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'''三瀬 諸淵'''(みせ もろぶち、[[天保]]10年[[7月1日_(旧暦)|7月1日]]([[1839年]][[8月9日]])-[[明治]]10年([[1877年]])[[10月19日]])は、[[幕末]]・明治期の[[医師]]。初名・'''周三'''(しゅうぞう)。幼名は弁次郎、[[字]]は修夫。[[伊予国]][[大洲市|大洲]]出身。
'''三瀬 諸淵'''(みせ もろぶち、[[天保]]10年[[7月1日_(旧暦)|7月1日]]([[1839年]][[8月9日]])- [[明治]]10年([[1877年]])[[10月19日]])は、[[幕末]]・明治期の[[医師]]。初名・'''周三'''(しゅうぞう)。幼名は弁次郎、[[字]]は修夫。[[伊予国]][[大洲市|大洲]]出身。


幼い頃に両親を失い親戚の下で育てられる。初めは[[国学]]を学んでいたが、17歳のときに遠縁の医師[[二宮敬作]]の弟子となる。その際に二宮の元にいた[[長州藩]]の[[大村益次郎|村田蔵六]](後に大村益次郎)から[[オランダ語]]を学び、[[蘭学]]に関心を抱くようになっていく。
幼い頃に両親を失い親戚の下で育てられる。初めは[[国学]]を学んでいたが、17歳のときに遠縁の医師[[二宮敬作]]の弟子となる。その際に二宮の元にいた[[長州藩]]の[[大村益次郎|村田蔵六]](後に大村益次郎)から[[オランダ語]]を学び、[[蘭学]]に関心を抱くようになっていく。

2008年10月13日 (月) 18:15時点における版

三瀬 諸淵(みせ もろぶち、天保10年7月1日1839年8月9日)- 明治10年(1877年10月19日)は、幕末・明治期の医師。初名・周三(しゅうぞう)。幼名は弁次郎、は修夫。伊予国大洲出身。

幼い頃に両親を失い親戚の下で育てられる。初めは国学を学んでいたが、17歳のときに遠縁の医師二宮敬作の弟子となる。その際に二宮の元にいた長州藩村田蔵六(後に大村益次郎)からオランダ語を学び、蘭学に関心を抱くようになっていく。

安政3年(1856年)、二宮の師であったシーボルトが再来日した際には二宮敬作によってシーボルトに預けられた。シーボルトの秘書兼長男のアレクサンダー・フォン・シーボルト[1] の家庭教師役を務めながら、自身は医学を学んだ。この間の安政5年(1858年)に大洲に一時帰郷した諸淵は日本で最初の「電信」の実験を行い成功させている。

文久2年(1862年)になると、諸淵がシーボルトのために国学の知識を生かして、日本の歴史書翻訳をおこなっていた事が発覚してしまう。2年間投獄される[要出典]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。。妻高子の手記が長崎市のシーボルト記念館のウェブサイトにて公開されている[2]。それによると、通訳の件を通して、公の役人を差しおいたことが一因であるという。表向きは先の原因として投獄されたのだろうか。1864年に出獄している。

釈放後、大洲に帰国するが、そのまま大洲藩に召される事になる。後に江戸幕府によって大坂に召されるが、そのまま明治維新を迎えそのまま新政府に仕えて医学校の創設にあたる。

この間の慶応2年(1866年)にシーボルトの孫娘にあたる楠本高子と結婚している。明治3年(1870年)頃に諸淵と名乗り始める。

明治6年(1873年)に官を退いて大阪で病院を開くが、明治10年(1877年)胃腸カタルにより39歳の若さで死去。

大正15年(1926年)に医学教育における功労によって正五位が贈られた。



関連項目

脚注

  1. ^ 後にイギリス公使館の通弁官、徳川昭武らのパリ万国博覧会通訳、日本の外交顧問となる/アレクサンダー・フォン・シーボルト
  2. ^ 山脇たか(楠本高子)が語る自分のこと、シーボルト記念館、2008年8月30日閲覧。