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以後、[[1918年]]8月、[[第12師団 (日本軍)|第12師団]]副官として[[シベリア出兵]]に参加。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]員(支那課)、[[関東軍]]司令部付、[[浦塩派遣軍]][[参謀]]、[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]司令部付([[ウラジオストク]]駐在)、朝鮮軍参謀、欧州出張、[[陸軍省]]新聞班、関東軍参謀、[[陸軍技術本部]]付、[[近衛歩兵第2連隊]]付、大阪[[連隊区]][[司令官]]、独立歩兵第12連隊長、[[支那駐屯軍]]司令部付(北平[[特務機関]]長)、[[北支那方面軍]]司令部付、関東軍司令部付([[張家口]]特務機関長)などを歴任し、[[1937年]]11月、陸軍[[少将]]に進級。
以後、[[1918年]]8月、[[第12師団 (日本軍)|第12師団]]副官として[[シベリア出兵]]に参加。[[参謀本部 (日本)|参謀本部]]員(支那課)、[[関東軍]]司令部付、[[浦塩派遣軍]][[参謀]]、[[朝鮮軍 (日本軍)|朝鮮軍]]司令部付([[ウラジオストク]]駐在)、朝鮮軍参謀、欧州出張、[[陸軍省]]新聞班、関東軍参謀、[[陸軍技術本部]]付、[[近衛歩兵第2連隊]]付、大阪[[連隊区]][[司令官]]、独立歩兵第12連隊長、[[支那駐屯軍]]司令部付(北平[[特務機関]]長)、[[北支那方面軍]]司令部付、関東軍司令部付([[張家口]]特務機関長)などを歴任し、[[1937年]]11月、陸軍[[少将]]に進級。


[[駐蒙兵団]]司令部付、近衛歩兵第1[[旅団]]長、関東軍司令部付([[満州国軍]]最高軍事顧問)などを経て、[[1940年]]8月、陸軍中将となった。同年10月、[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]長に親補され、北部[[仏印進駐]]を担当。[[太平洋戦争]]では南方に派遣され、[[マレー作戦]]・[[シンガポールの戦い|シンガポール攻略]]に従軍した。さらに、[[支那派遣軍]]総司令部付([[汪兆銘政権|汪政府]]最高軍事顧問)、支那派遣軍総参謀長、[[第13軍 (日本軍)|第13軍]]司令官を勤め、[[上海市|上海]]で終戦を迎えた。[[1946年]]7月、復員。
[[駐蒙兵団]]司令部付、近衛歩兵第1[[旅団]]長、関東軍司令部付([[満州国軍]]最高[[軍事顧問]])などを経て、[[1940年]]8月、陸軍中将となった。同年10月、[[第5師団 (日本軍)|第5師団]]長に親補され、北部[[仏印進駐]]を担当。[[太平洋戦争]]では南方に派遣され、[[マレー作戦]]・[[シンガポールの戦い|シンガポール攻略]]に従軍した。さらに、[[支那派遣軍]]総司令部付([[汪兆銘政権|汪政府]]最高軍事顧問)、支那派遣軍総参謀長、[[第13軍 (日本軍)|第13軍]]司令官を勤め、[[上海市|上海]]で終戦を迎えた。[[1946年]]7月、復員。


==家族==
==家族==

2009年7月20日 (月) 03:34時点における版

松井 太久郎(まつい たくろう、1887年12月3日 - 1969年6月10日)は、日本陸軍軍人。最終階級は陸軍中将

経歴

福岡県出身。農業・松井勘太郎の三男として生れる。東筑中学校を経て、1910年5月、陸軍士官学校(22期)を卒業し、同年12月、歩兵少尉に任官、歩兵第14連隊付となる。1917年11月、陸軍大学校(29期)を卒業。

以後、1918年8月、第12師団副官としてシベリア出兵に参加。参謀本部員(支那課)、関東軍司令部付、浦塩派遣軍参謀朝鮮軍司令部付(ウラジオストク駐在)、朝鮮軍参謀、欧州出張、陸軍省新聞班、関東軍参謀、陸軍技術本部付、近衛歩兵第2連隊付、大阪連隊区司令官、独立歩兵第12連隊長、支那駐屯軍司令部付(北平特務機関長)、北支那方面軍司令部付、関東軍司令部付(張家口特務機関長)などを歴任し、1937年11月、陸軍少将に進級。

駐蒙兵団司令部付、近衛歩兵第1旅団長、関東軍司令部付(満州国軍最高軍事顧問)などを経て、1940年8月、陸軍中将となった。同年10月、第5師団長に親補され、北部仏印進駐を担当。太平洋戦争では南方に派遣され、マレー作戦シンガポール攻略に従軍した。さらに、支那派遣軍総司令部付(汪政府最高軍事顧問)、支那派遣軍総参謀長、第13軍司令官を勤め、上海で終戦を迎えた。1946年7月、復員。

家族

  • 妻 松井幸子 高橋直武(陸軍少将)の娘