コンテンツにスキップ

「張顗」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m編集の要約なし
m →‎正史の事跡: 表の読みの削除
6行目: 6行目:
! 姓名
! 姓名
| 張顗
| 張顗
|-
! 読み・ピンイン
| ちょうぎ〔Zhāng Yǐ〕、
または、ちょうがい
|-
|-
! 時代
! 時代
38行目: 34行目:


[[建安 (漢)|建安]]9年([[204年]])、鄴を守備する袁尚の参謀[[審配]]を救援するため、袁尚に従って[[曹操]]と戦ったが、敗北を積み重ねた。袁尚は降伏の使者を曹操に送ったものの容れられず、遂には、張顗は馬延と共に曹操に降伏してしまい、袁尚の軍勢は総崩れとなって中山へ敗走した。この後、張顗は史書に登場しない。
[[建安 (漢)|建安]]9年([[204年]])、鄴を守備する袁尚の参謀[[審配]]を救援するため、袁尚に従って[[曹操]]と戦ったが、敗北を積み重ねた。袁尚は降伏の使者を曹操に送ったものの容れられず、遂には、張顗は馬延と共に曹操に降伏してしまい、袁尚の軍勢は総崩れとなって中山へ敗走した。この後、張顗は史書に登場しない。

== 物語中の張顗 ==
== 物語中の張顗 ==
『[[三国志演義]]』では、この後も曹操配下として登場し、馬延と同格扱いにされている。当陽の戦いで他の袁紹の降将と共に、[[劉禅|阿斗]]を抱える劉備の将・[[趙雲]]を包囲したが、突破された。[[赤壁の戦い]]では、馬延と共に敗走する曹操を護衛したが、追撃してきた呉将[[甘寧]]に馬延共々討ち取られる。
『[[三国志演義]]』では、この後も曹操配下として登場し、馬延と同格扱いにされている。当陽の戦いで他の袁紹の降将と共に、[[劉禅|阿斗]]を抱える劉備の将・[[趙雲]]を包囲したが、突破された。[[赤壁の戦い]]では、馬延と共に敗走する曹操を護衛したが、追撃してきた呉将[[甘寧]]に馬延共々討ち取られる。

2009年2月14日 (土) 14:06時点における版

張 顗(ちょう ぎ、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。「ちょうがい」と読まれる場合もあるが、これは形声文字の声符から音を憶測しただけの誤読である。

正史の事跡

姓名 張顗
時代 後漢時代
生没年 〔不詳〕
字・別号 〔不詳〕
出身地 〔不詳〕
職官 〔不詳〕
爵位・号等 -
陣営・所属等 袁尚曹操
家族・一族 〔不詳〕

袁紹の三男袁尚の配下の将。「大将」と表記される同僚の馬延よりも格下の将、あるいは馬延の副将であろうか。張顗の名は『三国志』魏書武帝紀のみにしか見えないのに対し、馬延の名は他にも『三国志』魏書袁紹伝、『後漢書』袁紹伝に見える。

建安9年(204年)、鄴を守備する袁尚の参謀審配を救援するため、袁尚に従って曹操と戦ったが、敗北を積み重ねた。袁尚は降伏の使者を曹操に送ったものの容れられず、遂には、張顗は馬延と共に曹操に降伏してしまい、袁尚の軍勢は総崩れとなって中山へ敗走した。この後、張顗は史書に登場しない。

物語中の張顗

三国志演義』では、この後も曹操配下として登場し、馬延と同格扱いにされている。当陽の戦いで他の袁紹の降将と共に、阿斗を抱える劉備の将・趙雲を包囲したが、突破された。赤壁の戦いでは、馬延と共に敗走する曹操を護衛したが、追撃してきた呉将甘寧に馬延共々討ち取られる。

参考文献