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「スピードスター (企業)」の版間の差分

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== 沿革 ==
== 沿革 ==
[[濱田政信]]が、国内で初めて「3ピース・アルミホイール」を開発。その製造・販売を目的に[[1971年]]に個人創業、[[1978年]]に法人改組し株式会社スピードスターを設立
[[濱田政信]]が、国内で初めて「3ピース・アルミホイール」を開発。その製造・販売を目的に[[1971年]]に個人創業、[[1978年]]に株式会社スピードスターに法人改組した


[[モータースポーツ]]シーンにおいて高い評価を得たことで圧倒的な支持を受け、アルミホイールブームを生むきっかけともなった。
[[モータースポーツ]]シーンにおいて高い評価を得たことで圧倒的な支持を受け、アルミホイールブームを生むきっかけともなった。
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[[2005年]][[1月27日]]に関連会社のスピードスター販売と共に[[自己破産]]を申請。
[[2005年]][[1月27日]]に関連会社のスピードスター販売と共に[[自己破産]]を申請。


同年10月に自動車部品メーカー・[[タナベ]](本社・大阪府[[箕面市]])が事業を引継ぎ、現在も“SSR”・“Vienna”・“SPEED STAR”の3ブランドのアルミホイールが販売されている。
同年10月に自動車部品メーカー・[[タナベ]](本社・大阪府[[箕面市]])が同社の事業を[[買収]]。現在も“SSR”・“Vienna”・“SPEED STAR”の3ブランドのアルミホイールが販売されている。


== モータースポーツ ==
== モータースポーツ ==
[[1976年]]に「'''スピードスターホイールレーシングチーム'''(略称:SSR)」を発足させ、全日本F2000選手権(後の[[フォーミュラ2#日本のF2|全日本F2選手権]])に参戦。ドライバーに[[高橋国光]]を擁し、自社製アルミホイールを装着してデビュー戦に勝利した。
[[1976年]]に「'''スピードスターホイールレーシングチーム'''(略称:SSR)」を発足させ、全日本F2000選手権(後の[[フォーミュラ2#日本のF2|全日本F2選手権]])に参戦。ドライバーに[[高橋国光]]を擁し、自社製アルミホイールを装着してデビュー戦に勝利した。


以降もF2000 → F2 → [[全日本F3000選手権|F3000]]と参戦し続け、製品であるホイールも参戦を重ねる毎に進化を遂げ他社を圧倒絶大な信頼を得ることとなった。
以降もF2000 → F2 → [[全日本F3000選手権|F3000]]と国内トップフォーミュラレースに参戦し続け、ホイールもレースを重ねる毎に進化を遂げ他社を圧倒絶大な信頼を得ることとなった。


しかし、[[1995年]]に発生した[[阪神・淡路大震災]]の影響を受け、そのシーズンは[[童夢 (自動車会社)|童夢]]とのジョイント体制で参戦したが、1996年からレースへの参戦は中止された。
しかし、[[1995年]]に発生した[[阪神・淡路大震災]]の影響を受け、そのシーズンは[[童夢 (自動車会社)|童夢]]とのジョイント体制で参戦したが、1996年からレース参戦は中止された。


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==

2008年9月19日 (金) 13:58時点における版

株式会社スピードスターは、かつて大阪府八尾市に存在した自動車部品メーカー。

「SSR」ブランドなどのアルミホイール製造販売していた。

沿革

濱田政信が、国内で初めて「3ピース・アルミホイール」を開発。その製造・販売を目的に1971年に個人創業、1978年には株式会社スピードスターに法人改組した。

モータースポーツシーンにおいて高い評価を得たことで圧倒的な支持を受け、アルミホイールブームを生むきっかけともなった。

90年代には「半溶融鍛造」と呼ばれる画期的な製法での量産ラインを世界で初めて完成させた。

2005年1月27日に関連会社のスピードスター販売と共に自己破産を申請。

同年10月に自動車部品メーカー・タナベ(本社・大阪府箕面市)が同社の事業を買収。現在も“SSR”・“Vienna”・“SPEED STAR”の3ブランドのアルミホイールが販売されている。

モータースポーツ

1976年に「スピードスターホイールレーシングチーム(略称:SSR)」を発足させ、全日本F2000選手権(後の全日本F2選手権)に参戦。ドライバーに高橋国光を擁し、自社製アルミホイールを装着してデビュー戦に勝利した。

以降もF2000 → F2 → F3000と国内トップフォーミュラレースに参戦し続け、ホイールもレースを重ねる毎に進化を遂げ他社を圧倒。絶大な信頼を得ることとなった。

しかし、1995年に発生した阪神・淡路大震災の影響を受け、そのシーズンは童夢とのジョイント体制で参戦したが、1996年からレース参戦は中止された。

関連項目

外部リンク