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「ミハイル・ネステロフ」の版間の差分

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'''ミハイル・ヴァシリイェヴィチ・ネステロフ'''(または'''ネスチェロフ'''、'''{{lang|ru|Михаил Васильевич Нестеров}}''', [[1862年]][[5月19日]]([[グレゴリオ暦]][[5月31日]]) [[ウファ]] - [[1942年]][[10月18日]] [[モスクワ]])は、19世紀末のロシア画壇における宗教的[[象徴主義]]の代表的指導者。
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帝国美術アカデミーにて[[パヴェル・チスチャコフ]]に師事した後、芸術家集団「[[移動派]]」に参加する。[[ラドネジ]][[セルギー・ラドネシスキー|セルギイ]]の回心を描いた絵画「'''若きヴァルフォロメイの聖なる光景'''」([[1890年]]~[[1891年]])は、しばしば[[ロシア象徴主義]]運動の幕開けを告げる作品と見なされている。[[1890年]]から[[1910年]]まで[[キエフ]]や[[サンクトペテルブルク]]に暮らして、[[聖ウラジーミル大聖堂]]や[[血の上の救世主教会]]のそれぞれの[[フレスコ画]]制作に取り組んだ。1910年以降は、余生をモスクワで送り、マルフォ=マリインスキー女子修道院に仕えながら[[肖像画]]を描いた。
帝国美術アカデミーにて[[パヴェル・チスチャコフ]]に師事した後、芸術家集団「[[移動派]]」に参加する。[[ラドネジのセルギイ]]の回心を描いた絵画「'''若きヴァルフォロメイの聖なる光景'''」([[1890年]]~[[1891年]])は、しばしば[[ロシア象徴主義]]運動の幕開けを告げる作品と見なされている。[[1890年]]から[[1910年]]まで[[キエフ]]や[[サンクトペテルブルク]]に暮らして、[[聖ウラジーミル大聖堂]]や[[血の上の救世主教会]]のそれぞれの[[フレスコ画]]制作に取り組んだ。1910年以降は、余生をモスクワで送り、マルフォ=マリインスキー女子修道院に仕えながら[[肖像画]]を描いた。
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Image:Nesterov SaintRussia.JPG|聖なるルーシ
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2009年3月2日 (月) 07:02時点における版

若きヴァルフォロメイの聖なる光景(1890年

ミハイル・ヴァシリイェヴィチ・ネステロフ(またはネスチェロフМихаил Васильевич Нестеров, 1862年5月19日グレゴリオ暦5月31日ウファ - 1942年10月18日 モスクワ)は、19世紀末のロシア画壇における宗教的象徴主義の代表的指導者。

帝国美術アカデミーにてパヴェル・チスチャコフに師事した後、芸術家集団「移動派」に参加する。ラドネジのセルギイの回心を描いた絵画「若きヴァルフォロメイの聖なる光景」(1890年1891年)は、しばしばロシア象徴主義運動の幕開けを告げる作品と見なされている。1890年から1910年までキエフサンクトペテルブルクに暮らして、聖ウラジーミル大聖堂血の上の救世主教会のそれぞれのフレスコ画制作に取り組んだ。1910年以降は、余生をモスクワで送り、マルフォ=マリインスキー女子修道院に仕えながら肖像画を描いた。

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