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はじめ父の[[戸田忠次]]は[[徳川家康]]に[[三河一向一揆]]で叛いたが、後に次男の尊次と共に家康に帰参して、家臣として仕えることになる。尊次は[[天正]]12年([[1584年]])の[[小牧・長久手の戦い]]を皮切りとして[[慶長]]5年([[1600年]])の[[関ヶ原の戦い]]では[[丸岡城]](現在の[[福井県]][[坂井市]])攻略で功を立て、翌年にその功を賞されて[[三河国]][[田原城 (三河国)|田原]](現在の[[愛知県]][[田原市]])に1万石の所領を与えられた。慶長12年([[1607年]])、[[従五位|従五位下]]土佐守に叙任される。 |
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慶長19年([[1614年]])の[[大坂冬の陣]]では[[岡崎城]]の守備を務めた。翌年の夏の陣では[[徳川頼宣]]に属して参戦したが、その途上で病に倒れ、同年7月7日に[[京都]]にて51歳で病死した。後を長男の[[戸田忠能]]が継いでいる。五男の[[戸田忠次]]は旗本となり、その次男である[[戸田忠時]]は加増を受けて[[足利藩]]を立藩する。 |
2009年9月9日 (水) 12:14時点における版
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時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
生誕 | 永禄8年(1565年) |
死没 | 元和元年7月7日(1615年8月30日) |
別名 | 甚九郎、三郎右衛門 |
戒名 | 透関院殿決山全勝大居士 |
墓所 | 長興寺 |
官位 | 従五位下、土佐守 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家康 |
藩 | 田原藩藩主 |
氏族 | 田原戸田氏 |
父母 | 戸田忠次 |
妻 | 深溝松平伊忠娘 |
子 | 忠能、正次、生勝、忠次、忠高、娘(蒔田定正正室)、娘(水野忠保室)、娘(辻某室)、娘(滝川一乗室)、娘(戸田某室)ら |
戸田 尊次(とだ たかつぐ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。三河国田原藩初代藩主、および宇都宮藩戸田家初代となった。家系の詳細については戸田氏の項を参照。
生涯
はじめ父の戸田忠次は徳川家康に三河一向一揆で叛いたが、後に次男の尊次と共に家康に帰参して、家臣として仕えることになる。尊次は天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦いを皮切りとして慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは丸岡城(現在の福井県坂井市)攻略で功を立て、翌年にその功を賞されて三河国田原(現在の愛知県田原市)に1万石の所領を与えられた。慶長12年(1607年)、従五位下土佐守に叙任される。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では岡崎城の守備を務めた。翌年の夏の陣では徳川頼宣に属して参戦したが、その途上で病に倒れ、同年7月7日に京都にて51歳で病死した。後を長男の戸田忠能が継いでいる。五男の戸田忠次は旗本となり、その次男である戸田忠時は加増を受けて足利藩を立藩する。
栄誉・武勲戦功
- 栄誉 - 慶長12年 従五位下土佐守に叙任。
- 武勲
関連項目
関連人物
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