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「徳川重好」の版間の差分

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2008年8月15日 (金) 03:40時点における版

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時代 江戸時代中期
生誕 延享2年2月15日1745年3月17日
死没 寛政7年7月8日1795年8月22日
改名 松平萬二郎、徳川重好
別名 清水重好
戒名 俊徳院體空撫心
墓所 寛永寺凌雲院
官位 従三位左近衛権中将宮内卿
参議権中納言
氏族 徳川将軍家清水徳川家
父母 父:徳川家重、母:安祥院
兄弟 家治重好
正室:一条兼香の娘・俊姫
継室:伏見宮貞建親王の娘・貞子女王
なし

徳川 重好(とくがわ しげよし)は、徳川御三卿の一つ清水徳川家初代当主。清水重好とも。

生涯

延享2年(1745年)2月15日、徳川家重の次男として生まれる。幼名は萬二郎松平姓を称した。

天明8年(1788年)5月、御庭番高橋恒成清水徳川家に関して、「御取締り宜しからず候由」と報告書を記している。具体的には、家臣の長尾幸兵衛が清水家の財政を私物化していると指摘している。また、『よしの冊子』では、長尾は3万両を田沼意次に献金し、重好を将軍職に就けようと目論んだと示唆している。

寛政7年(1795年)7月8日、死去。"享年51(満50歳没)[利用者の方へ]。嗣子がなかったため、清水徳川家は一時空位になる。その際、領地・家屋敷は一時的に幕府に収公されている。御三卿の領地・家屋敷の収公は、その創立者である将軍徳川吉宗の意向に背くものであった。そのため、同年7月、徳川治済老中松平信明らに強く抗議している。治済は七男亀之助(後の松平義居)による清水家相続を考えていたようである。なおその後、第11代将軍徳川家斉の五男敦之助が継承している。

経歴

※日付=旧暦

関連項目

先代
-
清水徳川家
初代:1758 - 1795
次代
徳川敦之助