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「永井尚服」の版間の差分

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'''永井 尚服'''('''ながい なおこと'''、[[1833年]]([[天保]]4年)-[[1885年]]([[明治]]18年)[[6月11日]])は、[[美濃]][[加納藩]]の第6代(最後)の藩主。[[陸奥]][[福島藩]]主・[[板倉勝顕]]の弟。正室は[[永井尚典]]の三女。鋭子。官位は正五位。肥前守。伊豆守。
'''永井 尚服'''('''ながい なおこと'''、[[1833年]]([[天保]]4年)-[[1885年]]([[明治]]18年)[[6月11日]])は、[[美濃]][[加納藩]]の第6代(最後)の藩主。[[陸奥]][[福島藩]]主・[[板倉勝顕]]の弟。正室は[[永井尚典]]の三女。鋭子。官位は正五位。肥前守。伊豆守。


1833年12月生まれ。[[1852年]]7月、尚典の養嗣子となる。[[1862年]]10月17日、養父から家督を譲られて藩主となった。その後は講武所奉行、[[寺社奉行]]と[[奏者番]]を兼任し、[[1867年]]には[[若年寄]]と会計奉行を兼任する。しかし同年に[[大政奉還]]が起こると、若年寄を辞職して帰国し、[[戊辰戦争]]では新政府側に与した。[[1869年]]の[[版籍奉還]]で加納藩知事となり、[[廃藩置県]]後は[[子爵]]に列せられ、正五位を与えられた。1885年6月11日、53歳で死去した。法号は正厳院殿正五位子爵尚服日皓大居士。
1833年12月生まれ。[[1852年]]7月、尚典の養嗣子となる。[[1862年]]10月17日、養父から家督を譲られて藩主となった。その後は[[講武所]]奉行、[[寺社奉行]]と[[奏者番]]を兼任し、[[1867年]]には[[若年寄]]と会計奉行を兼任する。しかし同年に[[大政奉還]]が起こると、若年寄を辞職して帰国し、[[戊辰戦争]]では新政府側に与した。[[1869年]]の[[版籍奉還]]で加納藩知事となり、[[廃藩置県]]後は[[子爵]]に列せられ、正五位を与えられた。1885年6月11日、53歳で死去した。法号は正厳院殿正五位子爵尚服日皓大居士。


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2005年8月2日 (火) 20:07時点における版

永井 尚服ながい なおこと1833年天保4年)-1885年明治18年)6月11日)は、美濃加納藩の第6代(最後)の藩主。陸奥福島藩主・板倉勝顕の弟。正室は永井尚典の三女。鋭子。官位は正五位。肥前守。伊豆守。

1833年12月生まれ。1852年7月、尚典の養嗣子となる。1862年10月17日、養父から家督を譲られて藩主となった。その後は講武所奉行、寺社奉行奏者番を兼任し、1867年には若年寄と会計奉行を兼任する。しかし同年に大政奉還が起こると、若年寄を辞職して帰国し、戊辰戦争では新政府側に与した。1869年版籍奉還で加納藩知事となり、廃藩置県後は子爵に列せられ、正五位を与えられた。1885年6月11日、53歳で死去した。法号は正厳院殿正五位子爵尚服日皓大居士。