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その後、ミランでの公式戦出場406試合、(セリエA293試合、[[コッパ・イタリア]]46試合、ヨーロッパ・カップ戦67試合)、28得点(セリエA21得点、コパ・イタリア2得点、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]5得点)の記録を残し、獲得したタイトルは、[[スクデット]]5回、[[イタリア・スーパーカップ]]優勝3回、[[UEFAスーパーカップ]]優勝1回、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]優勝1回にものぼっている。ミランでの406試合出場は歴代8位の記録である。
その後、ミランでの公式戦出場406試合、(セリエA293試合、[[コッパ・イタリア]]46試合、ヨーロッパ・カップ戦67試合)、28得点(セリエA21得点、コパ・イタリア2得点、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]5得点)の記録を残し、獲得したタイトルは、[[スクデット]]5回、[[イタリア・スーパーカップ]]優勝3回、[[UEFAスーパーカップ]]優勝1回、[[UEFAチャンピオンズリーグ]]優勝1回にものぼっている。ミランでの406試合出場は歴代8位の記録である。


=={{flagicon|Italy}}代表経歴==
===イタリア代表===
*1991年12月21日の[[キプロス]]戦([[フォッジャ]])で代表デビュー
[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]でも、94、98年W杯に出場。ユーロも96、00に出場。[[1994 FIFAワールドカップ|94年W杯]]では、サッキ監督がもう1人の守備的MFである[[ディノ・バッジョ]]に対して「アルベルティーニの左10mに平行になるようにいろ」という指示を受けており、わずか22歳にしてサッキ監督から全幅の信頼を得ていたのである。02年W杯はアキレス腱の怪我によりメンバーから漏れる。(当初からトラップは使う気は無かった)このW杯では全くと言っていいほど中盤からのゲームメイクができず、ただロングパスを放り込むだけ。アルベルティーニの不在を痛感させた大会であった。(しかし[[2006 FIFAワールドカップ|06年W杯]]では[[レジスタ (サッカー)|レジスタ]]の後継者として[[アンドレア・ピルロ]]が活躍し、イタリアの優勝に貢献している。)代表での79キャップ(主将5試合)はイタリア歴代8位という記録である。イタリア代表伝統の[[アルファベット]]順の慣例に従い、[[バルセロナオリンピック|バルセロナ五輪]]、ユーロ96で背番号10をつけたこともある。
[[サッカーイタリア代表|イタリア代表]]でも、94、98年W杯に出場。ユーロも96、00に出場。[[1994 FIFAワールドカップ|94年W杯]]では、サッキ監督がもう1人の守備的MFである[[ディノ・バッジョ]]に対して「アルベルティーニの左10mに平行になるようにいろ」という指示を受けており、わずか22歳にしてサッキ監督から全幅の信頼を得ていたのである。02年W杯はアキレス腱の怪我によりメンバーから漏れる。(当初からトラップは使う気は無かった)このW杯では全くと言っていいほど中盤からのゲームメイクができず、ただロングパスを放り込むだけ。アルベルティーニの不在を痛感させた大会であった。(しかし[[2006 FIFAワールドカップ|06年W杯]]では[[レジスタ (サッカー)|レジスタ]]の後継者として[[アンドレア・ピルロ]]が活躍し、イタリアの優勝に貢献している。)代表での79キャップ(主将5試合)はイタリア歴代8位という記録である。イタリア代表伝統の[[アルファベット]]順の慣例に従い、[[バルセロナオリンピック|バルセロナ五輪]]、ユーロ96で背番号10をつけたこともある。
[[チェーザレ・マルディーニ]]監督をして「アルベルティーニがくしゃみをするとイタリア代表は風邪をひく」とも言わしめた。アルベルティーニはイタリアの心臓であった。
[[チェーザレ・マルディーニ]]監督をして「アルベルティーニがくしゃみをするとイタリア代表は風邪をひく」とも言わしめた。アルベルティーニはイタリアの心臓であった。
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== 評価 ==
== 評価 ==
ACミランの副会長、[[アドリアーノ・ガッリアーニ]]が、最近20年間のミランで最も素晴らしい4人([[フランコ・バレージ]]、[[アレッサンドロ・コスタクルタ]]、[[パオロ・マルディーニ]]、[[デメトリオ・アルベルティーニ]])の選手の中の1人に挙げている。
ACミランの副会長、[[アドリアーノ・ガッリアーニ]]が、最近20年間のミランで最も素晴らしい4人([[フランコ・バレージ]]、[[アレッサンドロ・コスタクルタ]]、[[パオロ・マルディーニ]]、[[デメトリオ・アルベルティーニ]])の選手の中の1人に挙げている。



{{1994 FIFAワールドカップイタリア代表}}
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2008年8月27日 (水) 02:55時点における版

デメトリオ・アルベルティーニ
名前
愛称 コンダクター、デミー、プレーテ(司祭)、
ラテン文字 Demetrio Albertini
基本情報
国籍 イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1971-08-23) 1971年8月23日(52歳)
出身地 ベザーナ・イン・ブリアンツァミラノ県
身長 180cm
体重 77kg
選手情報
ポジション MF(DH, CH)
利き足 右足
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1988-1990
1990-1991
1991-2002
2002-2003
2003-2004
2004
2005
ACミラン
パドヴァ
ACミラン
アトレティコ・マドリード
ラツィオ
アタランタ
FCバルセロナ
2(0)
28(5)
293(21)
28(2)
23(2)
14(1)
5(0)
代表歴
1991-2002 イタリアの旗 イタリア代表 79(3)
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

デメトリオ・アルベルティーニDemetrio Albertini、1971年8月23日-)はイタリアの元サッカー選手ポジションMFレジスタ)。2005年12月引退。2006年7月にイタリアサッカー連盟(FIGC)副会長に就任した。

略歴

ACミランでの活躍

10歳でイタリアの名門ACミランの入団テストに合格。ジャンニ・リベラの再来と言われ、その類まれなる才能を見出されたアルベルティーニは、わずか17歳5ヶ月でセリエAデビューを果たすが、当時のミランはルート・フリットマルコ・ファン・バステンフランク・ライカールトフランコ・バレージパオロ・マルディーニら錚々たる顔ぶれが揃い、後にリーグ戦無敗優勝を含む3連覇を達成するほどのチームだったため、出場機会に恵まれず、90-91シーズン11月にパドヴァにレンタル移籍される。しかし、パドヴァで経験を積んだアルベルティーニは、翌シーズンミランに戻ると、その年から中盤に君臨し、セリエAで3連覇を成し遂げるなど、チーム内で確固たる地位を築いていった。

その後、ミランでの公式戦出場406試合、(セリエA293試合、コッパ・イタリア46試合、ヨーロッパ・カップ戦67試合)、28得点(セリエA21得点、コパ・イタリア2得点、UEFAチャンピオンズリーグ5得点)の記録を残し、獲得したタイトルは、スクデット5回、イタリア・スーパーカップ優勝3回、UEFAスーパーカップ優勝1回、UEFAチャンピオンズリーグ優勝1回にものぼっている。ミランでの406試合出場は歴代8位の記録である。

イタリア代表

イタリア代表でも、94、98年W杯に出場。ユーロも96、00に出場。94年W杯では、サッキ監督がもう1人の守備的MFであるディノ・バッジョに対して「アルベルティーニの左10mに平行になるようにいろ」という指示を受けており、わずか22歳にしてサッキ監督から全幅の信頼を得ていたのである。02年W杯はアキレス腱の怪我によりメンバーから漏れる。(当初からトラップは使う気は無かった)このW杯では全くと言っていいほど中盤からのゲームメイクができず、ただロングパスを放り込むだけ。アルベルティーニの不在を痛感させた大会であった。(しかし06年W杯ではレジスタの後継者としてアンドレア・ピルロが活躍し、イタリアの優勝に貢献している。)代表での79キャップ(主将5試合)はイタリア歴代8位という記録である。イタリア代表伝統のアルファベット順の慣例に従い、バルセロナ五輪、ユーロ96で背番号10をつけたこともある。 チェーザレ・マルディーニ監督をして「アルベルティーニがくしゃみをするとイタリア代表は風邪をひく」とも言わしめた。アルベルティーニはイタリアの心臓であった。

選手キャリアの晩年

02-03シーズン、スペインの名門アトレティコ・マドリードへ電撃レンタル移籍。フエラ(スペイン語でアウェーの意味)のマドリーデルビー(マドリーダービー)では後半50分にフリーキックから同点ゴールを叩き込んだ。このゴールは専門誌のベストゴールに選ばれた。その後、03-04シーズンにラツィオ、04-05シーズンにアタランタとクラブを転々とする。

04-05シーズン冬、かつてのチームメイトであるライカールトが指揮をとるバルセロナへ移籍したが、怪我もあり、期待された活躍は出来なかった。2005年夏に契約が満了し、2005年12月6日に現役引退を発表。引退会見の式場にはアドリアーノ・ガッリアーニパオロ・マルディーニアレッサンドロ・コスタクルタホアン・ラポルタフランク・ライカールトマルコ・ファンバステンカルレス・プジョルなど親交の深い人々が駆けつけ、2006年3月15日サンシーロで引退セレモニーが行われた。現在監督になるための勉強中である。

プレースタイル

中盤の底でチームの攻守のバランスをとりつつ、正確な長短のパスで攻撃の起点となる。イタリアで”レジスタ”と呼ばれるポジションを体現した人物と言って良い。特に彼は、単に起点となるだけでなく、アシストも多く決めており、チームの勝利への貢献度は極めて大きかった。

FKやミドルシュートも得意としており、アトレティコ・マドリー時代であった02-03シーズンのマドリーダービーでは後半ロスタイムのラストプレーでFKの同点ゴールを決めるなど、精神的にも強い選手であった。PKも非常に上手い選手であり、94年W杯決勝では22歳にして2番手キッカーを任されたり、晩年の各クラブでもPKを任されたりしていた。

評価

ACミランの副会長、アドリアーノ・ガッリアーニが、最近20年間のミランで最も素晴らしい4人(フランコ・バレージアレッサンドロ・コスタクルタパオロ・マルディーニデメトリオ・アルベルティーニ)の選手の中の1人に挙げている。