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「何晏」の版間の差分

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'''何晏'''(かあん ? - [[249年]])は、[[中国]]の[[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]の[[政治家]]、[[学者]]。[[字]]は'''平叔'''。[[大将軍]][[何進]]の孫。父と子の名は不詳<ref>何晏は『論語集解』を著しているが、他の学者の説を引用する時は皆本名を書いているのに、苞咸のみ「苞氏」と書く。これについて皇侃『論語義疏』学而篇では、何家の[[諱]](すなわち何晏の父の名)を避けたためだと解説している。これが正しければ何晏の父の名は「何咸」であったことになる。</ref><ref>また、何晏の子として「何魏」なる人物がいたと紹介されることがあるが、これは『[[三国志]]』[[蜀志]]「[[費イ|費禕]]伝」注の[[殷基]]の『[[通語]]』に記されている「何晏子魏之親甥」という一文を「何晏の子(何)魏」と誤読したものである。確かに何晏に息子はいたが、その名は不詳で「何魏」なる人物は存在しない(この一文は「何晏の子は魏の親甥」と読むべきで、「何晏の子(何)魏」と読んでは「之親甥」の意味が通じなくなる)。</ref>。
'''何晏'''(かあん ? - [[249年]])は、[[中国]]の[[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]の[[魏 (三国)|魏]]の[[政治家]]、[[学者]]。[[字]]は'''平叔'''。後漢の[[大将軍]][[何進]]の孫。父と子の名は不詳<ref>何晏は『論語集解』を著しているが、他の学者の説を引用する時は皆本名を書いているのに、苞咸のみ「苞氏」と書く。これについて皇侃『論語義疏』学而篇では、何家の[[諱]](すなわち何晏の父の名)を避けたためだと解説している。これが正しければ何晏の父の名は「何咸」であったことになる。</ref><ref>また、何晏の子として「何魏」なる人物がいたと紹介されることがあるが、これは『[[三国志]]』[[蜀志]]「[[費イ|費禕]]伝」注の[[殷基]]の『[[通語]]』に記されている「何晏子魏之親甥」という一文を「何晏の子(何)魏」と誤読したものである。確かに何晏に息子はいたが、その名は不詳で「何魏」なる人物は存在しない(この一文は「何晏の子は魏の親甥」と読むべきで、「何晏の子(何)魏」と読んでは「之親甥」の意味が通じなくなる)。</ref>。


祖父らが[[十常侍]]らに殺害されると、生母の'''尹氏'''が[[曹操]]の妾となり、その関係で曹操の下で成長する(後に尹氏は[[曹矩]]を産む)。曹操にはその才能を認められ、その娘・[[金郷公主]]を妻に娶るなど極めて厚遇された。だが、その後継者[[曹丕|文帝]]、[[曹叡|明帝]]には疎まれ、しばらくの間表舞台に活躍の場を得られなかった。
祖父らが[[十常侍]]らに殺害されると、生母の'''尹氏'''が[[曹操]]の妾となり、その関係で曹操の下で成長する(後に尹氏は[[曹矩]]を産む)。曹操にはその才能を認められ、その娘・[[金郷公主]]を妻に娶るなど極めて厚遇された。だが、その後継者[[曹丕|文帝]]、[[曹叡|明帝]]には疎まれ、しばらくの間表舞台に活躍の場を得られなかった。

2008年10月20日 (月) 16:25時点における版

何晏(かあん ? - 249年)は、中国後漢末期から三国時代政治家学者平叔。後漢の大将軍何進の孫。父と子の名は不詳[1][2]

祖父らが十常侍らに殺害されると、生母の尹氏曹操の妾となり、その関係で曹操の下で成長する(後に尹氏は曹矩を産む)。曹操にはその才能を認められ、その娘・金郷公主を妻に娶るなど極めて厚遇された。だが、その後継者文帝明帝には疎まれ、しばらくの間表舞台に活躍の場を得られなかった。

明帝の死後、養子で年少の曹芳が即位すると、その後見役として曹爽が政権を握る。曹爽と兼ねてより親しかった何晏は、一躍政権の中枢に躍り出る。吏部尚書として、多くの知人を政権に参加させている。

しかし249年、曹爽と対立関係にあり、既に隠居していたと思われた司馬懿が曹爽不在の隙にクーデターを起こす。何晏を含む曹爽派の主だった人物は捕らえられ、処刑された。

人物像

  • 相当なナルシストであったとされる。顔には常に白粉を粉飾し、手鏡を携帯し、自分の顔を見る度にそれに「うっとり」としていたという。歩く際にも、おのれの影の形を気にしつつ歩んだと伝えられている。
  • 相当な好色漢であったとされる。そのためか、妻の金郷公主は、杜夫人が産んだ娘で沛穆王の曹林(曹操十男)の同母妹であり、何晏とは直接の血縁関係はないのだが、「実は尹氏の生んだ何晏の同母妹であった」という説が度々囁かれていた。
  • 五石散」という麻薬を愛用していたとされる。何晏がこれの評判を吹聴しており、流行の一助となった。「散歩」の語源は「五石散を服用して歩き回ること」に由来するとの説がある。

脚注(父と子などについて)

  1. ^ 何晏は『論語集解』を著しているが、他の学者の説を引用する時は皆本名を書いているのに、苞咸のみ「苞氏」と書く。これについて皇侃『論語義疏』学而篇では、何家の(すなわち何晏の父の名)を避けたためだと解説している。これが正しければ何晏の父の名は「何咸」であったことになる。
  2. ^ また、何晏の子として「何魏」なる人物がいたと紹介されることがあるが、これは『三国志蜀志費禕伝」注の殷基の『通語』に記されている「何晏子魏之親甥」という一文を「何晏の子(何)魏」と誤読したものである。確かに何晏に息子はいたが、その名は不詳で「何魏」なる人物は存在しない(この一文は「何晏の子は魏の親甥」と読むべきで、「何晏の子(何)魏」と読んでは「之親甥」の意味が通じなくなる)。