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* 宮人:西園寺公子(大納言三位局) - [[西園寺公経]]女、中宮姞子の叔母 |
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* 掌侍:藤原博子(勾当内侍) - 藤原孝時女 |
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:* 覚助法親王(1247-1336) - [[四天王寺]]別当・[[園城寺]]長吏 |
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* 藤原氏(按察三位局) - [[四条隆衡]]女 |
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:* 最助法親王(1253-1293) - [[天台座主]] |
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* 藤原 |
* 藤原氏(御匣殿) - [[三条公房]]女 |
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:* 性助法親王(1247-1282) - [[仁和寺]] |
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:* 忠助法親王(?-1290) - [[園城寺]]長吏・[[聖護院]] |
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* 生母不明 |
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:* [[浄助法親王]](1253-1280) - [[円満院]] |
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* 藤原氏(右衛門督局) - [[一条能保]]女 |
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:* 円助法親王(1236-1282) - [[円満院]] |
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* 藤原氏(二位局) - [[藤原俊盛]]女 |
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:* 愷子内親王(1249-1284) - [[斎宮|伊勢斎宮]] |
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* 藤原氏(一条殿局) - 法眼[[証円]]女(一説に[[藤原兼房 (太政大臣)|藤原兼房]]女) |
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:* 仁恵法親王(1244-1298) - 法住寺 |
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* 源氏(大納言局) - [[中院通方]]女 |
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:* 皇子(1243) - 即日没 |
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* 藤原氏 - [[藤原良平 (公卿)|藤原良平]]女 |
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* 源氏 - [[源頼政]]曾孫 |
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=== 系図 === |
=== 系図 === |
2008年9月18日 (木) 21:33時点における版
後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。
系譜
- 主な妃、皇子女
- 皇女(?-1281)
- 慈助法親王(1254-1295) - 天台座主
- 悦子内親王(延政門院)(1260-1332)
- 典侍(准三后):平棟子(大納言二位局) - 平棟基女
- 掌侍:藤原博子(勾当内侍・後坊門局) - 藤原孝時女
- 藤原氏(按察三位局) - 四条隆衡女
- 最助法親王(1253-1293) - 天台座主
- 藤原氏(御匣殿) - 三条公房女
- 藤原氏 - 姉小路実世女
- 藤原氏(右衛門督局) - 一条能保女
- 円助法親王(1236-1282) - 円満院
- 藤原氏(二位局) - 藤原俊盛女
- 愷子内親王(1249-1284) - 伊勢斎宮
- 仁恵法親王(1244-1298) - 法住寺
- 源氏(大納言局) - 中院通方女
- 皇子(1243) - 即日没
- 藤原氏 - 藤原良平女
- 源氏 - 源頼政曾孫
- 勝助(?-?) - 仁和寺
- 藤原氏某
系図
77 後白河天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
78 二条天皇 | 以仁王 | 80 高倉天皇 | 亮子内親王 (殷富門院) | 式子内親王 | 覲子内親王 (宣陽門院) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
79 六条天皇 | 某王 (北陸宮) | 81 安徳天皇 | 守貞親王 (後高倉院) | 82 後鳥羽天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
86 後堀河天皇 | 83 土御門天皇 | 84 順徳天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
87 四条天皇 | 88 後嵯峨天皇 | 85 仲恭天皇 | 忠成王 (岩倉宮) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
88 後嵯峨天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
宗尊親王 (鎌倉将軍6) | 【持明院統】 89 後深草天皇 | 【大覚寺統】 90 亀山天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
惟康親王 (鎌倉将軍7) | 92 伏見天皇 | 久明親王 (鎌倉将軍8) | 91 後宇多天皇 | 恒明親王 〔常盤井宮家〕 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
93 後伏見天皇 | 95 花園天皇 | 守邦親王 (鎌倉将軍9) | 94 後二条天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
直仁親王 | 邦良親王 | 96 後醍醐天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
光厳天皇 北1 | 康仁親王 〔木寺宮家〕 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
略歴
土御門上皇が土佐に流された後は、母方の大叔父である中院通方・土御門定通の許で育った。だが、土御門家一門の没落に伴って苦しい生活を送り、20歳を過ぎても出家も元服もままならないという中途半端な状態に置かれていた。
ところが四条天皇が12歳で急死したため、皇位継承の問題が持ち上がった。公卿や幕府などの思惑が絡んだため、問題は難航した。九条道家ら公卿勢力は、順徳上皇の皇子である忠成王(仲恭天皇の異母弟)を擁立しようとしたが、執権北条泰時は、承久の乱の関係者の順徳上皇の皇子の擁立には反対の立場を示し、中立的立場であった土御門上皇の皇子の邦仁王を擁立しようとし、鶴岡八幡宮の御託宣があったとして邦仁王を擁立した(実は土御門定通の妻は泰時の異母妹であったため、邦仁王と北条氏とは縁戚関係にあったという特殊な事情もあった)。この駆け引きのため、11日間の空位期間が発生した。
邦仁王は1242年即位し、1246年、在位4年で後深草天皇に譲位。以後、院政を敷く。この年、政治的に対立関係にあった実力者・九条道家が失脚した事もあって、以後上皇の主導によって朝廷内の政務が行われる事になった。以後、姉小路顕朝・中御門経任ら実務担当の中級貴族を側近に登用されて院政が展開されていく事になる。1259年には後深草天皇に対し、後深草天皇の弟である亀山天皇への譲位を促した。
後嵯峨上皇の時代は、鎌倉幕府による朝廷掌握が進んだ時期であり、後嵯峨上皇による院政は、ほぼ幕府の統制下にあった。また、摂関家の代わりに、宗尊親王を将軍として送っている。以後、鎌倉幕府の将軍は天皇家より出ることになる。また、この時代に北条氏が鎌倉幕府を掌握し、執権政治を確立する。
1268年に出家して法皇となり大覚寺に移る。1272年、崩御。
後嵯峨上皇が、後深草上皇の皇子ではなく、亀山天皇の皇子(後の後宇多天皇)を皇太子にした事が、後の持明院統(後深草天皇の血統)と大覚寺統(亀山天皇の血統)の確執のきっかけとなり、それが南北朝時代、更には後南朝まで続く大乱の源となった。吉川英治は『私本太平記』中で「天子の座は象徴で、治天の君たる上皇、法皇にこそ実権がある、というのは既に常識であった。この無理な処置は少しでも長く院政の権栄を享受したいがためであろう。」と考察している。
在位中の元号
陵墓・霊廟
京都市右京区嵯峨天龍寺芒ノ馬場町の嵯峨南陵(さがのみなみのみささぎ)に葬られた。
関連項目
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