コンテンツにスキップ

「士志の会」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
5行目: 5行目:


== 変遷 ==
== 変遷 ==
[[2005年]]の[[郵政民営化]]法案への対応で平沼は反対して党外に追放、古賀は反対派の中枢にいたが土壇場で高村とともに棄権し、辛くも自民に残るが党内影響力は著しく低下、麻生は当時[[総務大臣]]であり、また小泉内閣の中枢でもあり、当然賛成しポスト小泉の総裁候補に名前が上る、など4人の立場はバラバラになり、事実上空中分解状態にある。この状態は2007年の総裁選挙でも古賀、高村が福田を推し、久間が麻生を推したため結局一致結束して行動をすることはなかった。また、年齢的にも位置的にも中途半端であるために'''[[中二階]]'''と揶揄されることもあった。
[[2005年]]の[[郵政民営化]]法案への対応で平沼は反対して党外に追放、古賀は反対派の中枢にいたが土壇場で高村とともに棄権し、辛くも自民に残るが党内影響力は著しく低下、麻生は当時[[総務大臣]]であり、また小泉内閣の中枢でもあり、当然賛成しポスト小泉の総裁候補に名前が上る、など4人の立場はバラバラになり、事実上空中分解状態にある。また、年齢的にも位置的にも中途半端であるために[[中二階]]と揶揄されることもあった。


[[2007年]]、古賀、平沼、高村ら3人と、外遊中の麻生に代わって[[防衛大臣]][[久間章生]]が会談した。この席上、久間が士志の会に加入し、今後は5人で会合を実施することで合意した。
[[2007年]]、古賀、平沼、高村ら3人と、外遊中の麻生に代わって[[防衛大臣]][[久間章生]]が会談した。この席上、久間が士志の会に加入し、今後は5人で会合を実施することで合意した。しかし、[[2007年自由民主党総裁選挙]]では古賀、高村が[[福田康夫]]を推し、久間が麻生を推したため、結局一致結束して行動をすることはなかった。


[[2008年自由民主党総裁選挙]]では久間、高村、古賀が揃って麻生支持を表明し、麻生が[[自由民主党総裁]]に選出された。
[[2008年自由民主党総裁選挙]]では久間、高村、古賀が揃って麻生支持を表明し、麻生が[[自由民主党総裁]]に選出された。

2008年9月24日 (水) 20:59時点における版

士志の会ししのかい)は、自民党古賀誠麻生太郎平沼赳夫高村正彦らに呼びかけて作ったグループ。

概要

幕末の「志士」をもじって命名された。この中から内閣総理大臣自由民主党総裁を出すために協力し合おうということで定期的に会合が開かれていた。ただし、古賀は他の三人を擁立して実権を握ろうとしている素振りも見受けられた。

変遷

2005年郵政民営化法案への対応で平沼は反対して党外に追放、古賀は反対派の中枢にいたが土壇場で高村とともに棄権し、辛くも自民に残るが党内影響力は著しく低下、麻生は当時総務大臣であり、また小泉内閣の中枢でもあり、当然賛成しポスト小泉の総裁候補に名前が上る、など4人の立場はバラバラになり、事実上空中分解状態にある。また、年齢的にも位置的にも中途半端であるために中二階と揶揄されることもあった。

2007年、古賀、平沼、高村ら3人と、外遊中の麻生に代わって防衛大臣久間章生が会談した。この席上、久間が士志の会に加入し、今後は5人で会合を実施することで合意した。しかし、2007年自由民主党総裁選挙では古賀、高村が福田康夫を推し、久間が麻生を推したため、結局一致結束して行動をすることはなかった。

2008年自由民主党総裁選挙では久間、高村、古賀が揃って麻生支持を表明し、麻生が自由民主党総裁に選出された。

メンバー

関連項目