「ニュッサのグレゴリオス」の版間の差分
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'''ニュッサのグレゴリオス'''([[335年]]頃 - [[394年]]以降)は[[4世紀]]の[[キリスト教]][[神学者]]、[[聖職者]]である。[[正教会]]・[[非カルケドン派]]・[[カトリック教会]]・[[聖公会]]・[[ルーテル教会]]で聖人。[[372年]]より[[ニュッサ]]の[[主教]]を勤めたためこのように呼ぶ。日本正教会での表記は'''ニッサの聖グレゴリイ'''。カッパドキア三[[教父]]のひとり。ギリシアでとくに尊崇され、「神父のなかの神父」との異名がある。 |
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[[カッパドキア州]][[カイサレア]]のキリスト教家庭に生まれた。兄に[[カイサリアのバシレイオス]]、姉にマクリナ(ともに聖人)がいる。[[ナジアンゾスのグレゴリオス]]とは友人であった。司祭となったグレゴリオスを妻テオズワ(フェオズワ)はよく補佐し、慈善活動に勤め、女輔祭と呼ばれた。妻の死後、グレゴリオスはニュッサの主教に選出された。 |
[[カッパドキア州]][[カイサレア]]のキリスト教家庭に生まれた。兄に[[カイサリアのバシレイオス]]、姉にマクリナ(ともに聖人)がいる。[[ナジアンゾスのグレゴリオス]]とは友人であった。司祭となったグレゴリオスを妻テオズワ(フェオズワ)はよく補佐し、慈善活動に勤め、女輔祭と呼ばれた。妻の死後、グレゴリオスはニュッサの主教に選出された。 |
2009年6月2日 (火) 15:03時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/c/c1/Gregorius_von_Nyssa.jpeg/200px-Gregorius_von_Nyssa.jpeg)
ニュッサのグレゴリオス(335年頃 - 394年以降)は4世紀のキリスト教神学者、聖職者である。正教会・非カルケドン派・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会で聖人。372年よりニュッサの主教を勤めたためこのように呼ぶ。日本正教会での表記はニッサの聖グレゴリイ。カッパドキア三教父のひとり。ギリシアでとくに尊崇され、「神父のなかの神父」との異名がある。
カッパドキア州カイサレアのキリスト教家庭に生まれた。兄にカイサリアのバシレイオス、姉にマクリナ(ともに聖人)がいる。ナジアンゾスのグレゴリオスとは友人であった。司祭となったグレゴリオスを妻テオズワ(フェオズワ)はよく補佐し、慈善活動に勤め、女輔祭と呼ばれた。妻の死後、グレゴリオスはニュッサの主教に選出された。
第1回コンスタンティノポリス公会議(第二全地公会)でアリウス派を反駁した。この反駁を通じ三位一体論の確立に貢献した。また神の無限性(三位格の個の無限な交互浸透)についての神学を確立した。
書簡、マクリナ伝(姉マクリナの伝記)などの著作が残っている。
正教会での記憶日はユリウス暦1月12日(グレゴリオ暦1月25日)。 Template:Link FA