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「マザー・ジョーンズ」の版間の差分

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'''メアリー・ハリス・ジョーンズ'''('''Mary Harris Jones''', [[1830年]][[5月1日]] - [[1930年]][[11月30日]])は、著名な[[アメリカ合衆国]]の労働活動家。'''マザー・ジョーンズ'''('''Mother Jones''')としてよく知られている。[[アイルランド]]のコークに生まれる。彼女の家族は、祖父がアイルランドの全国争議への参加によって絞首刑にされた直後の[[1835年]]に[[カナダ]]の[[トロント]]へ移り住んだ。彼女は学校を卒業した後、アメリカで教師および洋裁師として働いた。[[南北戦争]]の前に彼女は鋳鉄工組合の熟練工であるジョージ・ジョーンズと結婚した。
'''メアリー・ハリス・ジョーンズ'''('''Mary Harris Jones''', [[1830年]][[5月1日]] - [[1930年]][[11月30日]])は、著名な[[アメリカ合衆国]]の労働活動家。'''マザー・ジョーンズ'''('''Mother Jones''')としてよく知られている。[[アイルランド]]のコークに生まれる。彼女の家族は、祖父がアイルランドの全国争議への参加によって絞首刑にされた直後の[[1835年]]に[[カナダ]]の[[トロント]]へ移り住んだ。彼女は学校を卒業した後、アメリカで教師および洋裁師として働いた。[[南北戦争]]の前に彼女は鋳鉄工組合の熟練工であるジョージ・ジョーンズと結婚した。


彼女の生涯での二つの大きな転機は、[[1867年]]に[[テネシー州]]で流行した[[黄熱病]]で夫と4人の子供を失ったことと、[[1871年]]のシカゴ大火で全ての財産を失ったことだった。彼女は自活することを強いられ労働運動に関係することとなり、「労働騎士団 ''Knights of Labor''」に加わった。労働騎士団は後の[[1905年]]に「世界産業労働者組合''Industrial Workers of the World''」(IWW, Wobblies)となる。彼女は国中各地の[[ストライキ]]での主催者かつ指導者として活動的で、「炭坑労働者組合 ''United Mine Workers''」(UMW)および[[アメリカ社会党]]と特に関係した。組合主催者として彼女は、デモを行う労働者の妻や子供達を組織して有名になった。[[1903年]]に彼女は「子供の十字軍」として繊維工場や鉱山で働く子供たちによる行進を組織した。それは「私たちは、遊ぶための時間が欲しい!」「私たちは学校へ行きたい!」との要求の旗を持ち、[[ペンシルニア州]]ケンジントンから[[ニューヨーク州]]オイスター・ベイの[[セオドア・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の家まで行われた。大統領は行進との面会を拒絶したが、その出来事は公の問題として児童労働者の実態を世間に知らしめることとなった。
彼女の生涯での二つの大きな転機は、[[1867年]]に[[テネシー州]]で流行した[[黄熱病]]で夫と4人の子供を失ったことと、[[1871年]]のシカゴ大火で全ての財産を失ったことだった。彼女は自活することを強いられ労働運動に関係することとなり、「労働騎士団 ''Knights of Labor''」に加わった。労働騎士団は後の[[1905年]]に「世界産業労働者組合''Industrial Workers of the World''」(IWW, Wobblies)となる。彼女は国中各地の[[ストライキ]]での主催者かつ指導者として活動的で、「炭坑労働者組合 ''United Mine Workers''」(UMW)および[[アメリカ社会党]]と特に関係した。組合主催者として彼女は、デモを行う労働者の妻や子供達を組織して有名になった。[[1903年]]に彼女は「子供の十字軍」として繊維工場や鉱山で働く子供たちによる行進を組織した。それは「私たちは、遊ぶための時間が欲しい!」「私たちは学校へ行きたい!」との要求の旗を持ち、[[ペンシルニア州]]ケンジントンから[[ニューヨーク州]]オイスター・ベイの[[セオドア・ルーズベルト]][[アメリカ合衆国大統領|大統領]]の家まで行われた。大統領は行進との面会を拒絶したが、その出来事は公の問題として児童労働者の実態を世間に知らしめることとなった。


1930年11月30日死去。100歳。
1930年11月30日死去。100歳。

2009年4月17日 (金) 00:53時点における版

ファイル:Mary-Harris-Mother-Jones.jpg
マザー・ジョーンズ

メアリー・ハリス・ジョーンズMary Harris Jones, 1830年5月1日 - 1930年11月30日)は、著名なアメリカ合衆国の労働活動家。マザー・ジョーンズMother Jones)としてよく知られている。アイルランドのコークに生まれる。彼女の家族は、祖父がアイルランドの全国争議への参加によって絞首刑にされた直後の1835年カナダトロントへ移り住んだ。彼女は学校を卒業した後、アメリカで教師および洋裁師として働いた。南北戦争の前に彼女は鋳鉄工組合の熟練工であるジョージ・ジョーンズと結婚した。

彼女の生涯での二つの大きな転機は、1867年テネシー州で流行した黄熱病で夫と4人の子供を失ったことと、1871年のシカゴ大火で全ての財産を失ったことだった。彼女は自活することを強いられ労働運動に関係することとなり、「労働騎士団 Knights of Labor」に加わった。労働騎士団は後の1905年に「世界産業労働者組合Industrial Workers of the World」(IWW, Wobblies)となる。彼女は国中各地のストライキでの主催者かつ指導者として活動的で、「炭坑労働者組合 United Mine Workers」(UMW)およびアメリカ社会党と特に関係した。組合主催者として彼女は、デモを行う労働者の妻や子供達を組織して有名になった。1903年に彼女は「子供の十字軍」として繊維工場や鉱山で働く子供たちによる行進を組織した。それは「私たちは、遊ぶための時間が欲しい!」「私たちは学校へ行きたい!」との要求の旗を持ち、ペンシルベニア州ケンジントンからニューヨーク州オイスター・ベイのセオドア・ルーズベルト大統領の家まで行われた。大統領は行進との面会を拒絶したが、その出来事は公の問題として児童労働者の実態を世間に知らしめることとなった。

1930年11月30日死去。100歳。

現在多くの人々が、アメリカの雑誌マザー・ジョーンズ誌によって彼女のことを知っている。

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