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現役中、受けて立つ万全の四つ相撲を得意とした。いわゆる「横綱相撲」なのであるが、細かい技を組み合わせて相撲を取っているために見た目決めてかかる技がない事や、当時は千代の富士の先に勝負を仕掛ける攻撃相撲のために既に横綱像も本質的に変化していた事などが相まって、存在感はあってもずば抜けた力強さや威圧感はないと評された事もあった。場所の序盤から中盤で優勝争いのトップに立てば独走する一方、[[千秋楽]]までもつれたときや[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]での敗退の多さが、「ここ一番での勝負弱さ」を印象付けることにもなった。このため「並の名横綱」との評価もある。22回もの優勝を果たしながら期待ほどの優勝回数ではなかったとも評されるのは、若手の頃の期待感の大きさを表すものでもある。
現役中、受けて立つ万全の四つ相撲を得意とした。いわゆる「横綱相撲」なのであるが、細かい技を組み合わせて相撲を取っているために見た目決めてかかる技がない事や、当時は千代の富士の先に勝負を仕掛ける攻撃相撲のために既に横綱像も本質的に変化していた事などが相まって、存在感はあってもずば抜けた力強さや威圧感はないと評された事もあった。場所の序盤から中盤で優勝争いのトップに立てば独走する一方、[[千秋楽]]までもつれたときや[[優勝決定戦 (相撲)|優勝決定戦]]での敗退の多さが、「ここ一番での勝負弱さ」を印象付けることにもなった。このため「並の名横綱」との評価もある。22回もの優勝を果たしながら期待ほどの優勝回数ではなかったとも評されるのは、若手の頃の期待感の大きさを表すものでもある。


これらの批判に対し「基本に忠実であることが貴乃花の得意」「貴乃花は得意のないのが得意」という評価もあった。全盛時の相手に得意の技を全く出させず着実な寄り身で完封してしまう取り口は、まさに貴乃花の相撲の真骨頂であった。また、貴乃花の時代には同時期に多くの外国人力士の強力なライバルが存在したため、それまでの横綱たちと同列に評価することが不可能であることも事実である。時代の変わり目の中で、日本人力士・日本人横綱としてのプライドを唯一保ち得た稀代の横綱とも言える。実際、彼が引退してから、2009年夏場所まで日本人横綱は誕生していない。また、何かとドラマチックな取り組みも多く、十代で横綱千代の富士破ったことや、ライバル曙との名勝負、兄若乃花との兄弟での優勝決定戦、右膝半月板を損傷しながら土壇場で逆転優勝するなど、優勝回数だけでははかりえない横綱であったいえる。
これらの批判に対し「基本に忠実であることが貴乃花の得意」「貴乃花は得意のないのが得意」という評価もあった。全盛時の相手に得意の技を全く出させず着実な寄り身で完封してしまう取り口は、まさに貴乃花の相撲の真骨頂であった。また、貴乃花の時代には同時期に多くの外国人力士の強力なライバルが存在したため、それまでの横綱たちと同列に評価することが不可能であることも事実である。時代の変わり目の中で、日本人力士・日本人横綱としてのプライドを唯一保ち得た稀代の横綱とも言える。実際、彼が引退してから、2009年夏場所まで日本人横綱は誕生していない。また、何かとドラマチックな取り組みも多く、十代で横綱千代の富士破ったことや、ライバル曙との名勝負、兄若乃花との兄弟での優勝決定戦、右膝半月板を損傷しながら土壇場で優勝するなど、優勝回数だけでははかりえない横綱であったいえる。


しかしながら、同時代のライバル曙と比べ豪快さに欠けるとの評を気にして、伯父の初代若乃花の必殺技だった「[[呼び戻し]]」を試みるなど、完成間近だった相撲を自らおかしくしてしまう時期もあった。また、若貴ブームの雑音の異常な大きさは本人たちにとっては時に耐え難いものであったかもしれないが、他者の評価に真摯な性格が相撲の取り口に悪く反映してしまい、みすみす負けを呼んでしまっているように見える場合も多々あった。千代の富士を倒した場所でその後なかなか白星を上げられなかったり、婚約場所になった[[1992年]]11月場所で序盤に4連敗してしまった例などは、雑音に負けてしまった例と言えよう。一時期、[[マスコミュニケーション|マスコミ]]人を一様に無視する態度から相撲記者や[[カメラマン]]との間で深刻な対立を招いたこともあった。師匠[[二子山 (相撲)|二子山]]や兄弟子の[[安芸乃島勝巳|安芸乃島]]らの仲裁・助言もあって、こうした面は徐々に緩和された。
しかしながら、同時代のライバル曙と比べ豪快さに欠けるとの評を気にして、伯父の初代若乃花の必殺技だった「[[呼び戻し]]」を試みるなど、完成間近だった相撲を自らおかしくしてしまう時期もあった。また、若貴ブームの雑音の異常な大きさは本人たちにとっては時に耐え難いものであったかもしれないが、他者の評価に真摯な性格が相撲の取り口に悪く反映してしまい、みすみす負けを呼んでしまっているように見える場合も多々あった。千代の富士を倒した場所でその後なかなか白星を上げられなかったり、婚約場所になった[[1992年]]11月場所で序盤に4連敗してしまった例などは、雑音に負けてしまった例と言えよう。一時期、[[マスコミュニケーション|マスコミ]]人を一様に無視する態度から相撲記者や[[カメラマン]]との間で深刻な対立を招いたこともあった。師匠[[二子山 (相撲)|二子山]]や兄弟子の[[安芸乃島勝巳|安芸乃島]]らの仲裁・助言もあって、こうした面は徐々に緩和された。

2009年7月23日 (木) 06:33時点における版

貴乃花 光司
基礎情報
四股名 貴乃花 光司
本名 花田 光司
愛称 コウジ
生年月日 (1972-08-12) 1972年8月12日(52歳)
出身 東京都中野区
身長 185cm
体重 154kg(現役時代の公表値、現在は85kg)
所属部屋 藤島部屋→二子山部屋
得意技 右四つ、左四つ、寄り、上手投げ
成績
現在の番付 引退
最高位 第65代横綱
生涯戦歴 794勝262敗201休(90場所)
幕内戦歴 701勝217敗201休(75場所)
優勝 幕内優勝22回
幕下優勝2回
殊勲賞4回、敢闘賞2回、技能賞3回
データ
初土俵 1988年3月場所
入幕 1990年5月場所
引退 2003年1月場所
備考
金星1個(千代の富士
2008年7月10日現在
貴乃花親方(2005年春場所)

貴乃花 光司(たかのはな こうじ、本名:花田 光司(はなだ こうじ)、1972年(昭和47年)8月12日 - )は大相撲の第65代横綱。血液型はО型。

現在は、一代年寄貴乃花 光司として貴乃花部屋二所ノ関一門)の師匠および、日本相撲協会の役員待遇委員・巡業部副部長を務めている。

人物

父は元大関貴ノ花利彰、母は女優藤田憲子。兄はタレント花田勝(元第66代横綱・若乃花)。妻は元フジテレビアナウンサーでタレントの河野景子初代若乃花(第45代横綱)は伯父(父の兄)。二代目若乃花(第56代横綱)はかつて義理のいとこ(伯父の娘婿)だった。

少年相撲-中学相撲

当人や周囲の回想によれば、相撲に身を入れ始めたのは、父の現役引退が契機だったという。

父をしたって部屋によく遊びにきていた鎌苅忠茂少年(のち入門して四股名貴闘力)には、兄の勝ともどもかわいがられ、部屋の稽古場で相撲を取ることもあった。

小学5年生の時、わんぱく相撲の全国大会に優勝、わんぱく横綱として土俵入りを行っている。これを入れるならば、蔵前国技館新両国国技館の両方で横綱土俵入りを行ったひとりということになる。

明大中野中に進学。同相撲部で受けた廻しの切り方などの技術面の指導は、のちの躍進に大きく寄与したとされている。

相撲人として

入門当時からその優れた素質が話題となり、前評判に違わず数々の最年少記録を打ち立てた。新弟子検査時には「これは新弟子の体じゃない、今すぐ幕下でも通用する」と新弟子検査担当の親方たちから驚嘆されるほど既に体作りの基礎ができていた。新十両に昇進した当時も出世に髪の伸びる早さが追いつかず大銀杏が結えず、ちょんまげ姿で土俵に上がった。1991年には、わずか19歳ながら、当時の横綱千代の富士をやぶり、引導を渡したことで一気に注目を浴びることとなった。

兄若乃花とともに「若貴ブーム」を起こし、ライバルらと数々の名勝負を演じた。

優勝22回は単独5位の記録であり、平成の大横綱と称されている。

現役中、受けて立つ万全の四つ相撲を得意とした。いわゆる「横綱相撲」なのであるが、細かい技を組み合わせて相撲を取っているために見た目決めてかかる技がない事や、当時は千代の富士の先に勝負を仕掛ける攻撃相撲のために既に横綱像も本質的に変化していた事などが相まって、存在感はあってもずば抜けた力強さや威圧感はないと評された事もあった。場所の序盤から中盤で優勝争いのトップに立てば独走する一方、千秋楽までもつれたときや優勝決定戦での敗退の多さが、「ここ一番での勝負弱さ」を印象付けることにもなった。このため「並の名横綱」との評価もある。22回もの優勝を果たしながら期待ほどの優勝回数ではなかったとも評されるのは、若手の頃の期待感の大きさを表すものでもある。

これらの批判に対し「基本に忠実であることが貴乃花の得意」「貴乃花は得意のないのが得意」という評価もあった。全盛時の相手に得意の技を全く出させず着実な寄り身で完封してしまう取り口は、まさに貴乃花の相撲の真骨頂であった。また、貴乃花の時代には同時期に多くの外国人力士の強力なライバルが存在したため、それまでの横綱たちと同列に評価することが不可能であることも事実である。時代の変わり目の中で、日本人力士・日本人横綱としてのプライドを唯一保ち得た稀代の横綱とも言える。実際、彼が引退してから、2009年夏場所まで日本人横綱は誕生していない。また、何かとドラマチックな取り組みも多く、十代で横綱千代の富士破ったことや、ライバル曙との名勝負、兄若乃花との兄弟での優勝決定戦、右膝半月板を損傷しながら土壇場で優勝するなど、優勝回数だけでははかりえない横綱であったといえる。

しかしながら、同時代のライバル曙と比べ豪快さに欠けるとの評を気にして、伯父の初代若乃花の必殺技だった「呼び戻し」を試みるなど、完成間近だった相撲を自らおかしくしてしまう時期もあった。また、若貴ブームの雑音の異常な大きさは本人たちにとっては時に耐え難いものであったかもしれないが、他者の評価に真摯な性格が相撲の取り口に悪く反映してしまい、みすみす負けを呼んでしまっているように見える場合も多々あった。千代の富士を倒した場所でその後なかなか白星を上げられなかったり、婚約場所になった1992年11月場所で序盤に4連敗してしまった例などは、雑音に負けてしまった例と言えよう。一時期、マスコミ人を一様に無視する態度から相撲記者やカメラマンとの間で深刻な対立を招いたこともあった。師匠二子山や兄弟子の安芸乃島らの仲裁・助言もあって、こうした面は徐々に緩和された。

横綱時代

1994年11月場所後に横綱昇進が決定。11月23日に行われた伝達式で「謹んでお受けします。今後も不撓不屈の精神で力士として相撲道に不惜身命を貫く所存でございます」と使者に答えた。横綱として最初の2年近く(1995年1月場所~1996年9月場所)は他を寄せ付けない圧倒的な強さで、11場所中8場所も制覇した。1995年11月場所は兄・若乃花と優勝決定戦での兄弟対決となったが結果的には下手投げで敗れ、若乃花の優勝となった。1996年は年明けから3場所連続14勝。3月場所から9月場所では自身初の4連覇達成。9月場所は4度目の全勝優勝。当時24歳という年齢で優勝15回という実績や貴乃花のほとんど隙のない取り口から考えると、大鵬や千代の富士の優勝回数を抜くのは時間の問題であるとさえ言われていた。

不振

しかし1996年11月場所に、背筋の肉離れと急性腸炎で休場したことを境に、相撲に陰りが見え始める。休場の間に上体だけが肥えてしまい、1997年以降は体をのしかけて潰す相撲に変貌。更に強引にねじ伏せたり浴びせ倒したりする等、明らかに相撲が強引になり、好角家からも批判されるようになる。大型力士に対抗するために自らの判断で体重を増やしたが、あまり上手くいかなかった(兄の花田勝は洗脳騒動で話題になった整体師に過食を勧められたからであると自身の著書で述べた。だが、貴乃花自身は2005年に「大変お世話になった人。洗脳騒動は母と兄によって捏造されたものだ」と否定している。話題となった整体師は何も語っていない)。

それまではかなり熱心で体の毛も生えない程だった稽古も、準備運動は入念にするものの実戦的な稽古量が激減するという事態に陥ってしまった。1997年は過去の稽古の貯金もあって3度優勝して横綱の面目は十分に保てたが、1998年以降はその貯金も底を付いた状態となった。1998年1月場所終盤、原因不明の発熱と湿疹で途中休場、翌場所も序盤から崩れて肝機能障害により休場に追い込まれた。7月場所と9月場所は連覇して優勝回数を20回の大台に乗せたが、その後は怪我や病気に苦しみ、2年以上優勝から遠ざかる事になった。

特に1999年は年明けから大崩れ。1月場所は序盤から崩れて盛り返すことなく8勝7敗。3月場所は10日目の相撲で左肩を骨折して途中休場。5月場所は全休、復帰した7月場所は序盤は好調だったものの、中日の出島との取り組みで左手薬指を脱臼し、その影響で終盤崩れて9勝。9月場所は怪我が治らないのに何故か出てきて一つも勝てずに3日目から休場。再起を賭けた11月場所も初日に敗戦して最後を思わせるほどになってしまった。しかしこの場所は中盤から持ち直して、千秋楽まで優勝争いをして望みを繋いだ。

またこの頃から稽古量が上向きになり、2000年は12勝、11勝、13勝と復活間近を思わせた。7月場所に上腕二頭筋を断裂してまたもや途中休場、翌9月場所を全休してしまうが、休場明けの11月場所に11勝で繋ぎ不振脱出の兆しを見せた。

復活

2001年1月場所は初日から14連勝したが、千秋楽で横綱武蔵丸に敗れて14勝1敗。武蔵丸と同点となり優勝決定戦に廻るも、その一番では武蔵丸に雪辱勝利を果たし、14場所ぶり21度目の復活優勝を遂げた。一度変貌した相撲内容は更に変貌し、嘗ての自在の内容に代わり、完全に腰を固め、充分に捕まえて逡巡せず勝負に出るようになって新生貴乃花を印象付けた。安定感はやや低下したものの、力強さは逆に最盛期以上とも思える相撲振りを印象付けた。

2001年5月場所は初日から13連勝して向かう所敵なしの強さだった。しかし14日目の武双山戦で、土俵際で巻き落としを喰らって右膝半月板を損傷する大けがを追った。もはや立つことも困難なほどの重傷であり、本来休場するべきところであった。二子山親方ら関係者も休場するよう貴乃花に勧めたが、幕内優勝が掛かっていたため、周囲の休場勧告を振り切り、翌日の千秋楽は無理矢理強行出場した。しかし本割りの仕切り最中にすら右膝を引き摺るような仕草があり、勝負にならないのは明らかであった。予想通り千秋楽結びの一番の武蔵丸戦では、自ら負けるような内容で全く相撲にならず、武蔵丸と相星となった。

続く優勝決定戦は誰もが武蔵丸の勝利を確信せざるを得なかったが、大方の予想を覆し、武蔵丸を豪快な上手投げで破った。勝利を決めた直後の鬼の形相と奇跡的な優勝は多くのファンを驚愕させ、当時の首相であった小泉純一郎は表彰式で「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!」と貴乃花を賞賛した。

一方で武蔵丸は周囲から「弱い」と言われ、武蔵川親方にも怒られることになったという。この事は後に休場明けの貴乃花に勝利し優勝した際のインタビューで明らかにされている。

長期休場、そして引退へ

相撲史に残る大一番を制した貴乃花であったが、間もなくその代償は予想以上に大きい事が判明し、逆に大きな禍根を残す事にもなった。貴乃花は2001年7月場所から1年以上休場し、大けがをした右膝をフランス手術を受けて再起を目指した。世間も最初は「休場してゆっくり治せば良い」と温かい目で見ていたが、休場が1年近くになった頃から、場所毎に貴乃花に対する風当たりは強くなり、横綱審議委員会も苦言を呈するようになった。

2002年9月場所、万全の状態では無かったものの横審委員会からの勧告も有って、遂に8場所ぶりの出場に踏み切った。場所途中での引退さえ囁かれたが、中盤から終盤にかけて星を伸ばし千秋楽に武蔵丸と横綱同士の相星決戦にまで持ち込み、敗れはしたものの12勝を上げての準優勝を果たした。他の幕内力士との実力の違いを見せつけたが、場所終盤には再び膝の状態が悪化し、翌11月場所はまた休場することとなる。

そして、貴乃花自身最後の場所となった2003年1月場所、初日の若の里には小手投げで勝つが、翌2日目の雅山戦では二丁投げを喰らって左肩を負傷、明らかに不利な体勢であったが取り直しとなり勝利したものの翌日から休場する。5日目に再出場して2連勝はしたものの、そして7日目は出島に一気に押し出され、8日目には初対戦の安美錦送り出しで敗れてしまった。

引退

2003年1月場所8日目の安美錦との一番を最後に、その翌日、ついに引退を発表した。引退会見で連発した「非常にすがすがしい気持ち」「心の底から納得しております」は、一時流行語にもなった。しかし右膝の大怪我が無ければ年齢的にももう2、3年は取れるのではないかと言われていただけに、30歳という早い引退は非常に惜しまれた。貴乃花が引退したことにより、これ以降番付から日本で生まれ育った横綱が姿を消してしまい、2009年夏場所終了現在もその状態が続いている。朝青龍に対しては2戦2勝で、負けることなく引退している。

なお、初土俵以来本場所ではガチンコ(真剣勝負の意)を貫いたと言われており、当時貴乃花は事あるごとに相撲とは「命懸け」なのだと発言していた。当時怪我だらけだったのも八百長と勘違いされるような相撲を取りたがらなかったためと言われている。

身長185cm、体重154kg(いずれも全盛時)。少年期~中学生時分にはいわゆる肥満児だったが、入門後一度ガリガリにやせた後で、その上に徐々に肉がついていくという、相撲取りとして理想的とされる成長の仕方をした。この太り方は学研の学習雑誌小学生の学習・科学にも写真が掲載され紹介された。特に初優勝から大関へ駆け上がる時期の変貌ぶりは鮮やかで、それゆえにドーピング疑惑まで取りざたされたほどだった。肩幅広く、鳩胸で太鼓腹、あと胴長短足なら力士の理想像そのものとまで言われたが、最後の点だけは当人もどうしようもなかった。又、横綱正装姿はとても絵になったが、いざ土俵入りとなると四股は美しかったが、肝心のせり上がりが低く、構え過ぎであると酷評され、あまりの酷さに当時の境川理事長が激怒した事もあった。この点、四股に注文がつけられたものの、せり上がりが評価されるようになった曙と好対照をなしている。

横綱曙とは数々の名勝負を演じた。幕内での対戦成績は21勝21敗、優勝決定戦まで含めた本場所中の対戦成績は25勝25敗と、全くの五分である。

右四つ、寄りを得意としていたが、時に左四つの相撲や突き押しも見せるなど、取り口は多彩。横綱昇進後は、安定感のある下半身で相手を受け止める、いわゆる「横綱相撲」を得意とした。東京場所で強かったが特に9月場所(秋場所)とは相性が良く、通算で6回優勝、1994年から1998年まで5連覇、3年連続全勝、48連勝などを記録した。

親方、そして現在

土俵下で取組を見る貴乃花親方(右端)。2005年5月場所。

引退後は、父親の代から引き継いだ貴乃花部屋の親方になったが、2005年5月30日の父の死に際して兄との確執が噴出し、マスコミを介して大騒動に発展した。また同時に日本相撲協会の体質を批判したため、同年7月場所中に相撲協会から厳重注意を受けてしまった。

現役引退後には葉巻を吸い始めたが、1日も早く関取誕生を願うという意味で、2006年4月から止めているという。また近年は膝への負担を減らすため、体重を80kg台と大幅に減量している(本人談によると現在は85kg)。最近は夫婦でバラエティ番組に出演する機会が増えているが、出演すると大抵の場合最初に体重のことに触れられている。現役時代は何を訊いても殆ど答えないという相撲記者泣かせであったが、最近は番組内でよく喋る姿が映し出され、現役時代とは反対にメディアとのコミュニケーションは取れている。

『就職場所』と言われるほど新弟子採用の多い春場所であるにもかかわらず、2006年3月場所の貴乃花部屋入門者は0人、という事態が発生した。また、年を追うごとに在籍力士数が減少し、関取および幕下力士も2008年3月場所終了時点でまだ1人も存在していない。三段目序二段には力士が相当数存在しているが、まだ関取に昇進する気配がない。このような危機的状況の背景には若い世代の相撲離れがあり、多かれ少なかれどの部屋も抱えている問題でもある。2007年7月場所では相撲界全体で新弟子検査の受検者が0人であった。

決して日本国外出身者やアマチュア相撲の実績者など、即席の関取づくりに走らない指導方針は、一定の評価も得ている。現役中から児童むけの相撲道場を主宰するなど、かつての自分がそうだった様な根っからの相撲っ子を育てることを心懸けており、その中から力士を育成していきたいという広大な長期的展望の持ち主でもある。ただ、こういう理想論に傾き過ぎる部屋の運営方針に、旧二子山部屋時代からの後援会などと軋轢を起こすことも多々ある。

2008年2月4日、日本相撲協会の役員人事で、35歳の若さで審判部副部長に抜擢され、将来の理事長候補として新たな一歩を踏み出すこととなった。同時に役員待遇に昇格している。

2005年7月場所以来、貴乃花部屋には入門者がいない状態が続いていたが、2008年2月20日、4年ぶりに新弟子(貴天秀哉太、元時津風部屋力士の息子)が入門。同年3月場所、初土俵を踏み、新序三番出世披露を果たした。

略歴

  • 1972年 8月12日、東京都杉並区で大関(当時関脇)貴ノ花の花田満、元女優の藤田憲子(2001年離婚)の次男として誕生。
    誕生時の体重は4300g。
  • 1979年 杉並区立松ノ木小学校に入学。
  • 1982年 東京都中野区藤島部屋土俵開き。光司も一家とともに、部屋のある中野区に本籍を移転(現在の本籍も中野区にある)。
  • 同年6月、わんぱく相撲東京場所に出場、4年生の部で優勝。
  • 1985年 明治大学付属中野中学校に進学。同校の相撲部に入部し、中学3年間で40勝1敗の成績を残す。
  • 1988年 兄勝(元横綱若乃花、現タレント花田勝)とともに、藤島部屋に入門。同年3月場所に初土俵。四股名は貴花田光司(たかはなだ・こうじ)。ほかに同期の力士は曙太郎魁皇博之などがおり「花の六三組」と言われた。
  • 1989年 11月場所に十両昇進。
  • 1990年 3月場所に幕内昇進。
  • 1992年 1月場所で初優勝
    • 宮沢りえ女優)との婚約を発表し、当時国民的な人気を誇っていた2人の若者同士の交際が大きな話題となる。
  • 1993年
    • 1月場所後に大関昇進。四股名を貴ノ花と改名。増位山太志郎に次ぐ親子大関となる。
      同日、宮沢との婚約解消を公表。この時相手を悪く言うことをせず「(彼女への)愛情がなくなりました」とだけ言って泥をかぶった姿は感心もされたが、多くの女性と宮沢ファンを敵に回した。宮沢と最後に会った時に言われた言葉は「強い横綱になってください」だったという。
    • 5月場所を14勝1敗で優勝。これは宮沢との破局がなければ、「挙式直前場所」になっていたはずの場所である。
    • 7月場所でも曙、若乃花と同点優勝だったが優勝決定戦で曙に負け、横綱昇進を見送られる。
    • 9月場所では曙に優勝を許し、最年少での横綱昇進を逃す。しかしながら、曙の全勝優勝を千秋楽で阻止した一番は名勝負として語り継がれる。
    • 11月場所でも成績次第では横綱昇進と噂されていたが7勝8敗と負け越してしまい、翌年1月場所を史上最年少のカド番大関として臨むこととなる。
  • 1994年 カド番大関の1月場所で14勝1敗と優勝で復活。以降、大関ながら、5月場所、9月場所と1場所おきに優勝を果たして行く。
    • 特に9月場所は初の全勝優勝を達成。それに加え、年6場所中、既に3場所制覇という快挙を受け、横審で横綱昇進が議論されたが、7月場所の成績が11勝4敗と芳しくなかったため見送られる。
    • 四股名を貴ノ花から貴乃花と改名して臨んだ11月場所千秋楽で、横綱を下し、2場所連続全勝優勝。横綱昇進を確実とする(この貴乃花 - 曙戦は平成の名勝負とされている)。
  • 1995年 1月場所に新横綱として登場。
  • 同年5月、元フジテレビアナウンサー河野景子と結婚。
  • 1998年 9月場所に20回目の優勝。このころ、整体師による洗脳騒動などで父の二子山親方、兄の横綱若乃花らと不和。特に兄とは絶縁まで宣言した。
  • 1999年 9月に兄と一旦和解。
  • 2001年 5月場所14日目の大関武双山戦で右膝の半月板を損傷。出場が危ぶまれた千秋楽に強行出場。本割りでは横綱武蔵丸に突き落としで不甲斐なく負け、優勝決定戦。優勝決定戦では横綱武蔵丸を上手投げで豪快に下し、通算22回目の優勝を果たす。観戦に訪れていた首相小泉純一郎は、表彰式で内閣総理大臣杯を直接手渡し、「痛みに耐えてよく頑張った!感動した!おめでとう!」と祝福。しかしながら、右膝の故障は見た目以上に重症で、この後7場所連続全休で治療に努めたものの十分に回復せず、結果的にこの優勝が貴乃花最後の優勝となった。
  • 2002年 9月場所、8場所ぶりに出場。進退をかけて臨んだこの場所で、6日目からの9連勝を含む12勝をあげ、最後まで横綱武蔵丸と優勝争いを繰り広げたが、千秋楽相星決戦を寄り切りで敗れ優勝を逃す。
  • 2003年 1月場所8日目限りで現役を引退。日本相撲協会は、相撲界の隆盛に格別の功績があったとして、一代年寄貴乃花を贈呈し、功労金1億3000万円を支給した。同年3月、年寄名跡・山響株を取得(名乗りは一代年寄・貴乃花のまま)。同年6月1日に断髪式を行う。
  • 2004年 6月1日に正式に二子山部屋を継承。名前も貴乃花部屋に変更され、同日、1500人を招待して創設パーティーが行われた。
  • その後、元横綱の肉体があばら骨が浮き出るほどの激やせダイエットぶりが注目された。胃袋が一般人より大きくなり、食事量を減らすのは至難のわざと言われる引退後の相撲取りの中では極めて異例なやせ方であった。彼の並々ならぬ精神力が伺える。
  • 2005年5月30日、父・二子山親方が口腔底癌のため死去。
  • 同年7月7日、兄・勝の遺産相続放棄の宣言により、父の遺産は次男である本人が受け継ぐことになっている。その理由は、いまだに明らかではない。
  • 同年7月18日、民放のテレビ番組などで日本相撲協会の運営を批判するかのような発言をしたとして協会から厳重注意を受ける。
  • 2006年5月25日 両国国技館で行われた師匠会に出席。
  • 2006年5月28日 故二子山親方の一周忌法要が東京都杉並区の天桂寺で行われるため列席し、営まれた後、墓前で相撲協会錬成歌を若手力士らと共に歌った。
  • 2006年5月30日 命日の30日に旧二子山部屋に縁のある元力士らを集めて千代田区のホテルで、しのぶ会を開く。
  • 2006年12月26日 年寄名跡・二子山株の名義書き換えが認められ、正式所有する(山響株は一門外の元幕内巌雄の小野川親方へ売却)。
  • 2008年2月4日 日本相撲協会の役員待遇委員・審判部副部長に就任。
  • 2009年2月2日 日本相撲協会の役員待遇委員・巡業部副部長・警備本部副部長に異動。

幕内での場所別成績

貴乃花光司
一月場所
初場所(東京
三月場所
春場所(大阪
五月場所
夏場所(東京)
七月場所
名古屋場所(愛知
九月場所
秋場所(東京)
十一月場所
九州場所(福岡
1990年
(平成2年)
x x 東前頭14枚目
4–11 
(十両) (十両) 西前頭12枚目
8–7 
1991年
(平成3年)
西前頭9枚目
6–9 
東前頭13枚目
12–3
西前頭筆頭
9–6[1]
西小結
11–4
西関脇
7–8 
東前頭筆頭
7–8 
1992年
(平成4年)
東前頭2枚目
14–1
西関脇
5–10 
西前頭2枚目
9–6 
東張出小結
8–7 
西小結
14–1
西関脇
10–5 
1993年
(平成5年)
東関脇
11–4 
東大関
11–4 
東大関
14–1 
東大関
13–2[2] 
東大関
12–3 
東大関
7–8 
1994年
(平成6年)
西大関
14–1[3] 
東大関
11–4 
西大関
14–1 
東大関
11–4 
西大関2
15–0 
東大関
15–0 
1995年
(平成7年)
東横綱
13–2[4] 
東横綱
13–2 
西横綱
14–1 
東横綱
13–2 
東横綱
15–0 
東横綱
12–3[5] 
1996年
(平成8年)
東横綱
14–1[6] 
東横綱
14–1 
東横綱
14–1 
東横綱
13–2 
東横綱
15–0 

休場
0–0–15
1997年
(平成9年)
西横綱
13–2 
東横綱
12–3[7] 
東横綱
13–2[8] 
東横綱
13–2 
東横綱
13–2[4] 
東横綱
14–1[6] 
1998年
(平成10年)
東横綱
8–5–2[9] 
西横綱
1–4–10[9] 
西横綱
10–5 
西横綱
14–1 
東横綱
13–2 
東横綱
12–3 
1999年
(平成11年)
東横綱
8–7 
西横綱
8–3–4[9] 

休場
0–0–15
西横綱2
9–6 
東横綱2
0–3–12[9] 
西横綱2
11–4 
2000年
(平成12年)
西横綱
12–3 
東横綱
11–4 
西横綱
13–2 
西横綱
5–3–7[9] 

休場
0–0–15
東横綱2
11–4 
2001年
(平成13年)
東横綱2
14–1[4] 
東横綱
12–3 
東横綱
13–2[4] 

休場
0–0–15

休場
0–0–15

休場
0–0–15
2002年
(平成14年)

休場
0–0–15

休場
0–0–15

休場
0–0–15

休場
0–0–15
西横綱
12–3 

休場
0–0–15
2003年
(平成15年)
西横綱
引退
4–4–7[10]
x x x x x
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。    優勝 引退 休場 十両 幕下
三賞=敢闘賞、=殊勲賞、=技能賞     その他:=金星
番付階級幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口
幕内序列横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列)

成績

  • 通算成績:794勝262敗201休 勝率.752
  • 幕内成績:701勝217敗201休 勝率.764
  • 横綱成績:429勝99敗201休 勝率.813
  • 優勝:22回(うち優勝決定戦を経ての優勝5回。出場10回は歴代1位)
  • 連勝:30(1994年9月場所初日~1994年11月場所千秋楽)
  • 三賞:殊勲賞4回、敢闘賞2回、技能賞3回
  • 金星:1個(千代の富士
  • 幕内在位:75場所
  • 横綱在位:49場所
  • 年間最多勝:1992年(60勝30敗)、1994年、1995年(共に80勝10敗)、1996年(70勝5敗15休)、1997年(78勝12敗)
  • 大関以下での優勝回数:7回(明治以降では史上1位)

最年少記録

  • 幕下優勝:16歳9ヶ月(1989年5月場所)  
  • 十両昇進:17歳2ヶ月(1989年11月場所)  
  • 幕内昇進:17歳8ヶ月(1990年3月場所)  
  • 三賞:18歳7ヶ月(1991年3月場所)  
  • 金星:18歳9ヶ月(1991年5月場所)
  • 小結昇進:18歳11ヶ月(1991年7月場所) 
  • 関脇昇進:19歳1ヶ月(1991年9月場所)  
  • 幕内最高優勝:19歳5ヶ月(1992年1月場所)  
  • 年間最多勝:20歳3ヶ月(1992年11月場所)
  • 大関昇進:20歳5ヶ月(1993年3月場所)
  • カド番大関:21歳5ヶ月(1994年1月場所)
  • 幕内全勝優勝:22歳1ヶ月(1994年9月場所)

主な力士との幕内対戦成績

力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数 力士名 勝数 負数
蒼樹山 9 2 21 21  朝青龍 2 0
朝乃若 9 0 旭富士 1 2 旭豊 11 2
安美錦 0 1 大乃国 0 1 小城錦 12 2
小城ノ花 9 0 魁皇 27 12 北勝鬨 14 0
霧島 9 5 旭鷲山 11 0 旭天鵬 2 2
旭道山 14 4 久島海 8 7 剣晃 16 2
琴稲妻 9 2 琴ヶ梅 2 1 琴錦 34 14
琴ノ若 34 5 琴富士 8 4 琴別府 8 1
琴光喜 4 0 琴龍 4 2 小錦 15 7
逆鉾 4 1 敷島 2 2 大至 5 0
太寿山 2 0 大翔鳳 11 2 大翔山 4 4
大善 9 0 隆乃若 6 0 高見盛 1 0
隆三杉 8 0 玉春日 18 4 玉乃島 1 0
千代大海 9 6 千代天山 2 0 千代の富士 1 0
出島 13 4 寺尾 22 6 闘牙 9 0
時津海 1 0 土佐ノ海 21 7 栃東 16 5
栃栄 2 0 栃乃洋 12 2 栃乃花 2 0
栃乃和歌 22 9 智ノ花 8 1 濱ノ嶋 9 1
追風海 3 0 肥後ノ海 15 1 北勝海 1 1
舞の海 10 1 三杉里 5 7 水戸泉 13 5
湊富士 9 2 雅山 11 0 武蔵丸 29 19
武双山 26 11 若の里 9 0 和歌乃山 6 0

太字は2009年1月場所現在、現役力士。)

家系図

       ┌─────┐
       ○   ○
       │   │
       ○   ○
       │  ┌─┴─┐
      男┬女 吉崎  武ノ里
   ┌─────┼───┬───────┐
  貴ノ花 若緑  女─大豪 若乃花(初代)
 ┌─┴────┐         │
貴乃花 若乃花(3代)   女─若乃花(2代)
              (離婚)

脚注

  1. ^ 千代の富士戦で金星。
  2. ^ 若ノ花(のち3代・若乃花)と優勝決定戦
  3. ^ 大関角番
  4. ^ a b c d 武蔵丸と優勝決定戦
  5. ^ 3代・若乃花と優勝決定戦
  6. ^ a b 貴ノ浪と優勝決定戦
  7. ^ 曙・武蔵丸・魁皇と優勝決定戦
  8. ^ 曙と優勝決定戦
  9. ^ a b c d e 途中休場
  10. ^ 3日目と4日目を休場、5日目から再出場、9日目に引退。

関連項目

外部リンク

先代
曙太郎
大関
(在位:1993年3月-1994年11月)
次代
若乃花勝
先代
曙太郎
第65代横綱
(在位:1995年1月 - 2003年1月)
次代
若乃花勝

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