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'''楢林 鎮山'''(ならばやし ちんざん、[[慶安]]元年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]([[1649年]][[1月26日]])-[[宝永]]8年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]([[1711年]][[5月16日]])))は、[[江戸時代]]前期の[[阿蘭陀通詞]]・[[医師]]。諱は'''時敏'''、法号は'''栄休'''。通称は彦五郎・新右衛門・新五兵衛・得生軒。子に[[楢林栄久]]がいる。 |
'''楢林 鎮山'''(ならばやし ちんざん、[[慶安]]元年[[12月14日 (旧暦)|12月14日]]([[1649年]][[1月26日]])-[[宝永]]8年[[3月29日 (旧暦)|3月29日]]([[1711年]][[5月16日]])))は、[[江戸時代]]前期の[[阿蘭陀通詞]]・[[医師]]。諱は'''時敏'''、法号は'''栄休'''。通称は彦五郎・新右衛門・新五兵衛・得生軒。子に[[楢林栄久]]がいる。 |
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[[長崎市|長崎]]の出身。9歳より[[オランダ語]]を学び、19歳の時に[[出島]]出入の者300名による試験に合格して小通詞、39歳で大通詞となる。[[オランダ商館長]]の江戸入りに8回通詞として同行したほか、[[リターン号事件]]などの大事件の際に通詞として交渉に参加した。また、[[オランダ商館]]医官より[[蘭方医学]]を学んだ。ところが、[[元禄]]11年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]([[1698年]][[10月30日]])、突如[[オランダ人]]との内通の疑いをかけられて閉戸([[武家]]の[[閉門]]と同義)に処せられて通詞を解任される。その後許されて出家した後は、医師として開業、診察の傍ら多くの門人を育て、彼の子孫及び門人達の流派は「楢林流」と称された。宝永3年([[1706年]])には、[[フランス]]の外科医[[アンブロワーズ・パレ]]の著書 |
[[長崎市|長崎]]の出身。9歳より[[オランダ語]]を学び、19歳の時に[[出島]]出入の者300名による試験に合格して小通詞、39歳で大通詞となる。[[オランダ商館長]]の江戸入りに8回通詞として同行したほか、[[リターン号事件]]などの大事件の際に通詞として交渉に参加した。また、[[オランダ商館]]医官より[[蘭方医学]]を学んだ。ところが、[[元禄]]11年[[9月27日 (旧暦)|9月27日]]([[1698年]][[10月30日]])、突如[[オランダ人]]との内通の疑いをかけられて閉戸([[武家]]の[[閉門]]と同義)に処せられて通詞を解任される。その後許されて出家した後は、医師として開業、診察の傍ら多くの門人を育て、彼の子孫及び門人達の流派は「楢林流」と称された。宝永3年([[1706年]])には、[[フランス]]の外科医[[アンブロワーズ・パレ]]の著書のオランダ語版を翻訳した『[[紅夷外科宗伝]]』を刊行しており、同書には[[本草学者]]・[[朱子学者]]として名高かった[[貝原益軒]]が序文を寄せている。なお、宝永5年([[1708年]])には名声を聞いた[[征夷大将軍|将軍]][[徳川綱吉]]が招聘をしているが、咎人であることを理由にこれを辞退している。また、[[福岡藩|福岡藩主]][[黒田綱政]]の招聘を同様の理由で辞退している。 |
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== 参考文献 == |
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2009年1月28日 (水) 14:29時点における版
楢林 鎮山(ならばやし ちんざん、慶安元年12月14日(1649年1月26日)-宝永8年3月29日(1711年5月16日)))は、江戸時代前期の阿蘭陀通詞・医師。諱は時敏、法号は栄休。通称は彦五郎・新右衛門・新五兵衛・得生軒。子に楢林栄久がいる。
長崎の出身。9歳よりオランダ語を学び、19歳の時に出島出入の者300名による試験に合格して小通詞、39歳で大通詞となる。オランダ商館長の江戸入りに8回通詞として同行したほか、リターン号事件などの大事件の際に通詞として交渉に参加した。また、オランダ商館医官より蘭方医学を学んだ。ところが、元禄11年9月27日(1698年10月30日)、突如オランダ人との内通の疑いをかけられて閉戸(武家の閉門と同義)に処せられて通詞を解任される。その後許されて出家した後は、医師として開業、診察の傍ら多くの門人を育て、彼の子孫及び門人達の流派は「楢林流」と称された。宝永3年(1706年)には、フランスの外科医アンブロワーズ・パレの著書のオランダ語版を翻訳した『紅夷外科宗伝』を刊行しており、同書には本草学者・朱子学者として名高かった貝原益軒が序文を寄せている。なお、宝永5年(1708年)には名声を聞いた将軍徳川綱吉が招聘をしているが、咎人であることを理由にこれを辞退している。また、福岡藩主黒田綱政の招聘を同様の理由で辞退している。
参考文献
- 酒井シヅ「楢林鎮山」(『科学史技術史事典』(弘文堂、1983年) ISBN 978-4-335-75003-8)
- 片桐一男「楢林鎮山」(日蘭学会 編『洋学史事典』(雄松堂出版、1984年) ISBN 978-4-841-90002-6)