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2008年12月27日 (土) 09:56時点における版

三村申吾
みむら しんご
生年月日 (1956-04-16) 1956年4月16日(68歳)
出生地 青森県上北郡百石町(現:おいらせ町
出身校 無所属(2003 - )
無所属の会(1998 - 2003)
新進党(1996 - 1998)
所属政党 東京大学文学部
称号 文学士
公式サイト 三村申吾オフィシャルサイト

日本の旗 第62・63代青森県知事
当選回数 2回
在任期間 2003年 -

当選回数 1回

当選回数 1回
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三村申吾(みむら しんご、1956年昭和31年)4月16日 - )は、日本政治家青森県知事(2期、第62・63代)。

衆議院議員(1期)、青森県上北郡百石町長(1期)を歴任。

概要

青森県上北郡百石町(現・おいらせ町)出身。青森県立八戸高等学校東京大学文学部卒業し、新潮社に入社。編集畑を歩む。

1987年、地元に戻り家業を継ぎ、1992年に百石町長に当選。選挙で尽力した田名部匡省の支援を受け、町長を辞職して1996年の第42回総選挙に新進党公認で出馬するも落選。

2000年、第43回総選挙に田名部が所属する無所属の会公認で再出馬、当選する。しかし、森内閣の崩壊に伴う首班指名選挙で自民党の小泉純一郎に投票し、田名部との関係を断絶。自民党寄りの姿勢を明確にする。

2003年木村守男の辞職に伴う青森県知事選挙に出馬を表明し、自民・公明の支援を受け当選する。投票率は38.45%。出馬の経緯は与党寄りにシフトしたものの、次期総選挙に自民党の江渡聡徳が出馬を表明、野党側も田名部率いる政治団体「県民協会」が独自候補の擁立を模索するなかで、自身の再選は困難と判断したためである。

略歴

  • 1981年 - 新潮社入社。
  • 1987年 - 百石町に帰郷。
  • 1990年6月 - 株式会社三村興業社代表取締役。
  • 1992年 - 百石町町長選挙に出馬。当選。(35歳)
  • 1996年 - 新進党公認で衆議院選挙青森2区に立候補するも落選。
  • 2000年6月 - 無所属の会公認で衆議院選挙青森2区に立候補。初当選。
  • 2003年6月 - 木村守男前知事辞任に伴う青森県知事選に立候補。当選。(無所属)
  • 2007年6月 - 青森県知事選に立候補。再選。

人物

衆議院議員時代、同じ無所属議員だった中田宏(現横浜市長)の知遇を得、知事選挙等で応援を受けるなど交友を深めている。小泉内閣誕生時の首班指名では、中田と三村は無所属野党系ながら小泉に投票し、後に官邸に呼ばれ三人で食事を共にしている。また、週刊アサ秘ジャーナルでは、中田宏から推薦され、取材を受ける。中田曰く「おっぱい大好きの三村さん」で、本放送時には浅草キッド相手に、持ち前の陽気さのまま秘書紹介などを行う。幸か不幸か、地元の青森県では週刊アサ秘ジャーナルは放送されていない。自身が町長を務めた百石町(現おいらせ町)には特産としておっぱいいちごなる苺が存在する。

父の輝文は現職の県議であり、県知事と県議を同時期に親子が務める異例の状況となっている。

東北楽天ゴールデンイーグルス名誉ファンクラブ会員だが、阪神ファンを公言している。

競馬ファンとしても知られ、かつては社台レースホースでバーニングダイナなどを所有していた。

イトーヨーカドーなどでの、県産品のトップセールスでは、フットワークの軽い知事として本領を発揮し成果を上げている。一方で、目先のパフォーマンスに頼りすぎという批判もついてまわる。

外部リンク


59 - 61(公選14 - 16)代
木村守男
  青森県知事
62 - 63(公選17 - 18)代:2003 - 現職
64(公選19)代