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*野村克也監督のもとでの現役時代、ベンチではルーキー時から常に監督の傍に居た。野村はこれについて「『お前はキャッチングとスローイングは出来上がっとるから、あとは配球を覚えろ。試合が始まったらずっと俺の傍にいろ。俺がブツブツ言うのを聞いとれ』と言ったんです。彼は忠実に(私の傍に)居ましたよ。」と述べている。(ジャンクSPORTS) |
*野村克也監督のもとでの現役時代、ベンチではルーキー時から常に監督の傍に居た。野村はこれについて「『お前はキャッチングとスローイングは出来上がっとるから、あとは配球を覚えろ。試合が始まったらずっと俺の傍にいろ。俺がブツブツ言うのを聞いとれ』と言ったんです。彼は忠実に(私の傍に)居ましたよ。」と述べている。(ジャンクSPORTS) |
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* 東京ヤクルトに入団する投手の中には「'''古田さんに受けてもらいたい'''」と発言する選手も少なくなかった。[[石川雅規]]も、大学時に[[シドニーオリンピック]]で古田とバッテリーを組んだことがきっかけでヤクルト入団を決意したひとりである。また古田の活躍に憧れて捕手になった若手選手も多く、他球団でも入団時に古田を目標として挙げる若い捕手も多い。 |
* 東京ヤクルトに入団する投手の中には「'''古田さんに受けてもらいたい'''」と発言する選手も少なくなかった。[[石川雅規]]も、大学時に[[シドニーオリンピック]]で古田とバッテリーを組んだことがきっかけでヤクルト入団を決意したひとりである。また古田の活躍に憧れて捕手になった若手選手も多く、他球団でも入団時に古田を目標として挙げる若い捕手も多い。 |
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* 2005年、2000本安打を達成した際、[[報道ステーション]]でのインタビュー内で、「最も印象に残るヒットは?」という[[栗山英樹]]の質問に対し、[[荒木大輔]]の復活を、劇的に演出したサヨナラホームランと答えている。 |
* 2005年、2000本安打を達成した際、[[報道ステーション]]でのインタビュー内で、「最も印象に残るヒットは?」という[[栗山英樹]]の質問に対し、[[荒木大輔]]の復活を、劇的に演出したサヨナラホームランと答えている。([[1992年]][[9月24日]][[広島東洋カープ]]22回戦(神宮)[[望月一|望月]]から打った逆転2ラン、実際はサヨナラではない) |
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* 2006年・2007年には前述の「F-Project」のデーイベントの企画として、古田自らによるプロデュース企画「メガネDay」が実施された。当日は眼鏡(伊達眼鏡も可)を着用して入場したファンには景品が進呈された他、場内には古田がこれまで着用していた歴代の眼鏡を展示。さらに試合前・イニング間には「面白メガネコンテスト」などのイベントも実施した。また選手・コーチや球団職員、マスコットも眼鏡を掛けてファンサービスに務め、報道関係者も便乗して眼鏡を掛けるなど、神宮の場内は文字通り「メガネ一色」となった。 |
* 2006年・2007年には前述の「F-Project」のデーイベントの企画として、古田自らによるプロデュース企画「メガネDay」が実施された。当日は眼鏡(伊達眼鏡も可)を着用して入場したファンには景品が進呈された他、場内には古田がこれまで着用していた歴代の眼鏡を展示。さらに試合前・イニング間には「面白メガネコンテスト」などのイベントも実施した。また選手・コーチや球団職員、マスコットも眼鏡を掛けてファンサービスに務め、報道関係者も便乗して眼鏡を掛けるなど、神宮の場内は文字通り「メガネ一色」となった。 |
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* 古田は現役時代の18年間、退場処分を受けた事が2度ある。 |
* 古田は現役時代の18年間、退場処分を受けた事が2度ある。 |
2008年8月29日 (金) 04:13時点における版
基本情報 | |
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国籍 |
![]() |
出身地 | 兵庫県川西市 |
生年月日 | 1965年8月6日(58歳) |
身長 体重 |
180 cm 80 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 捕手 |
プロ入り | 1989年 ドラフト2位 |
初出場 | 1990年4月11日 |
最終出場 | 2007年10月9日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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オリンピック | ||
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男子 野球 | ||
銀 | 1988 | 野球 |
古田 敦也(ふるた あつや、1965年8月6日 - )は、兵庫県出身の元プロ野球選手(捕手)。
ヤクルトスワローズ一筋で現役を過ごし、名捕手として一時代を築いた。また、2005年シーズン終了後から引退年の2007年まで選手兼任監督を務めた。
来歴・人物
少年期・アマチュア時代
小学校3年の時、地元・川西市の少年野球チーム「加茂ブレーブス」で捕手をはじめたが、捕手を任された理由は「(当時)太っていたから」という単純なものだったという。宝塚市立南ひばりガ丘中学校時代には地元でも注目され、高校進学時には私立校からも誘いがあったものの、自宅に近い公立の兵庫県立川西明峰高等学校に進学、高校3年間はほぼ無名の存在だった。その後古田は関西大学の他、立命館大学経営学部の一般入試を受験し、どちらも合格。志望していた関大へ進むことを決め、断るつもりで立命大に挨拶に出向いたところ、古田を勧誘していた立命大野球部の中尾卓一監督に「来てくれたんか!」と大喜びされてしまい、成り行きのまま1984年春、立命大に入学した。大学時代は家庭教師などのバイトをしていた。
古田は1年時から正捕手となり、主軸打者としても活躍するなど才能が一気に開花。2年時にはリーグ戦春季・秋季連続優勝に導き、また4年時の1987年には大学野球日本代表のメンバーに選出されるなど、その実力は全国にも知れ渡り、プロ各球団からも注目を集めた。ところが、11月のドラフト会議ではどの球団からも指名されず、しかも指名の確約まであった球団からすらも指名がなかった。当日校内の一室には会見用のひな壇が設けられたほどだっただけに、古田にとっては屈辱的なドラフトとなった。
卒業後の1988年、トヨタ自動車に入社。同社硬式野球部に入部した。トヨタでも1年目から正捕手を任され、主軸打者として都市対抗野球大会でも活躍。同年8月に行われたソウルオリンピックの野球(公開競技)日本代表に選出され、野茂英雄、潮崎哲也らとバッテリーを組んで活躍。決勝戦でアメリカに敗れたものの、銀メダル獲得に貢献した。
1989年、大学、社会人を経て成長した古田のプレーに、当時ヤクルトのスカウト部長であった片岡宏雄が一目で惚れ込み、自らトヨタを訪れて獲得の意思を古田本人に伝えた。2年前のドラフトでの一件もあってか、古田は片岡の言葉に「本当ですか?嘘じゃないでしょうね?」と何度も訊き直したという。ヤクルトは、同年のドラフト会議で野茂を1位で指名。だが結果抽選で外れ、ヤマハの西村龍次を指名した。そして2位に古田を指名したが、監督に就任したばかりの野村克也は当初「眼鏡をしているが、ホンマに大丈夫なんか?」と不安を隠せなかったといわれている。なお、片岡は「本当は古田を1位で指名したかった」と後に明かしている。
ルーキーイヤーから正捕手の座に
入団当初、野村の古田評は「肩は一流だが、打撃は二流、リードは三流や」という辛辣なものだったが、最大の武器である強肩を活かそうと、野村は古田に捕手としての技術をマンツーマンで教え続けた。当時のヤクルトは正捕手に秦真司がいたが、課題の弱肩は克服できず、単調なリードで野村の逆鱗に触れたこともあり、途中から古田が正捕手の座を奪い106試合に出場。盗塁阻止率でもリーグ1位を記録しゴールデングラブ賞も獲得した。
2年目の1991年、古田は攻守にわたって大きく成長。同年のオールスターゲーム第1戦(東京ドーム)ではMVPを受賞した。またシーズン終盤には打率トップを落合博満と激しく競り合い、打率.340で首位打者を獲得。首位打者を獲得した捕手は野村以来史上2人目、セントラル・リーグ史上初の快挙であった。
翌1992年のオールスターゲーム第2戦(千葉マリンスタジアム)では、オールスター史上初のサイクルヒットを記録しMVPを受賞。同年シーズンも打率.316を記録した他、自己最多の30本塁打、86打点を挙げて攻守にわたってチームを牽引し、ヤクルトを1978年以来14年ぶりのリーグ優勝に導いた。日本シリーズでは西武の前に苦杯を舐めたが、ヤクルトは翌1993年もセ・リーグを制して連覇を達成すると、日本シリーズで再び対戦した西武を倒し、15年ぶりの日本一に輝いた。また、この年は最優秀選手に選ばれ、こうして古田は名実共に「名捕手」への道を歩み始めた。
1994年はヤクルトの3連覇が期待されたが、4月14日の対広島東洋カープ2回戦の試合中、古田は前田智徳のファウルチップを右手に受けて指を骨折、シーズン序盤にして長期離脱を余儀なくされた。古田は結局76試合の出場、打っても打率.238、3本塁打、19打点という不本意な成績に終わり、チームも4位に沈んだ。
1995年は公式戦全試合に出場、また全試合にマスクを被って王座奪回に貢献した。日本シリーズの対戦相手はオリックス・ブルーウェーブ。とりわけイチローとの対戦が注目を集めた。が、ヤクルトはスコアラー陣を駆使してデータを収集し、ミーティングでも野村らはイチロー対策に多くの時間を割いた。試合でも古田が打席での状況を見極めるなどして配球を工夫。こうしてイチローを見事攻略して打棒を封じ込め、ヤクルトは2年ぶりの日本一に輝いた。プライベートでも同年オフ、当時フジテレビのアナウンサーだった中井美穂と結婚。1996年は4位に終わったが、1997年に再びリーグ優勝を奪回、日本シリーズでも攻守にわたってチームを牽引して西武を4勝1敗で退けて日本一に輝き、古田は捕手として初めてセ・リーグと日本シリーズ両方のMVPを受賞した。
1998年には史上343人目の通算1000試合出場を達成したものの、打撃がやや不調でチームも4位に終わった。同年限りで恩師・野村がヤクルト監督を退任(その後阪神タイガース監督に就任)。同年オフにフリーエージェントの権利を行使してヤクルトと5年契約を結び、また労組選手会会長にも就任した(プロ野球再編問題参照)。野村に代わって若松勉が監督に就任した1999年は自身5度目の打率3割を達成し、同年行われたシドニーオリンピック野球アジア予選の日本代表にも選出。チーム最年長選手として攻守にわたり、そして精神的支柱としても本大会出場決定に貢献した。だが2000年はヤクルトが優勝争いに絡んだこともあって、五輪の本大会には出場できなかった。しかし皮肉なことに、ヤクルトは五輪期間を境に上位戦線から徐々に脱落し、3シーズン連続の4位。それでも自身2度目の盗塁阻止率6割を達成するなど気を吐いた。
2001年、シーズン終盤の激しいつば迫り合いの中で迎えた8月28日の対中日ドラゴンズ22回戦(神宮)の9回表、古田はダッグアウト前に上がった捕邪飛をスライディングキャッチしようとして転倒、左膝後十字靭帯を損傷する全治3週間の重傷を負った。8月30日に出場選手登録を抹消され、9月17日まで戦線を離脱し19試合を欠場。復帰当初は主に代打での出場だった。9月24日に先発復帰した際には膝の関節が過度に曲がらないよう、後部のベルト部分にパッドの付いた特製のレガースを着用して満身創痍の身体に鞭を打ちつつラストスパートに貢献、10月6日に4年ぶり、自身通算5度目のリーグ優勝を果たした。打率は自身通算2位の.324という好成績だった。さらに日本シリーズでは大阪近鉄バファローズの「いてまえ打線」を封じ込め、チームを4勝1敗で日本一に導くとともに、自身2度目のシリーズMVPを受賞した。
2005年には通算2000本安打を達成するなど、選手としても数々の金字塔を打ち立てた。だが4月27日の読売ジャイアンツ戦、タフィ・ローズのファウルチップが古田の股間を直撃し、左睾丸部打撲で全治1週間。これをきっかけに体調を崩し、扁桃腺炎を発症して出場選手登録を抹消された。さらに8月19日にも左大腿部裏を肉離れするなど、このシーズンは2度にわたって戦線を離脱し、小野公誠や米野智人ら後輩捕手に出場機会を譲った。
29年ぶりの選手兼任監督
2005年限りで若松が監督を退任。後任として古田に白羽の矢が立ち、かつての恩師である野村克也以来29年ぶりとなる選手兼任監督として、翌2006年シーズンからヤクルトの指揮を執ることで10月18日、球団と合意した(選手として1年契約、監督としては2年契約)。
一方、ファンサービスの改善策についても球団と交渉を続け、当時カカクコム社長の穐田誉輝ら球団外部からも人材を招聘。こうしてファンサービス向上や地域密着の強化などを柱とした球団改革構想「F-Project」を11月1日に発足させ、様々なファンサービス策と地域密着策を次々と展開。古田はこのF-Projectの一環として球団に対し、球団名に都市名を冠することを提案。球団もこの意向を受けて検討の上で申請を提出、12月19日のプロ野球実行委員会で新球団名「東京ヤクルトスワローズ」への改称が承認された(プロジェクトの主な概略については東京ヤクルトスワローズ#F-Projectとヤクルトタウンも併せて参照)。
こうして2006年、古田は兼任監督1年目のシーズンを迎えた。メディアや評論家はそれまでの古田の堅実なプレースタイルから「手堅い野球をするだろう」と予想していたが、いざ蓋を開けてみると、1番青木宣親、2番アダム・リグス、3番岩村明憲、4番アレックス・ラミレス、5番グレッグ・ラロッカという超攻撃的な野球であった。結局同年の東京ヤクルトはリーグ最多のチーム総本塁打161本を記録、総得点669も中日ドラゴンズと並んでリーグ最多タイの数字を残すなど「打ち勝つ野球」を体現した。だが一方、投手陣では主力の故障離脱などにより駒数が揃わず、とりわけリリーフ陣の固定には頭を悩ませた。特に痛手だったのが、石井弘と五十嵐亮太の「ロケットボーイズ」の不調だった。
自ら代打出場する際、球審とアイコンタクトを取って自らを指差す「代打・オレ」のポーズは話題となった。
結局同年の東京ヤクルトは、監督としては70勝73敗3分、勝率.490でリーグ3位、Aクラスを確保するなどまずまずの成績を挙げた。一方、選手としては36試合の出場にとどまり、シーズン成績も自己ワーストに終わった。同年オフの契約更改交渉では選手分年俸の大幅減俸を言い渡され、当時のプロ野球史上最大減俸幅となる1億8000万円減(75%減)の6000万円で契約を更改した。
現役引退、監督退任へ
2007年シーズンは、選手としても監督としても苦闘を強いられた。主力クラスの移籍や長期離脱によって、先発ローテーションとベストオーダーが組めない状況に陥った。
ラミレスと青木がシーズン終盤に首位打者争いを繰り広げ、ラミレスはセ・リーグのシーズン最多安打記録(プロ野球歴代2位)となる204安打を記録したが、チームが苦闘を強いられる中、古田自身も現役選手としての限界を隠せないシーズンとなった。通算2000試合出場こそ達成したものの、前年から抱えていた右肩痛の回復状態が思わしくなく古田はベンチで采配に専念する日々が続いた。8月までに出場した試合は僅か3試合(うち先発が2試合、代打が1試合)。自身の出場選手登録も2度抹消するなど、状態の悪さを窺わせた。
9月17日に東京ヤクルトのBクラスが確定、クライマックスシリーズ進出の可能性がなくなった段階で古田は辞意を固めた。9月19日明治神宮外苑にある明治記念館で行われた記者会見で「チームの成績不振の責任を取りたい」として現役引退と監督退任を発表、18年間着続けたスワローズのユニフォームを脱ぐことが決まった。会見では退任の理由について「社長からは『もう一年(やったら)どうだ』とも言われたが、誰かに責任を負わすわけにはいかない。自分でけじめをつけた方がいいと思った」と語った。だがチームメイトとファンへのメッセージを求められた際には、数分間に亘って沈黙し「くそっ… アカンなぁ…」と呟きながら何度も涙を拭うシーンも見られ、その涙の意味を問われると「まあ、寂しいというより、悔しい方かな。うん…。よく分からない…。すみません」と悔しさをにじませた。引退・退任を表明した後、神宮のスタンドからは「辞めないで」「ご苦労様」「ありがとう」など、複雑な想いが入り混じった声援がスワローズファンのみならず、ビジター球団のファンからも飛び交った。
10月7日、神宮球場で行われた本拠地最終戦(対広島24回戦)が古田の引退試合となり、古田は5番・捕手で4月19日以来シーズン3試合目、そして現役最後の先発メンバーに名を連ねた。8回裏の第4打席では、前日広島市民球場で引退セレモニーを行ったばかりの佐々岡真司が登板(前日、佐々岡が自ら登板を志願していた)。古田は遊ゴロに倒れたが、場内は球界を支え続けた功労者の対戦に大きな声援を送った。8回には石井一、また9回には高津とバッテリーを組んで現役最後のマスクを被った。なお、この試合が現役最終出場ではなく、翌々日の10月9日に横浜スタジアムで行われたヤクルトのシーズン最終戦において、アダム・リグスの代打として最後のバッターボックスに立った。結果は吉見祐治から見事レフト前に現役通算2097本目のヒットを放って有終の美を飾った。
10月11日、古田は監督として最後の仕事であるシーズン終了報告のためヤクルト本社を訪れ、堀オーナーと会談。その席上で背番号「27」を球団初の「名誉番号」とする提案を受け、古田本人も快諾した(但し当時、ファンの間では「永久欠番にしてもいいのでは」という声も上がっていた)。また球団からは功労金として5000万円が贈られた。一方、前日の10月10日、球団が高津に対し突如戦力外を通告した件について、球団からの事前通告や話し合いの機会が一切なかった事などに言及するなど、最後までフロントとのしこりを払拭できない後味の悪さも残った。
ヤクルト退団後
2007年11月21日付で任意引退が公示されヤクルトを退団し、11月23日のファン感謝デーには高津同様不参加だったが、11月25日の「新報道プレミアA」にコメンテーターとして復帰。11月28日放送の「トリビアの泉2007秋SP」に出演。今後はコメンテーターとしてテレビ番組の出演をする。(なお、プロ野球中継解説者としては特定局との専属解説者とはせず、実質フリーの立場での出演。2007年のアジア野球選手権大会・テレビ朝日での野球日本代表の試合で初めて解説者として出演した。2008年の北京オリンピックではジャパンコンソーシアムの野球の解説ではなくフジテレビジョンの中継総合キャスターとして出演する)
なお、ファン感謝デー後には一部ファンから「古田さんを選手会終身名誉会長に!」という署名運動が神宮球場周辺にて行われていた。今後再び「球界再編問題」が生じた場合、2004年の時と同様、選手会一同、そしてファンを代表し共に立ち向かって行って欲しいと願うファンの声は多い。(上記の署名運動は現在ネット上にても実施中)
古田は18年間の現役生活で様々な記録を次々と塗り替え「眼鏡を掛けた捕手は大成しない」という球界の定説を覆し、またグラウンド外でも幅広く活躍した。現役選手、監督、そしてファンの間では、近い将来の球界復帰を願う声が絶えず送られている。
人物評
守りの要の名捕手
現役時代の古田は、野村克也らと並んで日本プロ野球史に名を遺すであろうといわれる名捕手であった。
かつて日本の野球界には「眼鏡を掛けた捕手は大成しない」という固定観念があった。古田も眼鏡を着用していたことから、大学時代には首位打者を獲得しながらプロのドラフト指名から漏れ、社会人からプロ入りする際にも「最大の欠点」と評されたほどだった。だが古田はその負けず嫌いな性格でそのハンデを補って持ち前の強肩と堅守を活かし、さらに古田のプロ入りと同時にヤクルトスワローズの監督に就任した野村からマンツーマンの指導を受けて技術を磨き、やがて日本球界を代表する捕手となった。
捕手としての古田は、蓄積された緻密な計算に基づく頭脳的なリードから「ID野球の申し子」と評された。投手には初球からウイニングショットを要求したり、逆に決め球にはど真ん中に直球を要求したりといった風に、打者の裏のさらに裏をかく配球術は相手打者の脅威となり、またボールに近いコースぎりぎりの際どい球をストライクに見せるキャッチング技術の高さも打者を惑わせ続けた。古田のこうした高い技術は『打者は投手ではなく、古田と勝負している』などと揶揄されたほどであった。だがその一方、内角高めの球を要求して打者に身体を起こさせることが多く、この際に制球を誤って死球を誘発したことも多々あり、乱闘や口論などトラブルを招いたことも一度や二度ではなかった(その報復なのか否かは不明だが、逆に古田が喫した死球の数も多く、通算111死球は歴代9位である)。
さらに生まれ持った強肩と、捕球から送球までの素早い動作を武器にして、塁上の走者の盗塁を次々と阻止。盗塁阻止率リーグ1位を通算10回記録し、また1993年と2000年には阻止率6割以上という驚異的な数字を残している。かつて「捕手は捕球の際、脇を締めて構える」というセオリーがあったが、古田はこれに反し、敢えて両腕をルーズにして構えた。これによって低い球や大きくコースを外れた球を確実に捕球し、さらに盗塁を企図された際にも素早く反応することができたのである。新人時代、野村がこの古田の動作を一見するや歩み寄り「お前、もういっぺんやってみい」とリクエスト。そして再度確認した後「ほう。お前、そうやるんか。なるほどな、勉強になったわ」と言わしめたほど洗練されたものであった。また「捕手のミットは小さいほどいい」と言われた当時、古田は敢えて大きなミットを使用した。これも変化球に対応し、より確実な捕球を目指すためであった。
古田は18年間の現役生活で、ヤクルトを計5度のリーグ優勝と4度の日本一に導き、また古田自身もベストナインを通算9回(捕手として歴代3位、リーグ史上最多)、ゴールデングラブ賞も通算10回(捕手として歴代2位、リーグ史上最多)獲得している。
また、現役時代には2度のノーヒットノーランを導いた。1995年9月9日の対読売ジャイアンツ22回戦(東京ドーム)でテリー・ブロス、1997年9月2日の対横浜ベイスターズ23回戦(横浜スタジアム)で石井一久をリードして、快挙達成をアシストした。日本プロ野球史上、ノーヒットノーランに複数回立ち会った捕手は通算21人いる(なお野村克也は現役27年間で一度も経験することがなかった)。
中軸を任される打撃センス
古田は打撃でも優れた技術を発揮し、全盛期には主に3~5番のクリーンアップとして活躍した。
現役時代には通算8回のシーズン打率3割を記録。これは日本プロ野球の捕手では史上最多である。プロ2年目の1991年には首位打者を獲得。同年の打率.340は、セ・パ両リーグを通じて捕手のシーズン打率の歴代最高記録である。捕手で打撃3部門(打率、本塁打、打点)のタイトルを獲得したのはプロ野球史上では野村、田淵幸一の2人しかおらず、古田は彼らに次いで史上3人目である(2007年現在、古田以後に打撃3部門のタイトルを獲得した捕手は現れていない)。特に走者を得点圏に置いた場面では勝負強さを発揮し、主に4番を任された1997年には本塁打9本ながら86打点を挙げ、犠打や進塁打などケース打撃も厭わない活躍から「バントもする4番打者」と話題になった。
2007年の現役引退までに通算2097本の安打を放ったが、これは捕手としては野村の2901本に次ぐ歴代2位。また通算打率.294は、7000打数以上の選手の中では歴代8位の記録であり、4000打数以上の捕手では土井垣武の.282を大きく上回る歴代最高の成績である。野村はプロ入り以降、大きく成長した古田の打撃面について「あいつは、俺が捕手としてアドバイスした事を打撃に活かしおった」と評している。
2000本安打達成時、「GET SPORTS」(テレビ朝日系)にて「打者・古田敦也」が特集された。新人の頃落合博満の打撃を捕手側からみて、落合の打撃を参考にし、自分の打撃に取り入れたことを明かしている。また独自の打撃理論を持ち「2ストライク」になると三振があるため打率がグッと下がることから(事実多くの野球選手は2ストライク時の打率は下がる)、初球の重要性を挙げている。初球を打つことを投手に印象付けることで、自然とボールから入ることが多くなり、ボールを先行させることで打ちやすい球が自然と呼び込めるようになるというもの。この理論からか古田は2000本安打達成者の中では四球が極端に少ないため、大卒、社会人を経た選手で史上初の2000本安打を達成できたと分析されている。
年度別成績
打撃成績
- 太字はリーグ最高(試合数は全試合出場)。
年度 | チーム | 背 番 号 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
失 策 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
1990年 | ヤクルト | 27 | 106 | 334 | 280 | 32 | 70 | 12 | 1 | 3 | 93 | 26 | 1 | 1 | 3 | 4 | 43 | 4 | 44 | 11 | .250 | 2 |
1991年 | 128 | 485 | 412 | 58 | 140 | 23 | 5 | 11 | 206 | 50 | 4 | 5 | 4 | 3 | 62 | 4 | 59 | 10 | .340 | 4 | ||
1992年 | 131 | 568 | 474 | 87 | 150 | 27 | 3 | 30 | 273 | 86 | 3 | 2 | 1 | 4 | 78 | 11 | 87 | 12 | .316 | 7 | ||
1993年 | 132 | 595 | 522 | 90 | 161 | 29 | 0 | 17 | 241 | 75 | 11 | 4 | 9 | 2 | 59 | 3 | 83 | 15 | .308 | 1 | ||
1994年 | 76 | 287 | 260 | 24 | 62 | 9 | 0 | 3 | 80 | 19 | 3 | 0 | 1 | 3 | 20 | 3 | 40 | 11 | .238 | 2 | ||
1995年 | 130 | 551 | 487 | 88 | 143 | 18 | 1 | 21 | 226 | 76 | 6 | 0 | 5 | 7 | 46 | 6 | 51 | 24 | .294 | 2 | ||
1996年 | 119 | 492 | 437 | 57 | 112 | 24 | 2 | 11 | 173 | 72 | 5 | 1 | 4 | 1 | 46 | 4 | 68 | 22 | .256 | 3 | ||
1997年 | 137 | 598 | 509 | 74 | 164 | 32 | 2 | 9 | 227 | 86 | 9 | 4 | 3 | 4 | 69 | 13 | 64 | 11 | .322 | 5 | ||
1998年 | 132 | 552 | 491 | 58 | 135 | 19 | 1 | 9 | 183 | 63 | 5 | 4 | 3 | 4 | 46 | 8 | 62 | 14 | .275 | 3 | ||
1999年 | 128 | 548 | 483 | 79 | 146 | 26 | 2 | 13 | 215 | 71 | 10 | 3 | 4 | 7 | 51 | 3 | 41 | 8 | .302 | 2 | ||
2000年 | 134 | 562 | 496 | 65 | 138 | 31 | 0 | 14 | 211 | 64 | 5 | 5 | 6 | 4 | 45 | 11 | 54 | 15 | .278 | 4 | ||
2001年 | 121 | 503 | 441 | 59 | 143 | 23 | 0 | 15 | 211 | 66 | 1 | 0 | 3 | 7 | 43 | 9 | 41 | 17 | .324 | 3 | ||
2002年 | 120 | 458 | 420 | 49 | 126 | 24 | 1 | 9 | 179 | 60 | 3 | 0 | 3 | 1 | 28 | 6 | 47 | 15 | .300 | 3 | ||
2003年 | 139 | 576 | 509 | 69 | 146 | 27 | 1 | 23 | 244 | 75 | 2 | 0 | 4 | 3 | 49 | 11 | 77 | 14 | .287 | 5 | ||
2004年 | 133 | 532 | 483 | 72 | 148 | 23 | 0 | 24 | 243 | 79 | 1 | 2 | 0 | 3 | 36 | 10 | 66 | 11 | .306 | 2 | ||
2005年 | 96 | 357 | 329 | 29 | 85 | 15 | 0 | 5 | 115 | 33 | 1 | 0 | 1 | 3 | 19 | 5 | 54 | 8 | .258 | 1 | ||
2006年 | 東京ヤクルト | 36 | 98 | 90 | 11 | 22 | 5 | 0 | 0 | 27 | 8 | 0 | 0 | 1 | 0 | 7 | 0 | 13 | 4 | .244 | 0 | |
2007年 | 19 | 18 | 2 | 6 | 1 | 0 | 0 | 7 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 1 | 0 | 0 | 1 | .333 | 0 | |||
通算成績 | 2008 | 8115 | 7141 | 1003 | 2097 | 368 | 19 | 217 | 3154 | 1009 | 70 | 31 | 55 | 60 | 748 | 111 | 951 | 223 | .294 | 49 |
守備成績
- 太字はリーグ最高(試合数は捕手として全試合出場)。
- 盗塁阻止率順位が空欄となっている年度は、捕手としての出場試合数が規定試合数に到達せず。
年度 | 試合数 | 企図数 | 許盗塁 | 盗塁刺 | 阻止率 | 同順位 | 捕逸 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
1990 | 106 | 55 | 26 | 29 | .527 | 1 | 5 |
1991 | 127 | 83 | 35 | 48 | .578 | 1 | 12 |
1992 | 130 | 60 | 31 | 29 | .483 | 1 | 2 |
1993 | 132 | 45 | 16 | 29 | .644 | 1 | 7 |
1994 | 76 | 24 | 12 | 12 | .500 | 1 | 2 |
1995 | 130 | 67 | 35 | 32 | .478 | 2 | 6 |
1996 | 118 | 60 | 36 | 24 | .400 | 3 | 7 |
1997 | 137 | 61 | 33 | 28 | .459 | 1 | 7 |
1998 | 132 | 68 | 38 | 30 | .441 | 1 | 10 |
1999 | 127 | 59 | 32 | 27 | .458 | 1 | 13 |
2000 | 134 | 73 | 27 | 46 | .630 | 1 | 7 |
2001 | 116 | 43 | 22 | 21 | .488 | 2 | 2 |
2002 | 113 | 52 | 30 | 22 | .423 | 3 | 8 |
2003 | 139 | 71 | 44 | 27 | .380 | 1 | 5 |
2004 | 130 | 58 | 43 | 15 | .259 | 6 | 8 |
2005 | 87 | 32 | 24 | 8 | .250 | 6 | 1 |
2006 | 21 | 10 | 9 | 1 | .100 | 1 | |
2007 | 6 | 5 | 5 | 0 | .000 | 1 | |
通算 | 1959 | 926 | 498 | 428 | .462 | 104 |
タイトル・表彰・記録
アマチュア時代
プロ野球時代
- MVP:2回(1993年、1997年)
- 首位打者:1回(1991年)
- ベストナイン:9回(1991年 - 1993年、1995年、1997年、1999年 - 2001年、2004年)
- ゴールデングラブ賞:10回(1990年 - 1993年、1995年、1997年、1999年 - 2001年、2004年)
- 正力松太郎賞:1回(1997年)
- 日本シリーズMVP:2回(1997年、2001年)
- 月間MVP:4回(1991年5月、1993年8月、1997年5月・9月)
- 最優秀JCB・MEP賞:1回(1993年)
- 最優秀バッテリー賞:6回(1991年、1992年、1995年、1997年、2000年、2001年)※6回選出は歴代最多タイ記録。
- 最優秀バッテリー特別賞:1回(1993年)
- セ・リーグ会長特別賞:1回(2003年)
- セ・リーグ特別功労賞:1回(2007年)
- 24試合連続安打(1992年6月6日 - 7月11日)
- 1試合4本塁打(2003年6月28日)※日本タイ記録。
- 4打数連続本塁打(2003年6月28日)※日本タイ記録。
- シーズン盗塁阻止率.644(1993年)※日本記録。
- オールスター出場:17回(1990年 - 2006年)
- オールスターMVP:2回(1991年第1戦、1992年第2戦)
- 1991年のオールスター第1戦で1試合3盗塁刺
- 1992年のオールスター第2戦でサイクルヒット(オールスターでは史上初)
個人記録
- 2回裏、一死一、二塁の場面で木田優夫から左中間適時二塁打で2打点を挙げて記録。
- 6回表、北別府学から。
- 通算1000打点達成:2005年10月5日 対中日ドラゴンズ21回戦(明治神宮野球場)
- 8回裏に代打出場、二死一、三塁の場面で高橋聡文から左前適時打で1打点を挙げて達成。史上通算27人目。大学・社会人野球を経た選手としては史上初。
- 通算1000得点達成:2006年6月4日 対オリックス・バファローズ6回戦(明治神宮野球場)
- 7回裏に安打で出塁、その後アダム・リグスの16号3点本塁打で生還し達成。史上通算33人目。
- 史上通算37人目、捕手登録の選手としては5人目。大学・社会人野球を経た選手としては史上初。なお、古田はこの試合で退場処分を受けている。
監督としてのチーム成績
年度 | チーム | 順位 | 試合 | 勝利 | 敗戦 | 引分 | 勝率 | ゲーム差 | チーム 本塁打 |
チーム 打率 |
チーム 防御率 |
年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
2006年 | 東京ヤクルト | 3位 | 146 | 70 | 73 | 3 | .490 | 18 | 161 | .269 | 3.91 | 41歳 |
2007年 | 6位 | 144 | 60 | 84 | 0 | .417 | 20.5 | 139 | .269 | 4.07 | 42歳 |
- 290試合 130勝157敗3分 勝率.448
- Aクラス1回、Bクラス1回
エピソード
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野球に関する話題
- 野村克也監督のもとでの現役時代、ベンチではルーキー時から常に監督の傍に居た。野村はこれについて「『お前はキャッチングとスローイングは出来上がっとるから、あとは配球を覚えろ。試合が始まったらずっと俺の傍にいろ。俺がブツブツ言うのを聞いとれ』と言ったんです。彼は忠実に(私の傍に)居ましたよ。」と述べている。(ジャンクSPORTS)
- 東京ヤクルトに入団する投手の中には「古田さんに受けてもらいたい」と発言する選手も少なくなかった。石川雅規も、大学時にシドニーオリンピックで古田とバッテリーを組んだことがきっかけでヤクルト入団を決意したひとりである。また古田の活躍に憧れて捕手になった若手選手も多く、他球団でも入団時に古田を目標として挙げる若い捕手も多い。
- 2005年、2000本安打を達成した際、報道ステーションでのインタビュー内で、「最も印象に残るヒットは?」という栗山英樹の質問に対し、荒木大輔の復活を、劇的に演出したサヨナラホームランと答えている。(1992年9月24日広島東洋カープ22回戦(神宮)望月から打った逆転2ラン、実際はサヨナラではない)
- 2006年・2007年には前述の「F-Project」のデーイベントの企画として、古田自らによるプロデュース企画「メガネDay」が実施された。当日は眼鏡(伊達眼鏡も可)を着用して入場したファンには景品が進呈された他、場内には古田がこれまで着用していた歴代の眼鏡を展示。さらに試合前・イニング間には「面白メガネコンテスト」などのイベントも実施した。また選手・コーチや球団職員、マスコットも眼鏡を掛けてファンサービスに務め、報道関係者も便乗して眼鏡を掛けるなど、神宮の場内は文字通り「メガネ一色」となった。
- 古田は現役時代の18年間、退場処分を受けた事が2度ある。
- 1996年6月29日の阪神タイガース14回戦(神宮)、打席に立った古田はこの回から登板した阪神投手嶋田哲也から3球続けて頭部付近にビーンボールを投げられた。この投球に激高した古田がマウンドに歩み寄ろうとしたところ、これを制止しようとした阪神捕手山田勝彦とつかみ合いとなり首投げをしてしまった。結局、古田・山田両者共に暴力行為をはたらいたとして退場処分を受けた。
- 2007年4月19日の横浜ベイスターズ3回戦(神宮)、東京ヤクルト投手遠藤政隆が横浜打者村田修一の頭部を直撃する死球を与え、危険球とみなされ退場。その打席、村田は自分から当たりに行くような形で(かがむような形で)死球を受けており、審判の判定を不服とし暴言を吐いた古田も退場処分を受けた。ちなみにその死球の前に横浜投手加藤武治は3死球を与えており、後味の悪い結果となった。
- 古田は現役時代に行われたあるインタビューで「これまでバッテリーを組んだ投手の中で、最も印象に残る投手は?」という設問に対し「伊藤智仁です」と即答。「全盛期は直球が速く、高速スライダーも持っていた。あれ以上の投手はなかなか現れないでしょう」と語っている。
- ヤクルト球団はフジサンケイグループ傘下にも関わらず、同グループの夕刊フジから攻撃される事が多かった。特に古田は労組選手会の会長を務めていた事もあってか、槍玉に挙げられる事が多かった。一方スポーツ報知、日刊スポーツなどは2007年頃から東京ヤクルト球団幹部の手際の悪さを度々指摘し、古田を擁護する姿勢をとっていた。
その他
- 従兄にはタレントの大木凡人がいる。また直接の血縁はないが、同じ東京ヤクルトスワローズの城石憲之とは縁戚関係(互いの従兄弟同士が夫婦)にある。
- 眼鏡を掛け、飄々とした風貌からプロ入り当初は「のび太」と呼ばれ、マスコミにもそのニックネームでしばしば取り上げられた。
- 1994年にシングルCD「Xeno ~見知らぬ人~」を発売している。(現在は廃盤)
- 2005年1月5日、故郷である兵庫県川西市から同市第1号の「名誉市民」を受賞した。古田は同日の授賞式・講演会で「子どもたちが大きな夢を持って育てるような環境づくりに貢献していきたい」と喜びを語った。
- 1993年には、母校立命館大学のイメージキャラクターに選ばれたこともある。その際のキャッチコピーは「うちのチームも大したもんだが、うちの母校も大したもんだ」であった。2008年には、京都の龍安寺にて同学の川口清史総長と語り合う、と言う内容の同学の広告に再登場した。
- トヨタ自動車在社時代、社内では人事部に配属され、野球部の練習が無い時間帯には従業員のトラブル処理や社内レクリエーションの企画・運営などに従事していた。プロ入り後も愛車は一貫してトヨタ車を愛用している(クラウン→アリスト→セルシオ→レクサス・LS)。
- 趣味は将棋、ゴルフ、読書、映画鑑賞など。音楽ではU2の大ファン。書道は有段者の腕前を持つなど、達筆家でもある。
- このうち、特に将棋に関しては日本将棋連盟から免状を贈呈されるほどの腕前で、1995年8月には初段、2004年11月には三段の免状を受けている。
- 2005年から、公式ブログを開設。トラックバック数1位を誇る「ブログの女王」眞鍋かをりのブログを意識しており、「打倒眞鍋かをり」を宣言している。なお眞鍋がブログを書籍化した際は古田が宣伝用の帯を担当し、古田が書籍化した際は眞鍋が宣伝用の帯を書いている。しかし、そのためなのか一部誌で古田は眞鍋に一度も会ってないにもかかわらず不倫疑惑を流され、その後本当に眞鍋と神宮球場で会ったときはお互いが疑惑を流されたことを知っていたため「はじめまして……ですよね?」とバツが悪そうな挨拶になったという。
- 上の公式ブログを開設する以前、試験的に「吉田淳也」という偽名でブログを数回書いていた。写真も載せていたのにもかかわらず閲覧数はとても少なかったが、古田敦也の公式ブログで紹介すると一気に閲覧数が増えたという。
- 2006年11月21日、男性誌GQ JAPANの読者投票により『GQ JAPAN Men of the Year 2006』のスポーツ部門で選出された(⇒参照)。
主な著書
- 「古田のびのびID野球」(1993年、学研/単著)ISBN 4054001181
- 「古田式」(2001年、太田出版/共著 古田敦也・周防正行)ISBN 4872335813
- 「心を読み、かけひきに勝つ思考法」(2002年、PHP研究所/共著 古田敦也・谷川浩司)ISBN 4569622313
- 「勝利のチームメイク」(2003年、日本経済新聞社/共著 古田敦也・岡田武史・平尾誠二)ISBN 4532164389
- 「「勝負脳」を鍛える」(2004年、PHP研究所/共著 古田敦也・谷川浩司)ISBN 4569662307
- 「古田のブログ」(2005年、アスキー/単著)ISBN 4756146937 (公式ブログを書籍化)
主なメディア出演
情報・報道番組
- 高津臣吾が高津哲也として変装したりしてゲストに出た。
バラエティ
- 東京フレンドパーク2(TBS)
- 1992年、1993年、1994年(以上「1」の時)、1997年、2001年に4回出演。
- とんねるずのみなさんのおかげでした(フジテレビ)
- 食わず嫌い王に2回出演
- SP時に高津臣吾とゲスト出演
- SMAP×SMAP(フジテレビ)
- トリビアの泉(フジテレビ)
- 秋のSPでゲスト出演
- 2008年8月4日放送分でオリンピックチームのキャプテンとして出演。ファイブツアーズバギーでは最終問題を正解し、ゲストチームとして初めて同ゲームをクリアした。
コマーシャル
- アイメトリクス・ジャパン(1992年~2007年)
- 古田は1992年7月に同社と契約し、以来同社の眼鏡を愛用し続けている。2006年・2007年にはF-Projectのデーイベント「メガネDay」の協賛も行った。
- JR東日本(1993年・踏切事故撲滅キャンペーン)
- 東京デジタルホン - 現ソフトバンクモバイル(1994年)
- ヤクルト本社(1996年、2006年3月~ほか)
- 現役時代はヤクルトのCMにも数回出演。1996年のCMでは夫人の中井美穂と共演した。また2006年のCMはブロックサインを交えたユニークなものであった。
- トヨタホーム(1996年)
- 古田がトヨタOBであることから出演が実現。こちらも夫人と共演した(夫人は1998年まで出演)。
- 富士写真フイルム(2005年4月・企業イメージCM「あしたにつづく写真」第4編)
- 古田は“思い出の一枚”として立命館大4年時に撮影した写真を選び、当時の思い出を語った。
- ゼット(2005年・企業イメージCM「もっとうまくなりたい。」編)
- 古田は現役時代、同社とアドバイザリー契約を結び、同社のバット、ミット、プロテクターなどを使用していた。
- 三井ダイレクト損害保険(2005年4月~)
- ユニデン(2006年~2007年)
- 任天堂「Wii Fit」(2007年~) - これを機に、Miiコンテストチャンネルの題材にされた。
- サッポロビールビアファイン(2008年)
ドラマ
- 第129話・130話に棋士・毛利元彦役で出演。
- 第1話(第一球)と最終話(第九球)に本人役で出演。
- 第6話(2006年11月21日放送)に桜子の担任教諭・森役で出演。ドラマ企画担当の高井一郎と美穂夫人はフジテレビの同期入社という縁で普段から親交があり、高井の出演依頼を受けての出演だった。
ラジオ番組
- 古田敦也 ラジオもやってます(2008年4月~、ニッポン放送)
関連項目
外部リンク
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- ※カッコ内は監督在任期間。