「菅野村強盗殺人・放火事件」の版間の差分
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YHは戦後日本初の[[女性死刑囚]]であった。死刑確定後、YHは死刑を覚悟して、俳句を詠んだりするなど模範囚として過ごしていたが、1953年から顕著な異常言動が出てきたことから、一時死刑停止となった([[刑事訴訟法]]第479条第1項)。 |
YHは戦後日本初の[[女性死刑囚]]であった。死刑確定後、YHは死刑を覚悟して、俳句を詠んだりするなど模範囚として過ごしていたが、1953年から顕著な異常言動が出てきたことから、一時死刑停止となった([[刑事訴訟法]]第479条第1項)。 |
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[[法務省]]はYHの特別恩赦の検討開始。遺族の許しを得ようと打診するものの、遺族は頑なに拒否。1960年代後半になっても遺族の拒否は変わらなかった。1969年、当時の法務大臣である[[西郷吉之助]]が、前年に廃案となった |
[[法務省]]はYHの特別恩赦の検討開始。遺族の許しを得ようと打診するものの、遺族は頑なに拒否。1960年代後半になっても遺族の拒否は変わらなかった。1969年、当時の法務大臣である[[西郷吉之助]]が、前年に廃案となった[[再審特例法案]]の代わりとして、[[連合国軍最高司令官総司令部|GHQ]]占領下で起訴された死刑確定事件6件7名に対して恩赦を約束。1969年9月1日、YHは恩赦第一号として[[無期懲役]]となり、[[八王子医療刑務所]]に移送。1972年に[[和歌山刑務所]]に移送されたが結核となり、刑の執行停止で奈良県の療養所に収容後、1978年3月4日に病死。享年63。 |
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== 関連項目 == |
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*[[再審特例法案]] |
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1969年に西郷吉之助が恩赦を約束した他の事件 |
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*[[帝銀事件]] |
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*[[免田事件]] |
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*[[財田川事件]] |
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*[[福岡事件]] |
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*[[市川賭博仲間殺人事件]] |
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== 関連書籍 == |
== 関連書籍 == |
2009年8月6日 (木) 10:11時点における版
菅野強盗殺人・放火事件(すがのむらごうとうさつじん・ほうかじけん)とは、1949年(昭和24年)兵庫県飾磨郡菅野村(現在は夢前町を経て姫路市夢前町)で起こった強盗殺人および放火事件。犯人YHは戦後初の女性死刑確定者(後年、恩赦により無期懲役となった)。
事件
1949年6月10日、菅野村の主婦YH(当時34歳)が借金を断られ、侮辱的な言葉を浴びせられた腹いせに、老夫婦K宅に強盗目的で侵入。Kの妻を鎌で殺害後、現金1万8千円を奪い、遺体に火をつけ放火して逃走。Kは救助されたが、数日後に病死。YHは奪った金で借金を返済していたが、Kの妻が生前、お札に番号を書いていたことから犯行が発覚。同月15日にYH逮捕。
YHは看護師として勤務していたが、結婚を機に離職。7人の子供を育てていたが、婿養子である夫は病弱で怠け者で、YHは常に金策に苦しみ、老夫婦Kをはじめ数軒の家から借金をしていた。老夫婦Kに借りた金を返せないまま、次の借金に頼みに行き、Kの妻から風俗に行けと言われ激怒したYHは強盗を決意。
死刑判決から無期懲役へ
YHは戦後日本初の女性死刑囚であった。死刑確定後、YHは死刑を覚悟して、俳句を詠んだりするなど模範囚として過ごしていたが、1953年から顕著な異常言動が出てきたことから、一時死刑停止となった(刑事訴訟法第479条第1項)。
法務省はYHの特別恩赦の検討開始。遺族の許しを得ようと打診するものの、遺族は頑なに拒否。1960年代後半になっても遺族の拒否は変わらなかった。1969年、当時の法務大臣である西郷吉之助が、前年に廃案となった再審特例法案の代わりとして、GHQ占領下で起訴された死刑確定事件6件7名に対して恩赦を約束。1969年9月1日、YHは恩赦第一号として無期懲役となり、八王子医療刑務所に移送。1972年に和歌山刑務所に移送されたが結核となり、刑の執行停止で奈良県の療養所に収容後、1978年3月4日に病死。享年63。
関連項目
関連書籍
- 村野薫『戦後死刑囚列伝』 洋泉社 1995年