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**[[義尹]](1217-1300) - 肥後[[大慈寺 (熊本市)|大慈寺]]開山 |
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*生母不明(配流先の佐渡で生んだとされる皇子女) |
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=== 系図 === |
=== 系図 === |
2009年2月3日 (火) 20:35時点における版
順徳天皇 | |
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元号 |
承元 建暦 建保 承久 |
時代 | 鎌倉時代 |
先代 | 土御門天皇 |
次代 | 仲恭天皇 |
誕生 | 1197年10月22日 |
崩御 | 1242年10月7日 |
陵所 | 大原陵 |
諱 | 守成 |
父親 | 後鳥羽天皇 |
母親 | 藤原重子 |
中宮 | 九条(藤原)立子 |
子女 |
諦子内親王 仲恭天皇 穠子内親王 義尹 四辻宮善統親王 彦成王 尊覚法親王 覚恵法親王 岩倉宮忠成王 慶子女王 忠子女王 |
文学 |
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順徳天皇(じゅんとくてんのう、建久8年9月10日(1197年10月22日) - 仁治3年9月12日(1242年10月7日)は鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日)- 承久3年4月20日(1221年5月13日))。諱は守成(もりなり)。
系譜
後鳥羽天皇の第三皇子。母は、高倉範季の娘修明門院・藤原重子。
- 後宮:藤原氏(大納言局) - 坊門信清女
- 穠子内親王(永安門院)(1216-1279)
- 生母不明(配流先の佐渡で生んだとされる皇子女)
- 慶子女王(1225?-1286?)
- 忠子女王(1232?-1249?)
- 皇子(千歳宮)(1237?-1254?)
系図
77 後白河天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
78 二条天皇 | 以仁王 | 80 高倉天皇 | 亮子内親王 (殷富門院) | 式子内親王 | 覲子内親王 (宣陽門院) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
79 六条天皇 | 某王 (北陸宮) | 81 安徳天皇 | 守貞親王 (後高倉院) | 82 後鳥羽天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
86 後堀河天皇 | 83 土御門天皇 | 84 順徳天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
87 四条天皇 | 88 後嵯峨天皇 | 85 仲恭天皇 | 忠成王 (岩倉宮) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
略歴
1200年に立太子、後鳥羽天皇の強い意向で、土御門天皇の譲位により1210年即位。穏和な土御門天皇とは反対に激しい気性の持ち主だと言われていて、後鳥羽上皇に気に入られていたからである。譲位した土御門上皇には権力は無く、後鳥羽上皇による院政が継続されていた。
1221年仲恭天皇に譲位したが、これは以前の土御門上皇の譲位とは違い、後鳥羽上皇の倒幕活動に参加し、これに専念するためであった。後鳥羽上皇以上に鎌倉幕府打倒に積極的で、承久の乱を引き起こした。乱の後は佐渡へ配流となり、1242年、その地で崩御。 (これ以上の存命は不要と、断食を行った後、最後は自らの頭に焼石を乗せて亡くなったと伝えられている)
歌集『順徳院歌集』を出すなど歌の才能に長けていたと言われており、百人一首にも採録されている。
- ももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり (順徳院)
また歌学書『八雲御抄』を著したほか、有職故実に通じていて解説書『禁秘抄』を著している。
在位中の元号
- 承元 (1210年11月25日) - 1211年3月9日
- 建暦 1211年3月9日 - 1213年12月6日
- 建保 1213年12月6日 - 1219年4月12日
- 承久 1219年4月12日 - (1221年4月20日)
陵墓・霊廟
京都市左京区大原勝林院町の大原陵(おおはらのみささぎ)に葬られた。また、新潟県佐渡市には火葬塚がある。
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