「ヌマ・ポンピリウス」の版間の差分
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[[Image:Numa Pompilius.jpg|thumb|right|ヌマ・ポンピリウスの横顔のイメージ。[[アウグストゥス]]皇帝時代のローマコインに彫られたもの。]] |
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'''ヌマ・ポンピリウス'''('''Numa Pompilius''' [[紀元前750年]] - [[紀元前673年]])は、[[王政ローマ]]における2代 |
'''ヌマ・ポンピリウス'''('''Numa Pompilius''', [[紀元前750年]] - [[紀元前673年]])は、[[王政ローマ]]における第2代の[[王]]。この時代のローマは史料に乏しく、一般的には[[伝説]]上の存在だと考えられている人物である。戦争に次ぐ戦争でローマを拡大した初代王[[ロームルス|ロムルス]]とは異なり、43年におよぶ治世中に一度も戦争をせずに内政を充実させたとされている。 |
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== 生涯 == |
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ヌマは[[哲学]]と[[瞑想]]を好み、[[ピタゴラス]]学説の思索にあまりに没頭したために、年若くして白髪になったと言われている。ヌマはサビニ人の王である[[ティトゥス・タティウス]]の娘を娶って王の義理の息子となったが、権力を望まず森の中にある小さな村で妻と質素で幸福な生活を送っていた。 |
ヌマは[[哲学]]と[[瞑想]]を好み、[[ピタゴラス]]学説の思索にあまりに没頭したために、年若くして白髪になったと言われている。ヌマはサビニ人の王である[[ティトゥス・タティウス]]の娘を娶って王の義理の息子となったが、権力を望まず森の中にある小さな村で妻と質素で幸福な生活を送っていた。 |
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だが紀元前716年にローマで王ロムルスが亡くなると、その人格を評価されてローマ2代 |
だが紀元前716年にローマで王ロムルスが亡くなると、その人格を評価されてローマ第2代の王として指名される。ヌマは要請を何度も断ったが、鳥占いをしたところ[[ユーピテル]]、[[マルス (ローマ神話)|マルス]]、[[クゥイリーヌス]]の三神が同意したという結果が出たので、王位に就くことを決断した。彼の妻は若くして亡くなっていたが、その後[[ニンフ]]のエゲリア(ギリシア神話の[[カリオペー]]と同一であるとも)と恋におちて結婚し、政治の助言を貰うためにたびたび[[パラティーノ|パラティヌスの丘]]の南にあるエゲリアの泉で逢瀬を重ねていたと人々は噂した。 |
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ヌマ即位の頃はローマは近隣都市からは盗賊の集団と大差ないと見なされていたが、彼の治世により法と慣習を祭祀を確立した文化都市へと成長した。ヌマは紀元前673年に天寿をまっとうして死んだが、彼の1人の娘と4人の息子たちはいずれも名門一族の創始者となり、カプリニア氏族や[[アエミリウス氏族]]もここから発した。また死後千年が経過した時代においても、ローマを訪れた人は[[クィリナスの丘]]に残るヌマの家を案内されたという。 |
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== 業績 == |
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当時の[[ローマ暦]]は |
当時の[[ローマ暦]]は1年が10ヶ月の不正確なものであったが、ヌマはこれに2ヶ月を追加してより正確な暦とした。またローマ内部にあった部族同士のいさかいをなくすために、農民達を「パギ」と呼ばれるさらに小さな集団に分割した。そして商業や手工業に携わる人々は職能別の組織に分割し、それらの共同体を部族よりも重要視させることによって部族対立を消滅させた。そのほか、戦争を抑えるために宣戦布告の権限を「伝令僧」と呼ばれる祭祀職のみに許すようにした。伝令僧は戦争が起こりそうになると対立相手に補償条件を伝え、その回答に満足いかなかったときのみ宣戦布告が行われた。 |
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ヌマの業績の中でもっとも有名なものは、ヤヌス神殿の建立である。これは始まりと終わりの神[[ヤヌス]]に捧げられたもので、この神殿の扉は戦争のときは開かれ、平和なときは閉じられるとされた。扉はヌマの治世中は一度も開かれることがなかったが、彼の死後はずっと開いたままとなり、ローマが帝政となるまでの間に閉じられたのは[[ポエニ戦争]]後の6年間だけであった。 |
ヌマの業績の中でもっとも有名なものは、ヤヌス神殿の建立である。これは始まりと終わりの神[[ヤヌス]]に捧げられたもので、この神殿の扉は戦争のときは開かれ、平和なときは閉じられるとされた。扉はヌマの治世中は一度も開かれることがなかったが、彼の死後はずっと開いたままとなり、ローマが[[ローマ帝国|帝政]]となるまでの間に閉じられたのは[[ポエニ戦争]]後の6年間だけであった。 |
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*フィリップ・マティザック 『古代ローマ歴代誌 |
*フィリップ・マティザック 『古代ローマ歴代誌 7人の王と共和政期の指導者たち』 東眞理子訳、創元社、2004年 |
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*グスターフ・シャルク 『ローマ建国の英雄たち |
*グスターフ・シャルク 『ローマ建国の英雄たち 神話から歴史へ』 角信雄・長谷川洋訳、白水社、1997年 |
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2009年8月10日 (月) 14:34時点における版
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/d/d9/Numa_Pompilius.jpg/220px-Numa_Pompilius.jpg)
ヌマ・ポンピリウス(Numa Pompilius, 紀元前750年 - 紀元前673年)は、王政ローマにおける第2代の王。この時代のローマは史料に乏しく、一般的には伝説上の存在だと考えられている人物である。戦争に次ぐ戦争でローマを拡大した初代王ロムルスとは異なり、43年におよぶ治世中に一度も戦争をせずに内政を充実させたとされている。
生涯
ヌマは哲学と瞑想を好み、ピタゴラス学説の思索にあまりに没頭したために、年若くして白髪になったと言われている。ヌマはサビニ人の王であるティトゥス・タティウスの娘を娶って王の義理の息子となったが、権力を望まず森の中にある小さな村で妻と質素で幸福な生活を送っていた。
だが紀元前716年にローマで王ロムルスが亡くなると、その人格を評価されてローマ第2代の王として指名される。ヌマは要請を何度も断ったが、鳥占いをしたところユーピテル、マルス、クゥイリーヌスの三神が同意したという結果が出たので、王位に就くことを決断した。彼の妻は若くして亡くなっていたが、その後ニンフのエゲリア(ギリシア神話のカリオペーと同一であるとも)と恋におちて結婚し、政治の助言を貰うためにたびたびパラティヌスの丘の南にあるエゲリアの泉で逢瀬を重ねていたと人々は噂した。
ヌマ即位の頃はローマは近隣都市からは盗賊の集団と大差ないと見なされていたが、彼の治世により法と慣習を祭祀を確立した文化都市へと成長した。ヌマは紀元前673年に天寿をまっとうして死んだが、彼の1人の娘と4人の息子たちはいずれも名門一族の創始者となり、カプリニア氏族やアエミリウス氏族もここから発した。また死後千年が経過した時代においても、ローマを訪れた人はクィリナスの丘に残るヌマの家を案内されたという。
業績
当時のローマ暦は1年が10ヶ月の不正確なものであったが、ヌマはこれに2ヶ月を追加してより正確な暦とした。またローマ内部にあった部族同士のいさかいをなくすために、農民達を「パギ」と呼ばれるさらに小さな集団に分割した。そして商業や手工業に携わる人々は職能別の組織に分割し、それらの共同体を部族よりも重要視させることによって部族対立を消滅させた。そのほか、戦争を抑えるために宣戦布告の権限を「伝令僧」と呼ばれる祭祀職のみに許すようにした。伝令僧は戦争が起こりそうになると対立相手に補償条件を伝え、その回答に満足いかなかったときのみ宣戦布告が行われた。
ヌマの業績の中でもっとも有名なものは、ヤヌス神殿の建立である。これは始まりと終わりの神ヤヌスに捧げられたもので、この神殿の扉は戦争のときは開かれ、平和なときは閉じられるとされた。扉はヌマの治世中は一度も開かれることがなかったが、彼の死後はずっと開いたままとなり、ローマが帝政となるまでの間に閉じられたのはポエニ戦争後の6年間だけであった。
参考文献
- フィリップ・マティザック 『古代ローマ歴代誌 7人の王と共和政期の指導者たち』 東眞理子訳、創元社、2004年
- グスターフ・シャルク 『ローマ建国の英雄たち 神話から歴史へ』 角信雄・長谷川洋訳、白水社、1997年
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