「稲葉紀通」の版間の差分
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2009年9月23日 (水) 04:06時点における版
稲葉 紀通(いなば のりみち、慶長8年(1603年)- 慶安元年8月20日(1648年10月6日))は、伊勢田丸藩の第2代藩主。摂津中島藩主。丹波福知山藩主。父は稲葉道通。祖父は稲葉一鉄の庶長子・稲葉重通。正室は松平忠明の娘。官位は従五位下。淡路守。
慶長12年(1607年)、父の死去により家督を継ぎ、田丸藩主となる。慶長19年(1614年)、大坂冬の陣で初陣した。元和2年(1616年)、摂津中島藩4万5700石へ移封される。寛永元年(1624年)には丹波福知山藩へ移封された。しかし福知山においては、領民に重税を強いて、しかもそれを反対する領民を多数捕らえては殺害するなどの悪政を敷いた。更に隣藩の丹後宮津藩主・京極高広と争いを起こしてしまう。これに加えて、かねて紀通の悪政によって殺された領民の遺族が「紀通に謀反の疑いがある」と幕府に訴え出る。幕府も紀通の悪政を見捨ててはおけず、近隣の諸藩に命じて紀通追討を命じた。しかしその直前の慶安元年(1648年)8月20日、紀通は福知山城中にて鉄砲自殺して果て、稲葉氏も改易となったのである。享年46。なお、嫡子大助は、8月25日に稲葉正則に預けられ、翌年3月6日紀通の謀反の企てはなかったとして許されたが、慶安4年(1651年)に疱瘡で4歳で没し、家名断絶となった。
法号:顕竜院殿胸雲詐晴大居士。墓所:京都市右京区花園妙心寺町の妙心寺塔頭雑華院。
関連項目
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