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「江利チエミ」の版間の差分

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チエミのテネシーワルツの大ヒットは「日本語と英語のチャンポン」というスタイルを用いたこともあり、それまで都市部中心でのブームであった「ジャズ(当時は洋楽を総称してこう呼んだ)」を全国区にするにあたり、牽引役を果たした。後の[[ペギー葉山]]、そしてカントリーの小坂一也など、そしてロカビリーブームといった、日本における「カバー歌手」のメジャー化のさきがけを果たした。
チエミのテネシーワルツの大ヒットは「日本語と英語のチャンポン」というスタイルを用いたこともあり、それまで都市部中心でのブームであった「ジャズ(当時は洋楽を総称してこう呼んだ)」を全国区にするにあたり、牽引役を果たした。後の[[ペギー葉山]]、そしてカントリーの小坂一也など、そしてロカビリーブームといった、日本における「カバー歌手」のメジャー化のさきがけを果たした。


本来、チエミの興行の権利を握っていたのは吉本であった。若き日の[[永島達司]]はチエミの興行を関西で行った時に会場で「[[山口組]]の三代目と林さんが怖そうな人と来てるから逃げてください」と忠告されている逃げる訳にもいかず挨拶に行くと「ウチのところでもやってくれないか」と切り出してきた。後に『夢のワルツ』(講談社)の中で永島は、大物二人は文句を言おうと思ってきたとは思う会場の客層を見て([[キョードー東京]]の連中を)使った方が便利だと考えたんだろう、と笑っている。
本来、チエミの興行の権利を握っていたのは吉本であった。若き日の[[永島達司]]はチエミの興行をった会場で「[[山口組]]の三代目と吉本の林さんが怖そうな人と来てるから逃げてください」と忠告され。挨拶に行くと二人は「ウチのところでもやってくれ」と切り出してきた。後に『夢のワルツ』(講談社)の中で永島は、大物二人は文句を言おうと思ってきたが会場の客層を見て([[キョードー東京]]の連中を)使った方が便利だと考えたんだろう、と笑っている。


メジャーデビューの翌年、[[1953年]](昭和28年)の春には、招かれて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[キャピトル・レコード]]で「ゴメンナサイ/プリティ・アイド・ベイビー」を録音、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成。ロスなどでステージにも立ち絶賛を浴びる。帰路のハワイでも公演を成功させ、そこで合流したジャズ・ボーカル・グループ「デルタ・リズム・ボーイズ」と共に凱旋帰朝、ジョイント・コンサートを各地で開き、ジャズ・ボーカリスト・ナンバー1の地位を獲得する。
メジャーデビューの翌年、[[1953年]](昭和28年)の春には、招かれて[[アメリカ合衆国|アメリカ]]の[[キャピトル・レコード]]で「ゴメンナサイ/プリティ・アイド・ベイビー」を録音、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成。ロスなどでステージにも立ち絶賛を浴びる。帰路のハワイでも公演を成功させ、そこで合流したジャズ・ボーカル・グループ「デルタ・リズム・ボーイズ」と共に凱旋帰朝、ジョイント・コンサートを各地で開き、ジャズ・ボーカリスト・ナンバー1の地位を獲得する。

2009年4月26日 (日) 23:52時点における版

江利チエミ 『猛獣使いの少女1952年.

江利チエミ(えりちえみ、本名:久保智恵美、1937年1月11日 - 1982年2月13日)は、昭和期に活躍した日本歌手タレント女優である。

生い立ち

1937年昭和12年)1月11日、東京市下谷区(現・東京都台東区下谷)に3男1女の末娘として生まれる。血液型A型

父(久保益雄)は北九州の出身。独学でクラリネット奏者になったが、軍事徴用での工場の作業で指の先を痛め、以降再び独学でピアノ弾きに転向したりと、ともかく「音楽センス」の素晴らしい人だったと言われており、生まれた頃は船のバンドマスター、吉本興業の所属になっていた(デビュー当時のチエミも吉本の所属。その頃の吉本は今のようではなく花菱アチャコ・チエミくらいしか稼げるスターはいなかった)。バンドマスターを経て吉本所属(東京吉本)の大スター、柳家三亀松三味線漫談)の相三味線やピアノ伴奏を務める(三亀松の語りにあわせての効果音的なピアノ伴奏は絶妙で、三味線もコードを変えて音を重ねるなど巧みな腕を持っていた)。この三味線、ピアノも独学で習得。チエミの音楽素養のなかの「順応性、適合性」はこの父親の遺伝子によるものと思われる。

母親は、SKDが東京に出来る前の宝塚歌劇の前身のような「東京少女歌劇」出身の女優、谷崎歳子。のちに浅草の軽演劇の舞台に立ち、吉本に所属。名喜劇女優として、当時同じく吉本にいた笠置シヅ子と共演したり、榎本健一とも映画で共演したりしているが、チエミを身ごもるころより身体を壊し、一線から退いた。

メジャーデビューまで

少女歌手、江利チエミのルーツは「生活を支えるため」であり、この点は美空ひばりとの相違である。ひばりはひばりの母親のなし得なかった「歌手になる!」という夢と、自身も歌が好きで非常に巧かったということが合致し、マメ歌手の人生をスタートするが、豊かではないまでも実家は父が「魚増」という鮮魚店を営み、家計に困窮していたわけでは決してない。

かたやチエミは、三亀松師匠とのいわば喧嘩別れで失職した父、病床で寝たり起きたりの母、また3人の兄、とこれだけのものを背負っていた。

長兄も陸軍士官学校出身で英語も堪能なエリートだったが、戦後の価値観の変化などで順調とは行かず、結局、父がマネージャー、長兄が付き人という3人3脚での芸能活動が、1949年(昭和24年)、12歳のころからスタートすることになった。

進駐軍のキャンプまわりの仕事をこなしていくうちに彼女はドリス・ディの「アゲイン」などを習得して、ジャズ歌手という方向性に照準をあわせる。進駐軍のアイドルとなり、愛称は「エリー」となる。芸名の江利チエミはこの「エリー」から母が名づけた。特にチエミを可愛がってくれた進駐軍兵士ケネス・ボイド氏から彼女は運命のレコード「テネシーワルツ」をプレゼントされる。

この曲を自分のデビュー曲と心に決めるも、レコード会社のオーディションにことごとく失敗する。なんとか最後の頼みの綱であるキングレコードの試験にパスし、1952年(昭和27年)1月23日に自分の意志を貫き「テネシーワルツ/家へおいでよ」でレコードデビューを果たす。そのとき15歳。しかし吹き込みは前年の11月だったため、キングレコードは「14歳の天才少女」というキャッチコピーを提案した。しかしこのとき「うそをつくのは嫌だ!」と抗議。少女時代から自分の意志を通す一徹な部分を持った性格だった。

同年、初主演映画の『猛獣使いの少女』に出演、「美空ひばり以来の天才少女」と呼ばれるようになる。

幅広いジャンルで活躍

チエミのテネシーワルツの大ヒットは「日本語と英語のチャンポン」というスタイルを用いたこともあり、それまで都市部中心でのブームであった「ジャズ(当時は洋楽を総称してこう呼んだ)」を全国区にするにあたり、牽引役を果たした。後のペギー葉山、そしてカントリーの小坂一也など、そしてロカビリーブームといった、日本における「カバー歌手」のメジャー化のさきがけを果たした。

本来、チエミの興行の権利を握っていたのは吉本であった。若き日の永島達司はチエミの興行を打った会場で「山口組の三代目と吉本の林さんが怖そうな人と来てるから逃げてください」と忠告された。挨拶に行くと二人は「ウチのところでもやってくれ」と切り出してきた。後に『夢のワルツ』(講談社)の中で永島は、大物二人は文句を言おうと思ってきたが会場の客層を見て(キョードー東京の連中を)使った方が便利だと考えたんだろう、と笑っている。

メジャーデビューの翌年、1953年(昭和28年)の春には、招かれてアメリカキャピトル・レコードで「ゴメンナサイ/プリティ・アイド・ベイビー」を録音、ヒットチャートにランキングされるという日本人初の快挙を達成。ロスなどでステージにも立ち絶賛を浴びる。帰路のハワイでも公演を成功させ、そこで合流したジャズ・ボーカル・グループ「デルタ・リズム・ボーイズ」と共に凱旋帰朝、ジョイント・コンサートを各地で開き、ジャズ・ボーカリスト・ナンバー1の地位を獲得する。

なお、チエミが渡米している間にライバルとなる雪村いづみがデビュー。帰国第一声は、「雪村いづみって、どんな子?」だったという。

美空ひばり・雪村いづみとともに「三人娘」と呼ばれ、一世を風靡。「ジャンケン娘(1955年)」などの一連の映画で共演。その頃から江利は、日劇をホームグラウンドとして活躍、日劇の歴史で「歌手の名前がそのロングラン公演のタイトル」となったのは、1955年(昭和30年)4月26日~5月6日「チエミ海を渡る」がさきがけだった(江利チエミ日劇初出場はメジャーデビュー前の1951年(昭和26年)。1952年から1967年までリサイタルを開いた)。またTBS「チエミ大いに歌う」は、ワンマンショウスタイルのさきがけともなった歌番組(1965年4月~11月)であった。

ファイル:Jazu musume tanjo poster.jpg
ジャズ娘誕生

映画の「サザエさん」シリーズ(1956年から全10作が作られた)もヒット。のちにテレビドラマ(1965年~1967年)、舞台化もされ生涯の当たり役となる。東映作品「ちいさこべ」では京都市民映画祭/最優秀助演女優賞を獲得、「ふんどし医者」など、自身主演の「音楽娯楽映画(唄祭りロマンス道中(渥美清・共演)/ジャズ娘誕生(石原裕次郎・共演)/チエミの婦人靴...等)」以外にも数多く助演した。

1959年(昭和34年)、ゲスト出演した東映映画での共演が縁で高倉健と結婚、家庭に入るものの、1960年(昭和35年)に本格的に復帰。高倉とは義姉(異父姉)による横領事件(後述)などがあって1971年(昭和46年)にチエミ側から離婚を申し入れることに。チエミは数年かけて数億に及んだ借財と抵当にとられた実家などを取り戻す。

1963年(昭和38年)には日本におけるブロードウェイ・ミュージカル初演の東京宝塚劇場での「マイ・フェア・レディ」に主演しテアトロン賞、毎日演劇賞、ゴールデン・アロー賞(第1回大賞)などを受賞、またこれに遡る1961年(昭和36年)には「歌手としてはじめて」の舞台の1ヶ月座長公演も梅田コマ「チエミのスター誕生」で果たし、舞台女優としても活躍した。(翌1962年の新宿コマ「スター誕生」公演で芸術祭奨励賞受賞)。代表作には、「アニーよ銃をとれ」・「お染久松」(芸術祭奨励賞)・「芸者春駒」・「白狐の恋」(芸術祭優秀賞)・「春香伝」「花木蘭」などがある。

新宿コマの座長公演は1962年(昭和37年)の「スター誕生」から1978年(昭和53年)の「サザエさん」まで続いた。松竹系の舞台でも、1953年京都南座で音楽劇二十四の瞳」に主演。助演した舞台にも「東宝歌舞伎/沓掛時次郎(長谷川一夫と共演)」「コマ歌舞伎/春夏秋冬(現/:坂田藤十郎 (4代目)、当時の中村扇雀と共演)」があり、女優としても幅広い活躍を続けた。

テレビドラマも「チエミの瓦版太平記」「咲子さんちょっと」「あの妓ちゃん」「黄色いトマト」「ねぎぼうずの唄」「はじめまして」「赤帽かあちゃん」...など多数の作品に主演。

その活動の範囲は、歌手/女優に留まらず、NHK連想ゲーム」の紅組キャプテン、TBS「みんなで歌おう73~75」のメインパーソナリティなど司会業でも活躍し、テレビ朝日象印クイズヒントでピント」では女性軍キャプテンを務めた。

NHK紅白歌合戦

年末恒例のNHK紅白歌合戦へは、「三人娘」の中ではチエミが一番早く、1953年(昭和28年、第4回)に「ガイ・イズ・ア・ガイ」で初出場を果たす。1956年(昭和31年、第7回)では、雪村いづみが本番当日胃痙攣の為に出場辞退、急遽チエミが雪村の分も合わせて、出場者の印である赤い花を2つ胸に付けて2曲を歌った。

1963年・1964年(昭和38・39年、第14回第15回)は、現役歌手としてはじめて紅組キャプテンを2年連続で務め、司会も担当した。1968年(昭和43年、第19回)には、当時の連続出場最多記録となる16回目の紅白出場を達成したが、この1968年がチエミの生涯最後の紅白出演となった。

次の1969年(昭和44年、第20回)は、「紅白に出場して欲しい歌手」上位三名に入っていたにも拘わらず、落選し話題となる。翌1970年(昭和45年、第21回)の紅白は2年ぶりの復帰出場が決まっていたが、チエミ自ら「ヒット曲がないから」等との理由により、敢えて紅白への出演辞退を表明した。現役歌手で紅白出場が決まりながらも辞退したのはチエミが史上初めての事であったが、このほか越路吹雪らも紅白を辞退する事となる。

その後も、1974年1975年(昭和49・50年、第25回第26回)には「酒場にて」が久々にヒット曲となったが、チエミは「もう紅白は卒業しましたから…」と、やはりNHKからの出演要請を自ら撥ねつけていた。

若すぎた死

1982年(昭和57年)2月13日午後、港区高輪の自宅マンションのベッド上でうつ伏せの状態で倒れているのをマネージャーに発見されたが、既に呼吸・心音とも反応が無く死亡が確認された。死因は脳卒中と、吐瀉物が喉に詰まっての窒息によるもので45歳という短命だった。風邪で体調が悪かったところに、ウィスキーの牛乳割りを呷り、更に暖房をつけたまま薬を飲んで就寝してしまったのが原因といわれる。前日は九州で、その日は北海道でのステージの予定だった。あまりの突然の死に、チエミの親友だった「三人娘」の美空ひばりと雪村いづみ、他清川虹子中村メイコらもショックを隠しきれずに号泣、チエミの通夜の席でも深い悲しみに暮れていた。

偶然ではあるが、チエミが葬儀のため柩によって実家の玄関を出た日は、奇しくも最期まで愛してやまなかった高倉健との結婚で、花嫁衣装を着て実家の玄関を出た日と同じであった。その高倉はチエミの葬儀の日、葬儀会場の前で車を停め手を合わせていたという。

また、死は本来なら朝のワイドショーなどで大々的に報道されるべきものであったが、そのほんの数日前にホテルニュージャパンの大火災と日本航空機羽田沖墜落事故という大事故が連日にわたり発生していたため、朝のワイドショーでニュージャパン火災と日航機墜落事故で特別報道態勢を敷き大わらわだった各テレビ局はさらに大混乱に陥り、彼女の死は予想以上に小さな扱いになってしまった。そのため、これらの事故の余韻が褪めた後に追悼番組などが組まれ、マスコミでも大々的に取り上げられることになった。

波乱万丈の人生

チエミの実母と幼くして生き別れになり、名古屋で家庭をもって暮らしていた異父姉のY子は、ある日「テネシーワルツでスターになった歌手、江利チエミ」が自分の妹であることを知った。(母のプロフィール:谷崎歳子の名でそれを知る。)

彼女は経済的に困窮している、家庭がうまくいっていないと虚実を語り、家政婦・付き人といった形で江利チエミ一家に入り込む。身の回りの世話を手伝いながら徐々に信頼を得てゆき、最終的にはチエミの実印を預かるまでになった。ここからY子の捻じ曲がった感情によるいわれのない「江利チエミへの復讐」が始まる。

Y子は高倉、チエミにはそれぞれの「誹謗中傷」を吹き込み、離婚への足がかりを作ることとなる。また実印を使ってチエミ名義の銀行預金を使い込み、あげくは高利に借金をし、不動産までも抵当に入れた。事件発覚後も容疑を否定し、チエミへの誹謗中傷を週刊誌で行い、挙句は失踪、自殺未遂まで行う。チエミは自己破産をせず責任は自分でとると決意、断腸の思いで義姉を告訴。義姉には実刑判決が下る。不遇の境遇の自分と「大スターの妹」との差に嫉妬した計画的な犯行であった。

2億とも4億ともいわれた動産の被害、不動産担保を、チエミは一人で完済した。

デビュー直前の母の死、3人の兄もチエミ存命中に2人が亡くなり、高倉健氏との間に授かった子供も流産、また可愛がっていた甥の電車事故死、そして離婚と家庭運に恵まれなかった部分も多かった。更に1968年にはポリープによる声帯の手術、また1970年には自宅を全焼、1972年(昭和47年)にはハイジャック事件にも遭遇...と栄光の陰になぜか「不幸」がつきまとう波乱の生涯であった。

代表曲

etc

ジャズ・ポップスを皮切りに、東京キューバン・ボーイズとのコラボによる「チエミの民謡」、ミュージカル、そしてオリジナルもポップス系から演歌と幅広い楽曲をこなすレパートリーの広さも特長だった。またNHK紅白歌合戦でも、数回民謡を披露している(八木節ソーラン節など)。

主な出演作品

映画

ほか多数。

ドラマ

その他の番組

声の出演

ロレッタ・リン(本人役で出演)の声でゲスト出演。

再評価

CDアルバム

江利チエミ(歌)/土岐麻子(選曲) 2006年(平成18年)発売 20曲収録

江利チエミ役を演じた女優

江利チエミ - さのさ (Youtube)

先代
森光子
第14回第15回
NHK紅白歌合戦
紅組司会
1963,1964
次代
林美智子