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===映画===
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*ダンシング・レディ -''Dancing Lady''([[1933年]]/[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]])
*ダンシング・レディ -''Dancing Lady''([[1933年]]/[[メトロ・ゴールドウィン・メイヤー]])
:[[ジョン・クロフォード]]の相手役として、主演の[[クラーク・ゲーブル]]に代り、ダンスシーンのみにゲスト出演。
:[[ジョン・クロフォード]]の相手役として、主演の[[クラーク・ゲーブル]]に代り、ダンスシーンのみにゲスト出演。
*空中レヴュー時代 -''Flying Down to Rio''([[1933年]]/[[RKO]])
*空中レヴュー時代 -''Flying Down to Rio''([[1933年]]/[[RKO]])
:はじめて[[ジンジャー・ロジャース]]とコンビを組み、名曲「カリオカ」を熱演。映画のなかでは脇役だったが、一挙に人気を博し、次回作では主演に抜擢される。
:はじめて[[ジンジャー・ロジャース]]とコンビを組み、名曲「カリオカ」を熱演。映画のなかでは脇役だったが、一挙に人気を博し、次回作では主演に抜擢される。
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:ロジャースとの競演第三作。前作同様舞台版の映画化であり、歌曲は原作の作曲者[[ジェローム・カーン]]が担当。アステアが後に「もっとも気に入ったダンス」のひとつに挙げたラストシーン「煙が目にしみる」は、歌曲のよさもあいまって爆発的なヒットとなり、二人の代表的なナンバーとして記憶にとどめられることになった。
:ロジャースとの競演第三作。前作同様舞台版の映画化であり、歌曲は原作の作曲者[[ジェローム・カーン]]が担当。アステアが後に「もっとも気に入ったダンス」のひとつに挙げたラストシーン「煙が目にしみる」は、歌曲のよさもあいまって爆発的なヒットとなり、二人の代表的なナンバーとして記憶にとどめられることになった。
*トップ・ハット -''Top Hat'' ([[1935年]]/[[RKO]])
*トップ・ハット -''Top Hat'' ([[1935年]]/[[RKO]])
:ロジャースとの競演第四作にして二人の映画のなかでも最高傑作の呼び声高い名品。歌曲は[[アーング・バーリン]]が担当。五つあるミュージカル・ナンバーはいずれも秀逸だが、特に「頬寄せて」はアステア=ロジャースの名声を不朽のものにした佳品であり、アステアのソロ「トップ・ハット、ホワイト・タイ、アンド・テール」で燕尾服にトップ・ハットというアステアのイメージは不動のものになる。
:ロジャースとの競演第四作にして二人の映画のなかでも最高傑作の呼び声高い名品。歌曲は[[アーヴィング・バーリン]]が担当。五つあるミュージカル・ナンバーはいずれも秀逸だが、特に「頬寄せて」はアステア=ロジャースの名声を不朽のものにした佳品であり、アステアのソロ「トップ・ハット、ホワイト・タイ、アンド・テール」で燕尾服にトップ・ハットというアステアのイメージは不動のものになる。
*艦隊を追って -''Follow the Fleet''([[1936年]]/[[RKO]])
*艦隊を追って -''Follow the Fleet''([[1936年]]/[[RKO]])
:ロジャースとの競演第五作。歌曲は引続きアーング・バーリンが担当した。アステアがはじめて[[水兵]]役に挑戦し、人気[[歌手]][[ハリエット・ヒリヤード]]を起用するなど、一連の作品からの脱皮をはかったが、けっきょく最大の人気を博したのは[[燕尾服]]姿のアステアとロジャースが踊るラストの「レッツ・フェイス・ザ・ミュージック・アンド・ダンス」であった。
:ロジャースとの競演第五作。歌曲は引続きアーヴィング・バーリンが担当した。アステアがはじめて[[水兵]]役に挑戦し、人気[[歌手]][[ハリエット・ヒリヤード]]を起用するなど、一連の作品からの脱皮をはかったが、けっきょく最大の人気を博したのは[[燕尾服]]姿のアステアとロジャースが踊るラストの「レッツ・フェイス・ザ・ミュージック・アンド・ダンス」であった。
*有頂天時代 -''Swing Time''([[1936年]]/[[RKO]])
*有頂天時代 -''Swing Time''([[1936年]]/[[RKO]])
:ロジャースとの競演第六作。ジェローム・カーンが歌曲を担当し、「今宵の君は」が主題歌部門で[[アカデミー賞]]。このほかにも名曲「ファイン・ロマンス」「ピック・ユセルフ・アップ」のナンバーが含まれ、「ボージャングルス・オブ・ハーレム」ではアステアが[[ビル・ロビンソン]]に扮して映画人生でただ一度の黒塗り姿を見せている。アステアの完璧主義を語る上でよく引き合いに出される「ネヴァー・ゴナ・ダンス」(48テイク目で完成した)が含まれるのも本作。
:ロジャースとの競演第六作。ジェローム・カーンが歌曲を担当し、「今宵の君は」が主題歌部門で[[アカデミー賞]]。このほかにも名曲「ア・ファイン・ロマンス」「ピック・ユセルフ・アップ」のナンバーが含まれ、「ボージャングルス・オブ・ハーレム」ではアステアが[[ビル・ボージャングル・ロビンソン]]に扮して映画人生でただ一度の黒塗り姿を見せている。アステアの完璧主義を語る上でよく引き合いに出される「ネヴァー・ゴナ・ダンス」(48テイク目で完成した)が含まれるのも本作。
*踊らん哉 -''Shall We Dance''([[1937年]]/[[RKO]])
*踊らん哉 -''Shall We Dance''([[1937年]]/[[RKO]])
:ロジャースとの競演第七作。歌曲をはじめて[[ジョージ・ガーシュウィン]]と[[アイラ・ガーシュウィン]]の兄弟が担当。後に[[スタンダードナンバー]]となった「[[誰にも奪えぬこの想い]]」「ゼイ・オール・ラフド」が含まれるほか、「レッツ・コール・ザ・ホール・シング・オフ」では[[ローラー・スケート]]によるダンスナンバーを披露している。公開当時は興行成績が意外にあがらず、結果的にアステア=ロジャースのコンビの限界を知らしめることになったが、作品自体は名作で、現在に至るまで二人の競演作のなかでは「トップ・ハット」と並ぶ人気を示す。
:ロジャースとの競演第七作。歌曲をはじめて[[ジョージ・ガーシュウィン]]と[[アイラ・ガーシュウィン]]の兄弟が担当。後に[[スタンダードナンバー]]となった「[[誰にも奪えぬこの想い]]」「ゼイ・オール・ラフド」が含まれるほか、「レッツ・コール・ザ・ホール・シング・オフ」では[[ローラー・スケート]]によるダンスナンバーを披露している。公開当時は興行成績が意外にあがらず、結果的にアステア=ロジャースのコンビの限界を知らしめることになったが、作品自体は名作で、現在に至るまで二人の競演作のなかでは「トップ・ハット」と並ぶ人気を示す。
*踊る騎士 -''A Damsel in Distress''([[1937年]]/[[RKO]])
*踊る騎士 -''A Damsel in Distress''([[1937年]]/[[RKO]])
:[[ジョーン・フォンテイン]]との競演作。アステア、ロジャース両人の希望で、一時的にコンビを解散し、アステアが単独で主演した。引続きガーシュイン兄弟が「ア・フォギー・デイ」(この映画が初演)を含む歌曲を提供したが、フォンテーンにダンスの経験がほとんどなく、興行的にはあまり成功しなかった。
:[[ジョーン・フォンテイン]]との競演作。アステア、ロジャース両人の希望で、一時的にコンビを解散し、アステアが単独で主演した。引続きガーシュイン兄弟が「ア・フォギー・デイ」(この映画が初演)を含む歌曲を提供したが、フォンテーンにダンスの経験がほとんどなく、興行的にはあまり成功しなかった。
*気儘時代 -''Carefree''([[1938年]]/[[RKO]])
*気儘時代 -''Carefree''([[1938年]]/[[RKO]])
:ロジャースとの競演第八作。アーング・バーリンが歌曲を担当し、「チェンジ・パートナーズ」などの名ナンバーがあったものの、興行成績が芳しくなく、二人の決別は決定的になった。当初カラー作品になる予定で、それにあわせてバーリンは「アイ・ユーズド・トゥ・ビー・カラー・ブラインド」という曲を書いたが、予算の都合で最終的にはモノクロで撮影された。アステアとロジャースがはじめて映画のなかで[[キス]]した作品。
:ロジャースとの競演第八作。アーヴィング・バーリンが歌曲を担当し、「チェンジ・パートナーズ」などの名ナンバーがあったものの、興行成績が芳しくなく、二人の決別は決定的になった。当初カラー作品になる予定で、それにあわせてバーリンは「アイ・ユーズド・トゥ・ビー・カラー・ブラインド」という曲を書いたが、予算の都合で最終的にはモノクロで撮影された。アステアとロジャースがはじめて映画のなかで[[キス]]した作品。
*カッスル夫妻 -''The Story of Vernon and Irene Castle''([[1939年]]/[[RKO]])
*カッスル夫妻 -''The Story of Vernon and Irene Castle''([[1939年]]/[[RKO]])
:ロジャースとの競演第九作。二人が往年の名ダンス・コンビであるカッスル夫妻に扮し、コンビ解消を記念する作品となった。作中での衣装、ダンス・ナンバーなどがあまりにも時代がかったものであったこと、二人の競演作にはめずらしく悲劇的な結末であったことなどから興行成績が伸びず、現在にいたるまで人気の高くない作品である。
:ロジャースとの競演第九作。二人が往年の名ダンス・コンビであるカッスル夫妻に扮し、コンビ解消を記念する作品となった。作中での衣装、ダンス・ナンバーなどがあまりにも時代がかったものであったこと、二人の競演作にはめずらしく悲劇的な結末であったことなどから興行成績が伸びず、現在にいたるまで人気の高くない作品である。
*[[踊るニュウ・ヨーク]] -''Broadway Melody of 1940''([[1940年]]/[[MGM]])
*[[踊るニュウ・ヨーク]] -''Broadway Melody of 1940''([[1940年]]/[[MGM]])
:タップの女王[[エレノア・パウエル]]との競演作。MGMの名物シリーズであった「[[ブロードウェイ・メロディ]]」の1940年版で、「白黒映画最後の超大作」などと評された。[[コール・ポーター]]の「[[ビギン・ザ・ビギン]]」のメロディに乗せて、当時比肩される者のなかった[[タップ・ダンス]]の名人アステアとパウエルが神技を競うラスト・シーンは圧巻である。また冒頭[[ジョージ・ーフィー]]とのナンバーは、映画における男性パートナーとの初競演であった。
:タップの女王[[エレノア・パウエル]]との競演作。MGMの名物シリーズであった「[[ブロードウェイ・メロディ]]」の1940年版で、「白黒映画最後の超大作」などと評された。[[コール・ポーター]]の「[[ビギン・ザ・ビギン]]」のメロディに乗せて、当時比肩される者のなかった[[タップ・ダンス]]の名人アステアとパウエルが神技を競うラスト・シーンは圧巻である。また冒頭[[ジョージ・ーフィー]]とのナンバーは、映画における男性パートナーとの初競演であった。
*セカンドコーラス -''Second Chorus''([[1940年]]/[[パラマウント]]配給)
*セカンドコーラス -''Second Chorus''([[1940年]]/[[パラマウント]]配給)
:[[ポーレット・ゴダード]]との競演作。[[アーティ・ショウ]]バンドが実名で登場しており、ラストでアステアが「プワー・ミスター・チズン」を指揮しながら踊るシーンが見られる。ゴダードがほとんど踊れなかったことや、戦時色が濃厚な世相もあって、興行的には不振であった。アステアの[[振付師]][[ハーミズ・パン]]が端役で登場している。
:[[ポーレット・ゴダード]]との競演作。[[アーティ・ショウ]]バンドが実名で登場しており、ラストでアステアが「プワー・ミスター・チズン」を指揮しながら踊るシーンが見られる。ゴダードがほとんど踊れなかったことや、戦時色が濃厚な世相もあって、興行的には不振であった。アステアの[[振付師]][[ハーミズ・パン]]が端役で登場している。
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:[[リタ・ヘイワース]]との競演第一作。
:[[リタ・ヘイワース]]との競演第一作。
*スウィング・ホテル -''Holiday Inn''([[1942年]]/[[パラマウント]])
*スウィング・ホテル -''Holiday Inn''([[1942年]]/[[パラマウント]])
:[[ビング・クロスビー]]との初競演作品。アーング・バーリンによる名曲が惜しげもなく提供され、空前のヒット作となった。「[[ホワイト・クリスマス]]」が初演された映画としても有名。アステアはヴァージニア・デイル、マジョリー・レイノルズとのデュエットのほか、[[独立記念日]]のナンバーで[[爆竹]]とともに踊り、観客の意表をついた。後年、ビング主演により『ホワイト・クリスマス』としてカラーでリメイクされたが、折悪しくアステアは急病のため競演できず、[[ダニー・ケイ]]が代役を果たした。
:[[ビング・クロスビー]]との初競演作品。アーヴィング・バーリンによる名曲が惜しげもなく提供され、空前のヒット作となった。「[[ホワイト・クリスマス]]」が初演された映画としても有名。アステアはヴァージニア・デイル、マジョリー・レイノルズとのデュエットのほか、[[独立記念日]]のナンバーで[[爆竹]]とともに踊り、観客の意表をついた。後年、ビング主演により『ホワイト・クリスマス』としてカラーでリメイクされたが、折悪しくアステアは急病のため競演できず、[[ダニー・ケイ]]が代役を果たした。
*晴れて今宵は -''You Were Never Lovelier''(1942)
*晴れて今宵は -''You Were Never Lovelier''(1942)
*青空に踊る -''The Sky's the Limit'' (1943)
*青空に踊る -''The Sky's the Limit'' (1943)
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*[[パリの恋人]] -''Funny Face''(1957)
*[[パリの恋人]] -''Funny Face''(1957)
*絹の靴下 -''Silk Stockings''(1957)
*絹の靴下 -''Silk Stockings''(1957)
*渚にて -''On the Beach''(1959)
*[[渚にて]] -''On the Beach''(1959)
*結婚泥棒 -''The Pleasure of His Company''(1961)
*結婚泥棒 -''The Pleasure of His Company''(1961)
*悪名高き女 -''The Notorious Landlady''(1962)
*悪名高き女 -''The Notorious Landlady''(1962)

2009年4月20日 (月) 17:43時点における版

Fred Astaire
フレッド・アステア
フレッド・アステア
本名 Friedlich Östlritz
生年月日 (1899-05-10) 1899年5月10日
没年月日 (1987-06-22) 1987年6月22日(88歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 ネブラスカ州
国籍 アメリカ合衆国
職業 俳優歌手ダンサー
活動内容  映画、テレビショー、ラジオ
主な作品
映画
バンド・ワゴン
『ジーグフェルド・フォリーズ』
ザッツ・エンターテインメント
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フレッド・アステアFred Astaire, 1899年5月10日 - 1987年6月22日)は、アメリカ合衆国ネブラスカ州オマハ生まれの俳優ダンサー歌手

舞台から映画界へ転じ、1930年代から1950年代にかけてハリウッドミュージカル映画全盛期を担った。名実共に20世紀を代表する名ダンサーとして後世まで評価されている。

プロフィール

生い立ち

本名はFriedlich Östlritz フリートリヒ・エーストルリッツ(英語読みはフレデリック・オーステルリッツ Frederick Astelrits)といい、オーストリアドイツ人の移民の家に生まれた。アメリカでの愛称のフレッド以外にも、ドイツ語読みのFritz(フリッツ)とも呼ばれた。

フレッド・アステア(右。左は姉のアデール。『バンド・ワゴン』 1921年 )
ポーレット・ゴダードとの共演(『セカンド・コーラス』

4歳からダンス・スクールに学んだアステアは、2歳上の姉のアデールとコンビで全米のヴォードヴィル劇場を巡演し、人気を得る。17歳でブロードウェイにダンサーとして進出を果たし、20歳で名声を確立。1921年には、22歳で姉・アデールと舞台『バンド・ワゴン』を大成功させた。しかし、1931年にアデールは結婚を機に芸能界から引退したため、弟のアステアは新たな活路を模索することになる。

映画界へのメジャー・デビュー

映画界への転進を決意し、ハリウッドでカメラ・テストを受けたが、当初の評価は散々であった。それでもステージで培われた実力でスクリーンへの道を拓き、1933年メトロ・ゴールドウィン・メイヤー映画『ダンシング・レディ』へのゲスト出演でスクリーンデビューする。

続いて当時の大手映画会社の1つであったが経営難にあったRKOと契約しジンジャー・ロジャースとコンビを結成、1935年以降、主演映画作品において華麗なダンスを披露した。アステアとロジャースは1939年までRKOで数々のドル箱ヒット作を生み出し、RKOは二人のダンス・コメディ映画シリーズによって経営を立て直した。

トップハット燕尾服ホワイトタイというエレガントなスタイルで、当時最高の作詞家・作曲家たちの手になるナンバーを歌い踊るアステアは、不況下のアメリカの大衆を熱狂させた。アステアとロジャースは、映画史上最高のダンシング・ペアとされ、二人の一連の主演作は「アステア=ロジャース映画」と半ばジャンル的な扱いをされて、現在に至るまで評価されている。

フリーに転身

だがロジャースが「アステアの添え物」的立場に満足しておらず、演技派としての映画出演を望んだことで、コンビの時代は終わる。実際にロジャースは1939年の主演映画「恋愛手帖」で1940年のアカデミー主演女優賞を獲得している。

このためアステアは、1940年からはフリーで映画出演をする。この頃、タップ・ダンサーのエレノア・パウエルリタ・ヘイワースらとコンビを組み、タップダンスで競演を見せる。

この頃では、特に1940年の『踊るニュウ・ヨーク(踊る紐育)』でのタップシーンが秀逸であり、エレノアとの名人どうしの火花散るようなステップが、この映画の底抜けの楽しさを引き出すことに成功しているが、興行的にはロジャースとのコンビには及ばず、ロジャースとの再共演作を制作したこともあった。第二次世界大戦中は慰問活動と映画への出演を中心に活動した。

MGM時代

1946年には、ミュージカル映画でハリウッドを代表するメジャー映画会社であるMGMと契約した(但し、専属ではない)。

1948年、若手のダンサー兼振付師として「ポスト・アステア」の地位にあった同じMGM所属のジーン・ケリーが撮影中に怪我を負ったため、代わってアステアが『イースター・パレード』の主役を引き受けた。この『イースター・パレード』が世界的なヒットと成功をおさめ、「過去の人」となりかけていたアステアの人気は三たび急上昇する。MGMの二枚看板としてジーン・ケリーと共に活躍したが、二人の共演は『ジーグフェルド・フォリーズ』と、『ザッツ・エンタテインメント パート2』の2作にとどまる。

1953年には、ヴィンセント・ミネリ監督の豪華な大作『バンド・ワゴン』に主演してミュージカル映画の最高峰との評価を得た。本作はアステアの長いキャリアにおける頂点の作品と見なされている。この時代のアステアは、RKOでのロジャースとのコンビとは異なり、様々な女優たちとダンスを踊って一枚看板を張れる存在であり、テクニカラー画像や特殊撮影、華麗な音楽などで彩られたMGMミュージカル映画の最盛期を背負って立つ存在であった。

晩年

だが既に60歳近くなっていたアステアは体力の限界を見せており、同時に経費のかかるミュージカル映画の全盛時代も終焉を迎えつつあった。この頃にはダンス無しの純粋な演技でバイプレーヤーとしての実力を見せるようにもなった。核戦争をテーマとした1959年のシリアスな近未来映画『渚にて』では、医師役を好演している。

1968年の映画『フィニアンの虹』がミュージカル映画への最後の出演となった。晩年はヒット映画『タワーリング・インフェルノ』などへの助演で渋味のある演技を見せるなどし、ゲスト出演的な例外を除いて1970年代半ばに引退したが、進行役としてミュージカル映画全盛期を回顧した名場面集映画『ザッツ・エンタテインメント パート2』出演では、余興としてジーン・ケリー共々、短くも軽やかなダンスを披露し、第一人者としての貫禄を示した。

ほとんど隠退した後も最晩年まで自宅でのダンスの習練を怠らなかった。1980年代初頭にマイケル・ジャクソンが一世を風靡した「スリラー」のムーンウォークを見ると自ら挑戦し、80歳を過ぎた身でありながら、これを鮮やかにマスターしていたという。

評価

アステアのエレガントなダンスには「洗練」という言葉が最も当てはまる。彼はダンスに洗練と品格の両方を備えさせることに成功した、二十世紀を代表するダンサーであり不世出の天才と言えるだろう。正統派のダンス・ファッション共々「粋」を極めたダンサーであった。

後世にあたえた影響も大きく、マイケル・ジャクソンなども彼のファンで「もっとも影響を受けた人物の一人」と発言しており、自身のパフォーマンスにおいても一部ステップを取り入れているほどである(逆にアステアがジャクソンのムーンウォークに挑戦していた上述の逸話と合わせ、アメリカのエンターテインメントの奥深さを感じさせる事実と言えよう)。

またアメリカにおいてアステアは紳士の代名詞としても有名で、名実ともにミュージカル俳優の鑑であった。米俗語として「アステア=ダンスの上手い洗練された男性」があるという。

優れたダンサーとしての面ばかりが強調されがちだが、歌手としてもアステアは一流であり、同時代に一世を風靡した歌手のビング・クロスビーのクルーナー・スタイルとも通じるスムースさと、ダンスで培われたリズム感とを伴った軽やかな歌唱で、しばしばヒットチャートをにぎわせた(アステアとクロスビーは、クロスビーの最晩年である1975年にカーペンターズのヒット曲『Sing』などをデュオした録音を残しており、ここでは老いてなお二人の歌唱スタイルに通底する面をうかがえる)。

そしてジョージアイラのガーシュウィン兄弟、コール・ポーターアーヴィング・バーリンジェローム・カーンなど、1930年代から1950年代にかけてのアメリカを代表するソングライター達は彼のために膨大な楽曲を提供し、それらの曲はのちにはスタンダード・ナンバーとなったものも多い。

プライベート

プライベートでのアステアは、ボストンの富豪の娘のフィリス・ポッターと1933年に結婚した。約21年間彼女と結婚生活を送るも、フィリスは脳腫瘍に罹り、46歳の若さで急逝した。愛妻の死で悲嘆に暮れたアステアは長年を独り身で過ごした。晩年に女性騎手ロビン・スミス(当時35歳)と出会い、1980年に再婚。アステアが1987年に88歳で亡くなるまで、彼女と幸せに過ごしたという。

日本との関わり

  • 第二次世界大戦前の日本でもその評判が高く、浅草レビュー街などではアステア&ロジャースを真似て舞台に上がる日本人ダンスチームが大勢いたほどの人気だったという。
  • 馬主だったアステアの持ち馬のうちもっとも優秀だったトリプリケイトは日本のブリーダーに売却されたことがある。
  • 在日米軍に勤務していた義理の息子に会うため観光も兼ねてプライベートに来日したことがあり、落語家立川談志はその折にアステア一行と銀座で偶然会いサインを貰ったと自著に記している。

出演作

映画

ジョーン・クロフォードの相手役として、主演のクラーク・ゲーブルに代り、ダンスシーンのみにゲスト出演。
  • 空中レヴュー時代 -Flying Down to Rio1933年/RKO
はじめてジンジャー・ロジャースとコンビを組み、名曲「カリオカ」を熱演。映画のなかでは脇役だったが、一挙に人気を博し、次回作では主演に抜擢される。
  • コンチネンタル -The Gay Divorcee1934年/RKO
ロジャースとのコンビによる主演第一作。姉アデールと競演したミュージカル「陽気な離婚」を映画化したもので、二人の人気を不動のものにした。特にコール・ポーターの名曲「夜も昼も」でアステアとロジャースが踊るシーンは有名。
ロジャースとの競演第三作。前作同様舞台版の映画化であり、歌曲は原作の作曲者ジェローム・カーンが担当。アステアが後に「もっとも気に入ったダンス」のひとつに挙げたラストシーン「煙が目にしみる」は、歌曲のよさもあいまって爆発的なヒットとなり、二人の代表的なナンバーとして記憶にとどめられることになった。
ロジャースとの競演第四作にして二人の映画のなかでも最高傑作の呼び声高い名品。歌曲はアーヴィング・バーリンが担当。五つあるミュージカル・ナンバーはいずれも秀逸だが、特に「頬寄せて」はアステア=ロジャースの名声を不朽のものにした佳品であり、アステアのソロ「トップ・ハット、ホワイト・タイ、アンド・テール」で燕尾服にトップ・ハットというアステアのイメージは不動のものになる。
  • 艦隊を追って -Follow the Fleet1936年/RKO
ロジャースとの競演第五作。歌曲は引続きアーヴィング・バーリンが担当した。アステアがはじめて水兵役に挑戦し、人気歌手ハリエット・ヒリヤードを起用するなど、一連の作品からの脱皮をはかったが、けっきょく最大の人気を博したのは燕尾服姿のアステアとロジャースが踊るラストの「レッツ・フェイス・ザ・ミュージック・アンド・ダンス」であった。
ロジャースとの競演第六作。ジェローム・カーンが歌曲を担当し、「今宵の君は」が主題歌部門でアカデミー賞。このほかにも名曲「ア・ファイン・ロマンス」「ピック・ユアセルフ・アップ」のナンバーが含まれ、「ボージャングルス・オブ・ハーレム」ではアステアがビル・ボージャングル・ロビンソンに扮して映画人生でただ一度の黒塗り姿を見せている。アステアの完璧主義を語る上でよく引き合いに出される「ネヴァー・ゴナ・ダンス」(48テイク目で完成した)が含まれるのも本作。
ロジャースとの競演第七作。歌曲をはじめてジョージ・ガーシュウィンアイラ・ガーシュウィンの兄弟が担当。後にスタンダードナンバーとなった「誰にも奪えぬこの想い」「ゼイ・オール・ラフド」が含まれるほか、「レッツ・コール・ザ・ホール・シング・オフ」ではローラー・スケートによるダンスナンバーを披露している。公開当時は興行成績が意外にあがらず、結果的にアステア=ロジャースのコンビの限界を知らしめることになったが、作品自体は名作で、現在に至るまで二人の競演作のなかでは「トップ・ハット」と並ぶ人気を示す。
  • 踊る騎士 -A Damsel in Distress1937年/RKO
ジョーン・フォンテインとの競演作。アステア、ロジャース両人の希望で、一時的にコンビを解散し、アステアが単独で主演した。引続きガーシュイン兄弟が「ア・フォギー・デイ」(この映画が初演)を含む歌曲を提供したが、フォンテーンにダンスの経験がほとんどなく、興行的にはあまり成功しなかった。
ロジャースとの競演第八作。アーヴィング・バーリンが歌曲を担当し、「チェンジ・パートナーズ」などの名ナンバーがあったものの、興行成績が芳しくなく、二人の決別は決定的になった。当初カラー作品になる予定で、それにあわせてバーリンは「アイ・ユーズド・トゥ・ビー・カラー・ブラインド」という曲を書いたが、予算の都合で最終的にはモノクロで撮影された。アステアとロジャースがはじめて映画のなかでキスした作品。
  • カッスル夫妻 -The Story of Vernon and Irene Castle1939年/RKO
ロジャースとの競演第九作。二人が往年の名ダンス・コンビであるカッスル夫妻に扮し、コンビ解消を記念する作品となった。作中での衣装、ダンス・ナンバーなどがあまりにも時代がかったものであったこと、二人の競演作にはめずらしく悲劇的な結末であったことなどから興行成績が伸びず、現在にいたるまで人気の高くない作品である。
タップの女王エレノア・パウエルとの競演作。MGMの名物シリーズであった「ブロードウェイ・メロディ」の1940年版で、「白黒映画最後の超大作」などと評された。コール・ポーターの「ビギン・ザ・ビギン」のメロディに乗せて、当時比肩される者のなかったタップ・ダンスの名人アステアとパウエルが神技を競うラスト・シーンは圧巻である。また冒頭ジョージ・マーフィーとのナンバーは、映画における男性パートナーとの初競演であった。
ポーレット・ゴダードとの競演作。アーティ・ショウバンドが実名で登場しており、ラストでアステアが「プワー・ミスター・チズン」を指揮しながら踊るシーンが見られる。ゴダードがほとんど踊れなかったことや、戦時色が濃厚な世相もあって、興行的には不振であった。アステアの振付師ハーミズ・パンが端役で登場している。
リタ・ヘイワースとの競演第一作。
ビング・クロスビーとの初競演作品。アーヴィング・バーリンによる名曲が惜しげもなく提供され、空前のヒット作となった。「ホワイト・クリスマス」が初演された映画としても有名。アステアはヴァージニア・デイル、マジョリー・レイノルズとのデュエットのほか、独立記念日のナンバーで爆竹とともに踊り、観客の意表をついた。後年、ビング主演により『ホワイト・クリスマス』としてカラーでリメイクされたが、折悪しくアステアは急病のため競演できず、ダニー・ケイが代役を果たした。
  • 晴れて今宵は -You Were Never Lovelier(1942)
  • 青空に踊る -The Sky's the Limit (1943)
  • ヨランダと泥棒 -Yolanda and the Thief (1945)
  • ジーグフェルド・フォリーズ -Ziegfeld Follies(1946)
  • ブルー・スカイ -Blue Skies(1946)
  • イースター・パレード -Easter Parade(1948)
  • ブロードウェイのバークレー夫妻 -The Barkleys of Broadway(1949)
    ジュディ・ガーランド主演で計画されていたが、ガーランドが病に倒れたため、急遽かつてコンビを組んでいたジンジャー・ロジャースが起用された。ロジャースとの最後の共演作。
  • 土曜は貴方に -Three Little Words(1950)
  • レッツ・ダンス -Let's Dance(1950)
  • 恋愛準決勝戦 -Royal Wedding(1951)
  • ザ・ベル・オブ・ニューヨーク -The Bell of NewYork(1952)
  • バンド・ワゴン -The Band Wagon(1953)
  • 我が心に君深く -Deep in My Heart(1954)
  • 足ながおじさん -Daddy Long Legs(1955)
  • パリの恋人 -Funny Face(1957)
  • 絹の靴下 -Silk Stockings(1957)
  • 渚にて -On the Beach(1959)
  • 結婚泥棒 -The Pleasure of His Company(1961)
  • 悪名高き女 -The Notorious Landlady(1962)
  • フィニアンの虹 -Finian's Rainbow(1968)
  • 強奪超特急 -Midas Run(1969)
  • ザッツ・エンタテインメント -That's Entertainment!(1974)
  • タワーリング・インフェルノ -Towering Inferno (1974)
  • ザッツ・エンタテインメント パート2 -That's Entertainment, Part2(1976)
  • ゴースト・ストーリー -Ghost Story(1981)
  • ザッツ・ダンシング -That's Dancing!(1985)

映画以外

  • フレッド・アステア物語1(映画以外)
  • フレッド・アステア物語2(映画以外)
  • スパイのライセンス(テレビドラマ)
  • The Evening with Fred Astaire(米NBCのテレビ・バラエティー番組。1958年10月17日の番組は、録画番組としては世界最古のカラービデオテープとして残っていることで歴史的にも非常に貴重である。)


関連項目

外部リンク