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これによるイメージダウンのため、発売以来3年間国内販売首位を誇っていたN360の人気は急下降し、市場生命を失う。N360は[[1972年]]で販売を終えた。
これによるイメージダウンのため、発売以来3年間国内販売首位を誇っていたN360の人気は急下降し、市場生命を失う。N360は[[1972年]]で販売を終えた。


捜査の結果本田宗一郎は不起訴となった。またホンダに法外な示談金が要求されるにおよび、ホンダもユーザーユニオンを[[恐喝]]で告訴し、ユーザーユニオンの代表者2名が恐喝の疑いで東京地方検察庁に逮捕された。結果2名は有罪となったが、ホンダとの交渉に関する部分は一審では有罪となったものの控訴審では無罪となり、上告審でも控訴審での判断が維持されている。結局判決が確定したのは[[1987年]]1月のことであり、十数年の年月を要した。
捜査の結果本田宗一郎は不起訴となった。またホンダに法外な示談金が要求されるにおよび、ホンダもユーザーユニオンを[[恐喝]]で告訴し、ユーザーユニオンの代表者2名が恐喝の疑いで東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された。結果2名は有罪となったが、ホンダとの交渉に関する部分は一審では有罪となったものの控訴審では無罪となり、上告審でも控訴審での判断が維持されている。結局判決が確定したのは[[1987年]]1月のことであり、十数年の年月を要した。


ホンダはNシリーズの派生型である[[ホンダ・Z|ホンダZ]]や、モデルチェンジ型である[[ホンダ・ライフ|ホンダライフ]]等で、軽乗用車業界における新たな展開を求めたが、N360で失ったものを取り戻すまでには至らず、1974年には商用車部門のみ残して軽乗用車の分野から一時撤退することになる。
ホンダはNシリーズの派生型である[[ホンダ・Z|ホンダZ]]や、モデルチェンジ型である[[ホンダ・ライフ|ホンダライフ]]等で、軽乗用車業界における新たな展開を求めたが、N360で失ったものを取り戻すまでには至らず、1974年には商用車部門のみ残して軽乗用車の分野から一時撤退することになる。

2008年10月9日 (木) 12:41時点における版

ホンダ・N360
N360(ホンダコレクションホール所蔵)
ボディ
乗車定員 4名
ボディタイプ 2ドア2ボックス型セダン
3ドアライトバン
駆動方式 FF
パワートレイン
エンジン 強制空冷4ストローク2気筒SOHC 354cc(31PS/8,500rpm 3.0kg-m/5,500rpm)
変速機 4速MT/3速AT
前・独立懸架式
後・半楕円板バネ式
前・独立懸架式
後・半楕円板バネ式
車両寸法
ホイールベース 2,000mm
全長 2,995mm
全幅 1,295mm
全高 1,345mm
車両重量 475-520kg
系譜
後継 ホンダ・ライフ
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ホンダ・N360は、本田技研工業(ホンダ)が1967年から1972年まで製造した軽自動車である。

前輪駆動方式を採用して広い車室スペースを確保すると共に、この時代としては異例の高出力エンジンを搭載し、当時の軽自動車業界における「馬力競争」の火付け役ともなった。その廉価さと高性能によって当時のベストセラーとなった。フロントマスクがどことなく犬の顔を連想させることから、一部では「Nコロ」の愛称を持つ。

概要

1967年3月から市販が開始された。ホンダはそれ以前にスポーツカーSシリーズや商用車は送り出していたが台数は限られたものであり、N360はホンダ初の本格的な量産型乗用車と言える。「N360」の「N」は、一説には「乗り物」(norimono)の略とされ、ホンダ社長の本田宗一郎がミニマム・トランスポーテーションとしての普及を目した事によるネーミングと言われている。

内外装

2ドアの2ボックススタイルは、小径タイヤを四隅に追いやって極力車室スペースを稼ぎ出そうとした設計であり、当時の軽乗用車としては極めて広い車室を備えていた。前輪駆動共々、先行して開発されていたイギリスMiniの影響が指摘されている。独立したトランクを備えているのも共通している。

本田宗一郎は当初のリアデザインが気に入らず、金型を取り終わったクレイモデルにカンナで削りを入れたという逸話が残っている。

ダッシュボードをはじめ内外装は簡素で、スピードメーター周りは自動車というよりテスターのインジケーターを思わせる単純デザインだった。

ドライブトレーン

空冷エンジンをフロントに横置きして前輪を駆動する。既に前輪駆動車用の等速ジョイントが実用水準に達した時期であり、時宜を得た手法であった。

エンジンは4ストローク強制空冷直列2気筒チェーン駆動SOHCで、オートバイ用の450ccエンジンをベースに開発された。ボア×ストロークは62.5×57.8mmのオーバースクエアで354cc、最高出力は実に31PS/8,500rpmという、当時としては凄まじい高出力・高回転エンジンであった。この時代、軽自動車のエンジンは2ストロークが主流で、出力も20PS台前半がせいぜいであったことから、4ストロークで31PSを発生するN360のパワーは、もはや常軌を逸した水準であった。最高速度は115km/hを公称し、これも当時の軽自動車として最高レベルであった。

エンジンと直列配置された4段変速機もバイク的で、コンスタントメッシュのドグミッション式、しかもダッシュボード下からロッドを介してシフトレバーにつながっているという、いささか荒っぽい設計であった。もっとも若いユーザーからは、かえってスポーティであるとして歓迎する向きもあったようである。空冷エンジンの冷却による廃熱を利用したヒーターは非常に強力だったが、その代わりどうしても車内がガソリンオイル臭くなった。

サスペンションはフロントがストラットの独立、リアがリーフ・リジッドという単純かつコンパクトな組み合わせである。

展開

1967年3月の発売当初はグレードは1つのみで、他社の車より低価格の30万円前半であった(狭山工場渡しで31万円台)。高性能でしかも廉価なことから一般大衆の人気を得てヒット作となり、発売から数ヶ月のうちに、当時の軽自動車月間販売台数トップの地位をスバル・360から奪取した。同年6月には姉妹車として、ライトバンタイプの「LN360」も追加された。

N360のハイパワーぶりに驚愕した競合各社は、2ストロークエンジンの高回転化でパワーアップして対抗、その後オイルショック直前までの数年間に渡り、軽自動車業界はカタログ出力を誇示しあう馬力競争に突入した。360ccの軽自動車が、実にリッター当たり100PSに相当する36~40PS級に達したのである。もっとも超高回転で常用域のトルクに乏しく、実用性欠如のモデルばかりであった。

1968年4月には、ホンダ初の自動変速機を搭載した「N360AT」も発売されている。これは自社開発で、「ホンダマチック」と称する。この「ホンダマチック」は、後にシビックなどに搭載される、★(スター)レンジを持つ半自動式とは異なり、本格的な3段フルオートマチックであり、セレクトレバーはハンドルコラムに設置され、P-R-N-D-3-2-1の7ポジション式であった(3,2,1の各ポジションは各ギア固定)。最高速度は110km/hに達し、4速マニュアル車と遜色ない。

1968年7月には、キャンバストップを備えた、N360サンルーフが追加される。

1968年9月、ツインキャブレターを装備して36PS/9,000rpmを発生する「T」,「TS」,「TM」,「TG」のグレードを設けた。最高速は120km/h。

ホンダは既に「Sシリーズ」の2座スポーツカーは海外輸出していたが、N360が開発されるとこれをベースに排気量を400ccに拡大した「N400」[1]、600ccエンジン搭載・最高速度130km/hの「N600」が製造され、アメリカ合衆国ヨーロッパに輸出された。ヨーロッパでは、メーカーの競争激化による淘汰や各社の生産モデルの上級移行で、最小クラスにあたる廉価な小排気量ミニカーが徐々に減少していたこと、またオートバイレース・F1レースで知名度の高いホンダの高出力車であることから、若年層を中心に収入や免許制度での制約のあるユーザーの支持を受け、一定の販売実績を収めたという。また、当時の西ドイツでは250cc以下の自動車は日本の軽自動車に類似した優遇税制、免許制度があったことから、現地ではボアダウンキットで250ccにするユーザーもいた。

Nシリーズの600ccモデルは日本国内向けには1968年6月から「N600E」として市販されたが、居住性は軽自動車並であるのに税法上普通車扱いとなる事から販売が振るわず、僅か半年間、1500台程度で販売を終了した。これは大手メーカーの量産乗用車としては、最短寿命である。機構的には、輸出用と同じ部分があるが、インテリアや機構細部は全く異なっていた。ホンダにとっては、日本国内向け初めての普通車登録4座乗用車となった車である。

その後、1969年1月にモデルチェンジを行った。通称N IIと呼ばれるこのモデルでは、外装はわずかなデザインの変更にとどめられたが、内装ではダッシュボードの大部分がパネルで覆われ、自動車らしいムードとなった。

また、1970年1月には、再度のモデルチェンジにより、N IIIへと進化している。このモデルチェンジでは、正式に「N III360」の名称となり、外装にも大きな手を入れられている。メカニズムでは、特徴的だった4段ドグミッションはごく普通のフルシンクロ式に変更された。また、象徴だった高回転・高出力エンジンにも手を入れたN III360タウンが同年9月に追加されている。低速性能を重視したタウンは、27PS/7000r.p.m.(トルクは不変)へとチューンダウンされた。

N360は発売から僅か2年足らずで25万台を販売、総生産台数は65万台に達した。

ユーザーユニオン事件

1969年以降、ラルフ・ネーダーが主導しアメリカで社会問題になっていた「欠陥車問題」に影響されて日本でも同様に欠陥車糾弾の動きが生じた。この種の動きを見せた団体に「日本自動車ユーザーユニオン」があり、当時のベストセラーカーであったN360に操縦安定性の面で重大な欠陥があると指摘、未必の故意による殺人罪で本田宗一郎を東京地方検察庁に告訴した。

この事件に関して1973年の国会審議で日本共産党が質問中に示した数字として、1968年から1970年の3年間で、被害者362名、うち、死亡が56名、重傷106名、軽傷137名、物損14件というものがある[2]

これによるイメージダウンのため、発売以来3年間国内販売首位を誇っていたN360の人気は急下降し、市場生命を失う。N360は1972年で販売を終えた。

捜査の結果本田宗一郎は不起訴となった。またホンダに法外な示談金が要求されるにおよび、ホンダもユーザーユニオンを恐喝で告訴し、ユーザーユニオンの代表者2名が恐喝の疑いで東京地方検察庁特別捜査部に逮捕された。結果2名は有罪となったが、ホンダとの交渉に関する部分は一審では有罪となったものの控訴審では無罪となり、上告審でも控訴審での判断が維持されている。結局判決が確定したのは1987年1月のことであり、十数年の年月を要した。

ホンダはNシリーズの派生型であるホンダZや、モデルチェンジ型であるホンダライフ等で、軽乗用車業界における新たな展開を求めたが、N360で失ったものを取り戻すまでには至らず、1974年には商用車部門のみ残して軽乗用車の分野から一時撤退することになる。

N360の開発に携わった中村良夫は、のちに、ユーザーユニオンの指摘した「ヨー特性にロール特性がからんだ不安定さ」をN360がもっていたことを否定していないが、技術鑑定人として委嘱された亘理厚(わたり・あつし 東京大学生産技術研究所教授。当時の日本における自動車技術の権威の一人であった)は、「当時の道路運送車両法が軽自動車の速度について60km/h程度を想定しており、100km/hを軽くオーバーするホンダNのような自動車の出現を予知し、盛り込めていなかったことに問題がある」という主旨の指摘をおこなっている。また、リアエンジン方式とリアスイングアクスル式サスペンションの組み合わせで「低速横転」を頻発していた他のいくつかの車種が問題とされていない点でも、訴訟は作為的なものと取れる。

評価

N360は一定以上の商業的成功を収め、またドライブトレーンを共用したスペシャリティカーの「Z」や、軽トラック「TN360」などの派生展開を促して、ホンダの業績拡大に著しく貢献した。

しかし、オートバイ用ベースの高回転エンジンに依存した高性能は、創業者・本田宗一郎に代表される初期ホンダが備えていた一種の「蛮勇」の現れとも言え、空冷故の騒音や、ドグ・ミッション等は、乗用車としての洗練を欠いたものであった。

その後のホンダは、高性能空冷エンジンに代表されるエキセントリックな面を抑え、1971年発売のN360後継モデル「ライフ」以降、量販4輪車のエンジンについて水冷方式に転換して行く。(いわゆる「まろやか路線」)

脚注

  1. ^ 「N500」も計画されたが、排気量の拡大は400ccにとどめられた。N600ではクランクケース、トランスミッション等が専用に開発された。
  2. ^ 参考 第71回国会 内閣委員会 第37号 1973年(昭和48年)7月4日

関連項目

外部リンク