シーズン全戦表彰台フィニッシュ 17戦中17回(2002年)
評価
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/cf/Thanks_Michael_2006_Brazil.jpg/300px-Thanks_Michael_2006_Brazil.jpg)
そのキャリアにおいてさまざまなF1の歴代記録を塗り替え、F1史上最強ドライバーとも言われる。 純然たる速さだけではなく、中堅チームであったベネトンを瞬く間にチャンピオンチームに押し上げたり(シューマッハを失ったべネトンは急激に競争力を失い撤退を余儀なくされた)、長期低迷していたフェラーリを”再興”したり、チームオーガナイズ能力の高さは特筆に価すると言われている。
チーム内で徹底的なNo.1体制を敷くことでも知られている。スペアカーの使用権、ピット作戦における優先権のほか、チームメイトに優勝を含めレース中に順位を譲らせたことも数度あり、この点で批判を浴びることも少なくない。特に2001年、2002年のオーストリアGPでは、チームメイトのルーベンス・バリチェロに2年続けて露骨に2位と優勝を譲らせたことで物議を醸し、FIAがそれまで黙認状態だったチームオーダーを公式に禁止する異例の声明を出すに至っている。
No.1待遇について、契約書に明文化されていると言われるがその詳細は不明であり、当時同じフェラーリに在籍していたバリチェロ、マッサらはその存在を否定しているが、一方で、元チームメイトのジョニー・ハーバートは引退後にその存在を匂わせる発言をしている。また、エディ・アーバインによると「チームの指示には常に従わなければならないと契約書に書いてあった。新しいシャーシが届けば、最初に使うのはミハエルだったし、ミハエルのためにタイヤの皮むきをするのが俺の役割だった」と発言している[7]。なお、シューマッハ自身も1999年に骨折による欠場で自身のタイトル獲得の望みがなくなった際、復帰後はアーバインのサポートを実行した。
こうした待遇の是非については、シューマッハに限って言えば、1996年以降のフェラーリの復活劇は当時屈指の実力者で同時にリーダーシップを持ち合わせていた彼を中心としたものでなければ困難であった、とする見解にはチームオーダー自体に否定的な立場をとる者の中でも異論を唱える者は少ない。そのため、No.1体制については必然の在り方だった、という見方も出来なくは無い。また、歴史的には、チームオーダーを廃してチームメイト間に競わせる方針を取っているが為にタイトルの幾つかを失っているウィリアムズやマクラーレンのような例もあり、チームメイト間の立場の在り方については、シューマッハの例に限らず一般論としても議論が多い部分ではある。
他方、明確に批判と非難の対象となったものもある。F1においては過去に1994年と1997年の2度、ドライバーズチャンピオンがかかった最終戦でタイトルを争うドライバーとの接触を起こしている。1994年のケースについては故意か否かが判断しがたくシューマッハの行動に同情する声も多少あるが、1997年にヴィルヌーヴと接触したケースについては故意とみなされペナルティを受けたばかりでなく、チャンピオンに相応しくない卑劣な行為とみなされ、その後も彼の評価と名声に汚点を残した。
レースにおいては、ポールポジションからの逃げ切りやピット戦略で前に出ることが多く、実際、ピットイン前後の周回で驚異的な速さを見せてマージンを築いたり、相手より多いピットストップ戦略を行うなど、パッシングよりも作戦を精密かつ柔軟に実行することによって勝利を得るところに特徴がある。こうした走りを支えたのは、極めて正確なドランビングと優れた洞察力であり、ピットストップ作戦に偏重した現在F1において、これらの秀でた能力は大きな武器であったと言われる。
勝利を挙げたグランプリの表彰台上において常に「心の底から喜んでいる」ことも、彼を常に観察しているジャーナリストや関係者を中心によく言われる。7度のワールドチャンピオンと90もの勝利を挙げながら、新たな1勝を目指すプロ意識の高さは賞賛に値する。
マシンの開発能力も極めて高く、ブリヂストンの浜島裕英は「他のドライバー(ルーベンス・バリチェロ、ルカ・バドエルら)では決めきれない部分を決めてくれる」一方で「差がないものは差がないと言って、無理にコメントしないところもありがたい」、「開発の方向性をバシッと出してくれるところがすごい」等と語っている。浜島曰く、テストドライバーとしてシューマッハに匹敵する能力を持つのは星野一義とデビッド・クルサードくらいであるという。[8]
しかし、「セッティングはうまくなった」とチームメイトであったエディ・アーバインは証言している。曰く「ミハエルはエンジン開発をするのはうまくても、テストはあまりうまくなかった。彼が新しいフロントウィングを試してみて気にいらないと言ったのに、俺が同じウィングを使ったら、コンマ5秒も速くなったんだから」とのことである[9]。
特筆されるレース
以下に、目覚しい内容によりしばしば特筆されるレースを挙げる。
- 1992年・第12戦ベルギーGP - 自身初優勝したレース。序盤からの雨が中盤に至り止むか止まないかという展開の中スピンを喫し、チームメイトのマーティン・ブランドルに先行されたが、ブランドルのレインタイヤにブリスターが発生している状況を見て取ると、天候の判断が難しくタイヤ選択を迷う他のドライバーらを尻目に自分のタイヤ交換予定を早めさせスリックタイヤに履き替えるという冷静なタイヤ選択を行い、見事に優勝を遂げた。「若手らしからぬ」という形容詞が常に付されていた彼らしい冷静な洞察力に裏打ちされた、デビューからちょうど1年後の初優勝である。
- 1993年・第14戦ポルトガルGP - 予選は6番手とふるわないが、決勝レースでは1回目のタイヤ交換を利用して先行する3台を交わしてトップに立つと、終盤はアラン・プロストの猛攻を凌いでキャリア2勝目を上げる。タイヤ交換の前後でペースが落ちない彼のレースの特性が発揮されたレース。
- 1994年・第5戦スペインGP - レース半ばでギアが5速以外に入らなくなるというトラブルを抱えた。トップの座こそヒルに讓ったものの、大きくラップタイムを落とすことなしに残り30周以上あったレースを5速ギアだけで走りきり2位に入賞、レース終了後も涼しい顔をしてコックピットから出てきた。過去に走行中にギアが固定された例はアイルトン・セナが1991年のブラジルGPで6速で1位、デイモン・ヒルが1996年のポルトガルGPで5速で2位があるが、シューマッハの場合は通常は1速を使うピットストップからの再発進も5速でストールさせることなく行っており、低・中速コーナーをも攻略するドライビングテクニックと、途切れない集中力、体力も含め評価された。当時ベネトンチームのテクニカルディレクターであったロス・ブラウンはレース後のインタビューで、冗談交じりに「彼に6つもギアが必要なのか考えてしまうよ」とコメントしている。
- 1995年・第14戦ヨーロッパGP - この年のチャンピオン争いの実質的な最終局面となったレース。残り10周を切った時点でタイトルを争っていたデイモン・ヒルがリタイアしていたため、チャンピオン争いの帰趨はすでに見えていたが、レースにおいても勝つことをあきらめず、残り3周というところでジャン・アレジを抜き去り優勝をもぎ取った。トラック上での劇的なオーバーテイクを伴って優勝した数少ないレースの一つである。
- 1996年・第7戦スペインGP - 豪雨の中、唯一人、他のドライバーを大きく上回る速いラップタイムを刻みつづけ、レースを完全に支配し、フェラーリ移籍後の初優勝を遂げた。この年の両タイトルを獲ったウィリアムズのパトリック・ヘッドはシーズン後に、「我々のチームは今年全てのレースに勝てる車を用意したと自負している」と述べた上で、「ただ、スペインGPのミハエルだけは止めようがなかったと思う」と語った。
- 1998年・第13戦ハンガリーGP - ミハエル・シューマッハとロス・ブラウンのコンビネーションを象徴するレース。レース中、マクラーレンがフェラーリに対してレースペースで優位に立ったことを見てとったロス・ブラウンの発案により、本来2回が常道のピットストップ戦略が突如3回に切り替えられた。シューマッハは、この指示に見事応え、軽い車で毎周自己ベスト付近のタイムペースを維持し、先行するマクラーレンを逆転することを鮮やかに成功させた。
- 1999年・第15戦マレーシアGP - 第8戦イギリスGPで負傷し欠場していたため、7戦ぶりの復帰戦として臨んだレース。怪我の回復具合や長期欠場によるレース勘の鈍りなどが不安視された中、予選から決勝レースまで完全に支配する独走劇を見せた上に、当時タイトルを争っていた同僚エディ・アーバインに順位を譲った後は、アーバインとタイトル争いをしていたミカ・ハッキネンを完全に押さえ込み、2位におさまるという完璧な仕事を遂げた。
- 2003年・第6戦オーストリアGP - ポールポジションでのスタート、その後も順調にトップを走っていたが、21周目にピットストップし給油した際に給油口から火が出るものの、慌てるクルーを尻目にコクピットを出て避難することなくクルーによる消火器での鎮火後すぐ発進し、結果として優勝を飾った。因みに優勝記者会見では、「僕がちょっとクールすぎるから、メカニックがわざと火を付けてくれたのさ」とジョークを飛ばす余裕を見せた。
- 2004年・第10戦フランスGP - ポールポジションのフェルナンド・アロンソとの争いとなったが、常にピットストップを先に行い、最終的に当時常識的な作戦とされた3回を上回る4回のピットストップを行いながらも、レースペースで圧倒して優勝を飾った。上述の1998年ハンガリーGPと並ぶ、シューマッハ/ブラウン コンビの戦略的勝利と位置づけられるレースとなった。
批判と非難を浴びたレース
一方で、以下のレースについては当時、多くの批判と非難を浴び、後々まで尾を引いた。
- 1994年第16戦オーストラリアGP - 1点差のランキング1位で迎えた最終戦。タイトルを争っていたデイモン・ヒルと激しいデッドヒートを繰り広げたが、36周目にトップを走っていたシューマッハはコースアウトしコース脇のウォールに車体を当ててしまう。この機を逃すまいとしたヒルは、次のコーナーでインを刺すが、シューマッハのベネトンB194がコーナーのアウト側からそれにかぶさる形となったことで両者は激しく衝突し、この時点でシューマッハはリタイアとなり、ヒルもピットまでは戻ったもののリタイアを余儀なくされた。結果的にワールドチャンピオンの座はシューマッハのものとなったが、決定の仕方から批判も強く、後味の悪さを残した。
- 1995年・第11戦ベルギーGP -雨の中唯一スリックタイヤを履き、ピットの入れ替わりで1位になるも、レインタイヤを履いた2位のデイモン・ヒルの圧倒的レースペースによりすぐさまテールトゥノーズ状態になる。ヒルはシューマッハを抜きに掛かるも、シューマッハは何度もラインを変えるなどヒルを必要以上に激しくブロック。結果両者は接触し、最終的にシューマッハが優勝、ヒルが2位となった。シューマッハは、優勝こそしたもののヒルに対するあまりに危険な行為を行ったとして4戦の執行猶予付き1レース出場停止処分を受ける。またレギュレーションに後方のマシンをブロックする際の進路変更は一度のみという新たな規定がなされる。その一方で、このレースは(キャリア91勝の中でワーストスタートの)予選16位から驚異的な追い上げを行っての優勝と言うこともあり、キャリアハイライトの1つとも言われている。
- 1997年第17戦ヨーロッパGP - またも1点差のランキング1位で迎えた最終戦。先の例を受け、FIAの異例の配慮により、レース前にタイトルを争うジャック・ヴィルヌーヴとフェアなレースをすることを誓い合うという一幕の後に開催された。決勝で序盤はトップを快走したが2回目のピットストップ以降ペースが上がらず、追い抜きを試みたヴィルヌーヴにインを差され、それと同時にステアリングをイン側に切り、またも接触という形となり、結果、接触によりサスペンションが破損したシューマッハのみがリタイアした。レース後、ヴィルヌーヴへの接触行為は故意とみなされ、この年のランキングが剥奪されるという処分を受けた。この1994年と1997年のケースについては、前述した1990年マカオGPの事例を引き合いに出されることも多い。
- 1998年第7戦カナダGP - ピットアウト直後のシューマッハが後方のハインツ=ハラルド・フレンツェンと交錯、これによりフレンツェンはシューマッハにグラベルに押し出される形でリタイヤしてしまう。これに激怒したウィリアムズのパトリック・ヘッドがフェラーリ陣営に猛抗議、シューマッハは10秒ピットストップペナルティ課せられる。シューマッハは優勝記者会見で「ミラーを見ていなかった」と主張したが、この出来事により以後、ピットレーン出口に白線が敷かれ、ラインカットをするとドライブスルーペナルティが課せられるようになった。
- 2002年オーストリアGP - トップを走るルーベンス・バリチェロに続く形でフェラーリの1-2体制で走行中、ファイナルラップのフィニッシュライン直前でバリチェロに順位を譲らせ、優勝を奪い取る形となった。それまでもチームオーダーなどで、チームメイトを利用することで優位に立つ事には批判が多かったが、チームからの指示に対してのバリチェロの「抗議」の意味合いが強かった[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。とはいえ、あまりにも露骨なやり方にサーキットに居合わせた観客からも大ブーイングを浴びた。表彰台ではバリチェロに最上段を譲ったが、この点についてもルール違反として、FIAから罰金を払わされた。
- 2002年第11戦フランスGP - チャンピオン王手が掛かるなかで、ピットアウト時のラインカットによりドライブスルーペナルティを受けた。シューマッハがF1で積極的に行いはじめたピットアウト時のブロックが一因となり改正されたレギュレーションの影響をこのレースで受けたことは興味深い(ラインカットに対するレギュレーションの為、ラインを踏んだだけでペナルティ扱いのシューマッハを擁護する意見もあった)。また、このGPで優勝し史上最速のワールドチャンピオンが決定した。
- 2006年第7戦モナコGP - 台頭する昨年度覇者、ルノーのフェルナンド・アロンソの新旧王者対決シリーズとして注目されたが、予選の最終局面で先にトップ・タイムを出したシューマッハは「ドライビングのミス」によりラスカスコーナー出口にマシンを止め、結果としてアロンソらのアタックを妨害する形となった(通称「ラスカスゲート」)。これにより暫定ポールポジションを獲得するも審議対象となる。オフィシャルからは故意と裁定され、予選タイム剥奪のペナルティが課せられる。「自分ならば、恥ずかしくてすぐに引退する。もし自分の息子(ニコ・ロズベルグ)が同じミスをしたとしたら、蹴飛ばしてF1から降ろさせる」(ケケ・ロズベルグ)、「ライセンス剥奪すべき」(ヴィルヌーヴ)など、厳しい批判を浴びた一方、「無実でもペナルティを受けることはあるからね」(モントーヤ)と彼を擁護する意見もあった。
人物・エピソード
- 1991年に放映が始まった新世紀GPXサイバーフォーミュラの登場キャラクターのモデルにもなった。放送当時は無名だったが、半年に達しようかという頃、8月末のベルギーグランプリでF1デビューを飾り、瞬く間にトップチームのベネトンチームのシートを射止めて時の人となった。その影響で、TVシリーズ最終2話では、彼をモデルとした菅生修(ナイト・シューマッハ)はベネトンと思われるチームに所属している設定となり、最終2話ではキャメルカラーのベネトンのレーシングスーツを着用した姿も登場している。最終話エンディングでは、菅生修(ナイト・シューマッハ)と一緒に、ベネトンのB191Bフォードと思われるマシーンが写っている描写もあった。
- ドイツ語の発音原則に従えば「ミヒャエル・シューマッハー」の方が原音に近い表記となる。本人は記者に名をどう発音してほしいか尋ねられ、「英語式にマイケルと呼んでほしい」と答えたことがある。これは鈴木亜久里の証言によれば、英語での会話中は名前も英語の発音でないと感覚が狂うから、との事である。
- 同時代のあらゆるスポーツ選手の中でも屈指の高給取りで、最盛期には年間8000万ドルの収入があると言われていた。アメリカの経済誌「フォーブス」が発表するスポーツ選手長者番付では毎年タイガー・ウッズと1位を争う。しかし、多くのF1レーサーの居住地である所得税ゼロのモナコではなく、政府と免税契約をした上で「静かな生活が送れる」スイスに住居を構え、移動に使うプライベート・ジェットは弟ラルフ所有機の豪華さに対し、スピードに勝る質実剛健の仕様である事でも知られる通り、生活は至って質素であるとされ、実際、スキャンダルめいた話は一切聞かれない。
- 寿司が大好物。味噌汁も好き。また松阪牛も大のお気に入りで、F1現役時代は鈴鹿で行われる日本GPのために来日するたび、「今年も松阪ビーフのステーキを食べるのが楽しみ。あれは世界最高の牛肉だよ」とコメントを出していたほど。
- 子供のお小遣いも週2~3ドル程度と言うのが話題になった(といっても週2~3ドルなら月々8~12ドル、日本円で1,000円前後なので、10歳くらいの子供の小遣いとしては決して少なくはない)。
- 服装にもそれほど頓着せず、イギリスのレースマスコミなどはしばしばシューマッハのファッションセンスを取り上げて茶化すことがある。妻のコリーナはかつてはフレンツェンの恋人であり若手時代に彼が奪った事は有名な話だが、シューマッハが愛用しF1のサーキットにも常に携帯してきている古びたバッグにいたっては「元々はフレンツェンの物であり、フレンツェンと書かれた名前をマジックで消した形跡がある」と実しやかに囁かれる程である。
- スキー、サッカーなどを趣味にしており、オフシーズンには毎年のようにスキーを楽しんでいる。サッカーに至っては趣味の粋を超えプロ級の腕前であり、自宅のあるスイスのプロチームに所属していた事もある程である。また、国際サッカー連盟(FIFA)公認のチャリティーマッチ「ジダンフレンズ vs ロナウドフレンズ」において、ジダンフレンズの一員としてピッチに立った事もある。
- 世界ラリー選手権(WRC)チャンピオン経験のあるペター・ソルベルグは友人のひとり。オフシーズンにペターが運転するスバル・インプレッサ WRCで初めてラリー走行を体験。シューマッハは大興奮し喜んだが、後にフェラーリ首脳陣の知るところとなり大目玉を食らった。
- 他の友人として二輪レーサーの原田哲也がいる。原田はシューマッハ同様『イタリアのチーム(アプリリア)の外国人エース』だったこともあって、話をしていても共感するものがあったという。
- F1界で名実共にナンバーワンとなった1990年代後半頃からは、チャリティに熱心に取り組むようになり、先にも述べたチャリティ・サッカーにも積極的に参加しているほか、ユネスコに毎年200万ドル程度の寄付を行うなどしている。2004年のスマトラ島沖地震に際して1000万ドルもの寄付をした時は、普段F1を取り上げることも稀な日本のマスメディアにおいても話題となった。これはこの年のミハエルの年収のほぼ1割に相当し、当時の日本円で約12億円という1人の人間の寄付額としては桁外れの額。この高額な寄付の一因として、当時タイでバカンス中だった、シューマッハのボディガードを務めていた男性とその息子が、津波に巻き込まれて亡くなった事が挙げられる。
- セナが事故死した94年第3戦サンマリノGP後の記者会見で「セナは僕の憧れだった」と語った。デビュー当時のアンケートでは「尊敬するドライバー:無回答」とあったが、後に「尊敬するドライバー:アイルトン・セナ」と修正された。それを表すことが、2000年イタリアGPでセナと並ぶ41勝目を挙げたが、レース後の記者会見で、「これで勝ち星がセナと並びましたね。」という言葉にいきなり号泣しはじめ、ついにインタビューに答えることが出来なかった。
- 2007年12月には、家族を連れて子犬を受け取るためにドイツ・コバーグ郊外の村に向かった際、帰りの飛行機の時間が迫っていた関係から、乗っていたタクシー運転手に頼み込み、自らタクシーのハンドルを握って猛スピードで空港に向かった。ただこのことが世界的に大きく報道されると「ドイツ国内の交通法規に違反しているのではないか」と問題となり、シューマッハが警察の捜査対象となる事態に発展した[10]。
- 2007年にはバレンシアサーキットで、ロードレース世界選手権(MotoGP)用のマシンであるドゥカティ・デスモセディチをテストし、同年にダニ・ペドロサが記録したポールポジションタイムの5秒落ちのタイムを刻み関係者を驚かせる。その後も草レースに出場し4位になる。2008年にはドゥカティのテストライダーが負傷したため、急遽代わりに走りレギュラーライダーの0.8秒落ちのタイムを記録する。4輪だけでは無く、2輪でも才能があることを示した。また、上記プロフィールの通り最近では2輪レースに参戦するなど活発的な姿勢を見せているが、本人は本格的に2輪レースに転向する意志はないとの事である。
- 近年トラクションコントロール(TC)の禁止(2008年より)・スリックタイヤの復活(2009年より予定)などF1のレギュレーションが変革期にある関係から、かつてTCなし・スリックタイヤの時代のローテクマシンを経験しているという点を買われ、フェラーリのテストにかり出されることもしばしば。その度にトップタイムを記録するなど復帰を望む声も多い。しかし本人にはその気は無く楽しみでしているらしい。
F1での年度別成績
年 | 所属チーム | カーナンバー | 獲得ポイント | ランキング | 決勝最高位・回数 | 表彰台回数 | 予選最高位・回数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1991年 | ジョーダン / ベネトン | 32/19 | 4 | 12位 | 5位・1回 | 0回 | 5位・1回 |
1992年 | ベネトン | 19 | 53 | 3位 | 1位・1回 | 8回 | 2位・1回 |
1993年 | 5 | 52 | 4位 | 1位・1回 | 9回 | 2位・1回 | |
1994年 | 5 | 92 | 1位 | 1位・8回 | 10回 | 1位・6回 | |
1995年 | 1 | 102 | 1位 | 1位・9回 | 11回 | 1位・4回 | |
1996年 | フェラーリ | 1 | 59 | 3位 | 1位・3回 | 8回 | 1位・3回 |
1997年 | 5 | 78 | 剥奪* | 1位・5回 | 8回 | 1位・3回 | |
1998年 | 3 | 86 | 2位 | 1位・6回 | 11回 | 1位・3回 | |
1999年 | 3 | 44 | 5位 | 1位・2回 | 6回 | 1位・3回 | |
2000年 | 3 | 108 | 1位 | 1位・9回 | 12回 | 1位・9回 | |
2001年 | 1 | 123 | 1位 | 1位・9回 | 14回 | 1位・11回 | |
2002年 | 1 | 144 | 1位 | 1位・11回 | 17回 | 1位・7回 | |
2003年 | 1 | 93 | 1位 | 1位・6回 | 8回 | 1位・5回 | |
2004年 | 1 | 148 | 1位 | 1位・13回 | 15回 | 1位・8回 | |
2005年 | 1 | 62 | 3位 | 1位・1回 | 5回 | 1位・1回 | |
2006年 | 5 | 121 | 2位 | 1位・7回 | 12回 | 1位・4回 |
*1997年については、ポイントテーブル上は2位に相当するが、最終戦でのジャック・ヴィルヌーヴとの接触行為についてのペナルティとしてランキングから除外された(ただし、各レースでの成績は有効とされた)。
グランプリ別・年別の優勝回数
下記の表中の数字は、その時点での通算勝利数を示す。(例:1995年ベルギーGPでは通算16勝目)
年 | 1991 | 1992 | 1993 | 1994 | 1995 | 1996 | 1997 | 1998 | 1999 | 2000 | 2001 | 2002 | 2003 | 2004 | 2005 | 2006 | 計 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
ベルギーGP | 1 | 16 | 21 | 26 | 52 | 63 | 6勝 | ||||||||||
ポルトガルGP | 2 | 1勝 | |||||||||||||||
ブラジルGP | 3 | 11 | 37 | 55 | 4勝 | ||||||||||||
パシフィックGP | 4 | 18 | 2勝 | ||||||||||||||
サンマリノGP | 5 | 34 | 38 | 56 | 65 | 74 | 85 | 7勝 | |||||||||
モナコGP | 6 | 13 | 23 | 35 | 48 | 5勝 | |||||||||||
カナダGP | 7 | 24 | 29 | 40 | 59 | 68 | 77 | 7勝 | |||||||||
フランスGP | 8 | 14 | 25 | 30 | 50 | 61 | 79 | 88 | 8勝 | ||||||||
ハンガリーGP | 9 | 32 | 51 | 82 | 4勝 | ||||||||||||
ヨーロッパGP | 10 | 17 | 39 | 49 | 76 | 86 | 6勝 | ||||||||||
スペインGP | 12 | 20 | 47 | 57 | 66 | 75 | 6勝 | ||||||||||
ドイツGP | 15 | 62 | 81 | 89 | 4勝 | ||||||||||||
日本GP | 19 | 27 | 43 | 53 | 64 | 83 | 6勝 | ||||||||||
イタリアGP | 22 | 33 | 41 | 69 | 90 | 5勝 | |||||||||||
アルゼンチンGP | 28 | 1勝 | |||||||||||||||
イギリスGP | 31 | 60 | 80 | 3勝 | |||||||||||||
オーストラリアGP | 36 | 45 | 54 | 71 | 4勝 | ||||||||||||
アメリカGP | 42 | 70 | 78 | 84 | 87 | 5勝 | |||||||||||
マレーシアGP | 44 | 46 | 72 | 3勝 | |||||||||||||
オーストリアGP | 58 | 67 | 2勝 | ||||||||||||||
バーレーンGP | 73 | 1勝 | |||||||||||||||
中国GP | 91 | 1勝 | |||||||||||||||
1勝 | 1勝 | 8勝 | 9勝 | 3勝 | 5勝 | 6勝 | 2勝 | 9勝 | 9勝 | 11勝 | 6勝 | 13勝 | 1勝 | 7勝 | 91勝 |
* 最終的に1勝も挙げられなかったグランプリとしては、南アフリカGP(1992~1993年に参戦:最高位4位)、メキシコGP(1992年:最高位3位)、ルクセンブルグGP(1997~1998年:最高位2位)、トルコGP(2005~2006年:最高位3位)のわずか4つがあるのみである。
* 優勝を記録していないコースとしては、上記GPが開催された内のキャラミサーキット(南アフリカGP)、エルマノス・ロドリゲス・サーキット(メキシコGP)、イスタンブール・サーキット(トルコGP)の3つに加え、アデレード市街地コース(オーストラリアGP、1991~1995年:最高位2位)、ドニントン(ヨーロッパGP、1993年:リタイア)の2つがある。
* 一番勝っているグランプリはフランスグランプリの8勝で、国別ではイタリアの12勝(サンマリノグランプリ7勝とイタリアグランプリ5勝)である。
脚注
- ^ 「ラルフ・シューマッハーの真実」(本間勝久著、広報社、2001年)
- ^ 「オートスポーツ 1994年9月1日号」三栄書房
- ^ 「オートスポーツ 1994年9月15日号」三栄書房
- ^ a b 「オートスポーツ 1994年10月15日号」三栄書房
- ^ a b 「オートスポーツ 1994年11月1日号」三栄書房
- ^ 『Sports Graphic Number』(文藝春秋)「688号」 p.45
- ^ 『Sports Graphic Number』(文藝春秋)「688号」 p.44
- ^ 『GRAND PRIX SPECIAL』2008年2月号 pp.93 - 97
- ^ 『Sports Graphic Number』(文藝春秋)「688号」 p.46
- ^ 「世界最速のタクシー運転手」とんだ騒動に発展 シューマッハー - MSN産経ニュース
関連項目
外部リンク
- ミハエル・シューマッハ公式サイト(ドイツ語・英語)
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