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「玉虫左太夫」の版間の差分

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文政6年(1823年)に仙台藩士の玉虫伸茂の末子として生まれる。[[弘化]]3年([[1846年]])に江戸の[[湯島聖堂]]で学び、その塾長となる。[[安政]]4年([[1857年]])には函館奉行[[堀利煕]]と共に[[蝦夷地]]を調査し「入北記」を著す。
文政6年(1823年)に仙台藩士の玉虫伸茂の末子として生まれる。[[弘化]]3年([[1846年]])に江戸の[[湯島聖堂]]で学び、その塾長となる。[[安政]]4年([[1857年]])には函館奉行[[堀利煕]]と共に[[蝦夷地]]を調査し「入北記」を著す。


[[日米修好通商条約]]の批准書交換使節団の一員として渡米した、帰国後大番士となり、のちに養賢堂指南統取となった。[[戊辰戦争]]が勃発すると[[奥羽越列藩同盟]]の成立のため尽力し軍務局副頭取となった。敗戦後捕縛され獄中で切腹した。享年47。主著「航米日録」・「蝦夷紀行」。
[[日米修好通商条約]]の批准書交換使節団の一員として渡米した、帰国後大番士となり、のちに養賢堂指南統取となった。[[戊辰戦争]]が勃発すると[[奥羽越列藩同盟]]の成立のため尽力し軍務局副頭取となった。敗戦後捕縛され獄中で切腹した。享年47。主著「航米日録」・「蝦夷紀行」。


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2008年12月21日 (日) 02:05時点における版

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時代 江戸時代後期(幕末)から明治時代
別名 勇八(幼名)、誼茂(諱)、子発(字)
生誕 文政6年(1823年
死没 明治2年4月9日1869年5月20日

玉虫 左太夫(たまむし さだゆう)は、幕末仙台藩の藩士。

経歴

文政6年(1823年)に仙台藩士の玉虫伸茂の末子として生まれる。弘化3年(1846年)に江戸の湯島聖堂で学び、その塾長となる。安政4年(1857年)には函館奉行堀利煕と共に蝦夷地を調査し「入北記」を著す。

日米修好通商条約の批准書交換使節団の一員として渡米した、帰国後大番士となり、のちに養賢堂指南統取となった。戊辰戦争が勃発すると奥羽越列藩同盟の成立のため尽力し軍務局副頭取となった。敗戦後捕縛され獄中で切腹した。享年47。主著「航米日録」・「蝦夷紀行」。