コンテンツにスキップ

「倭彦命」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
編集の要約なし
可怜 (会話 | 投稿記録)
編集の要約なし
1行目: 1行目:
{{Otheruses|崇神天皇の皇子|仲哀天皇の子孫|倭彦王}}
'''倭彦命'''(やまとひこ の みこと、生年不詳 - [[垂仁天皇]]32年([[3年]])前後)は[[崇神天皇]]と皇后・[[御間城姫]]の第三皇子。
'''倭彦命'''(やまとひこ の みこと、生年不詳 - [[垂仁天皇]]28年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]([[紀元前2年]][[11月1日]]?))は、[[記紀]]伝承上の[[皇族]](王族)。[[崇神天皇]]の第三皇子。母は[[御間城姫]]。[[垂仁天皇]]の同母弟に当たる。'''倭日子命'''([[古事記]])、'''倭彦王子'''([[続日本紀]])とも。


記述によると倭彦命が亡くなると墓のまわりにを生き埋めにし、これを嘆いた垂仁天皇は皇后[[日葉酢媛命]]が亡くなるまわりに人の物を置き、代わりにしたという('''[[埴輪]]'''の起源)。
『[[日本書紀]]』によれば、垂仁天皇28年[[10月5日 (旧暦)|10月5日]]に薨去。翌月2日、身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)に葬られ、墓のまわりに生前の側近を生き埋めにしたが([[殉死]])殉死者は数日間も死なずに昼夜呻き続け、死後は犬や鳥が腐肉を漁ったという。これを哀れんだ垂仁天皇は殉死の禁令を出した。同32年に皇后[[日葉酢媛命]](ひばすひめのみこ)が薨去した際には、[[野見宿禰]]進言従って・馬などの土(はにもの)立てて代替としたという('''[[埴輪]]'''の起源)。

なお、倭彦命が葬られたとされる身狭桃花鳥坂墓は、現在の[[奈良県]][[橿原市]]鳥屋町の桝山古墳([[方墳]]・辺90m)に比定されており、[[宮内庁]]の管理下にある。


{{Japanese-history-stub}}
{{Japanese-history-stub}}

2009年2月10日 (火) 18:59時点における版

倭彦命(やまとひこ の みこと、生年不詳 - 垂仁天皇28年10月5日紀元前2年11月1日?))は、記紀伝承上の皇族(王族)。崇神天皇の第三皇子。母は御間城姫垂仁天皇の同母弟に当たる。倭日子命古事記)、倭彦王子続日本紀)とも。

日本書紀』によれば、垂仁天皇28年10月5日に薨去。翌月2日、身狭桃花鳥坂(むさのつきさか)に葬られ、墓のまわりに生前の側近を生き埋めにしたが(殉死)、殉死者は数日間も死なずに昼夜呻き続け、死後は犬や鳥が腐肉を漁ったという。これを哀れんだ垂仁天皇は殉死の禁令を出した。同32年に皇后の日葉酢媛命(ひばすひめのみこと)が薨去した際には、野見宿禰の進言に従って人・馬などのの土物(はにもの)を墓に立てて代替としたという(埴輪の起源譚)。

なお、倭彦命が葬られたとされる身狭桃花鳥坂墓は、現在の奈良県橿原市鳥屋町の桝山古墳(方墳・辺90m)に比定されており、宮内庁の管理下にある。