「フランシスコ・ザビエル」の版間の差分
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2009年10月20日 (火) 19:33時点における版
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フランシスコ・ザビエル(Francisco de Xavier または Francisco de Gassu y Javier, 1506年4月7日 - 1552年12月3日)は、スペイン生まれのカトリック教会の司祭、宣教師でイエズス会の創設メンバーの1人。ポルトガル王の依頼でインドのゴアに派遣され,その後1549年に日本に初めてキリスト教を伝えたことで特に有名である。また、日本やインドなどで宣教を行い、聖パウロを超えるほど多くの人々をキリスト教信仰に導いたといわれている。カトリック教会の聖人で、記念日は12月3日。
名前について
ザビエルはバスク語で「新しい家」の意味であるEtxebarria(家 (etxe) + 新しい (barria))のイベロ・ロマンス風訛りで、彼の生家である城(ナバラ王国・現ナバラ州、バスク語ではナファロア王国)の名でもあった。ChavierやXabierreなどとも綴られることもあるが、Xavierはポルトガル語で発音はシャヴィエル。当時のカスティーリャ語でも同じ綴りで発音はシャビエルであったと推定される[1][2]。 現代スペイン語ではハビエル Javier。ただし、彼はバスク語及びナバラ語のバイリンガルだったと推定される。
かつて日本のカトリック教会では慣用的に「ザベリオ」(イタリア語読みから。サヴェーリョがより近い)という呼び名を用いていた(例:下記「聖ザベリョ宣教会」、「ザベリョ学院」)。その他日本では「サビエル」も用いられる(例:下記「山口サビエル記念聖堂」)[3]。
生涯
青年期まで
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/1/1e/Castillo_javier.jpg/250px-Castillo_javier.jpg)
1506年4月7日生まれのザビエルは、現在のスペインのナバラ地方、パンプローナに近いザビエル城で地方貴族の家に育った。彼は5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子で、父はドン・フアン・デ・ヤス、母はドーニャ・マリア・デ・アスピルクエタという名前であった。父はナバラ王フアン3世(フランス貴族アルブレ家の出である)の信頼厚い家臣として宰相を務め、フランシスコが誕生した頃、すでに60歳を過ぎていた。ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャ=アラゴン)の紛争地になり、1515年についにスペインに併合される。父フアンはこの激動の中で世を去った。その後、ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。
1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルバラ学院に入り、そこで自由学芸を修め、哲学を学んでいるときに同室になったのがフランス出身の若きピエール・ファーヴルであった。そこに同じバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。イニゴはパンプローナの戦いで片足の自由を失い傷痍軍人として故郷のロヨラ城で療養の後、スペインのアルカラの大学を経てパリ大学モンテーギュ学院で学んでいた。1529年、ザビエルの母が死亡。その4年後、ガンディアの女子修道院長だった姉も亡くなる。この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていたが、イグナチオから強い影響を受け、聖職者を志すことになる。イグナチオの感化を受けた青年たちが集まり、1534年8月15日、イグナチオ、ザビエル、ファーブルとシモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの七人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立てた。これが「モンマルトルの誓い」である。一同は教皇パウルス3世の知遇を得て、叙階許可を与えられたので、1537年6月、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルもイグナチオらと共に司祭に叙階された。彼らはエルサレム巡礼の誓いを立てていたが、国際情勢の悪化で果たせなかった。
東洋への出発
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/5/58/GoaIndiaeOrientalisMetropolis.jpg/250px-GoaIndiaeOrientalisMetropolis.jpg)
当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。ザビエルはシモン・ロドリゲスと共にポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)と共に1541年4月にリスボンを出発した。8月にアフリカのモザンビークに到着、秋と冬を過して1542年2月に出発、5月6日ゴアに到着。そこを拠点にインド各地で宣教し、1545年9月マラッカに、さらに1546年1月にはモルッカに赴き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に導いた。マラッカに戻り、1547年12月に出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジローとも)という日本人であった。
日本へ
ザビエルは1548年11月ゴアで宣教監督となり、1549年4月15日、イエズス会員コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、およびゴアで洗礼を受けたヤジロウら3人の日本人と共にゴアを出発、日本を目指した。
中国のジャンク船に乗った一行は中国上川島を経て1549年8月15日(カトリックの聖母被昇天の祝日にあたる)に鹿児島(現在の鹿児島市祇園之洲)に上陸した。1549年9月には伊集院の一宇治城で薩摩の領主島津貴久に謁見し、宣教の許可を得た[4]。ザビエルは鹿児島で布教する日々の中で、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と宗教論争を行う事を好んだ。ここで後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどに出会った。
1550年8月に、かねてから都に上ることが目標であったザビエルの一行は、島津貴久のはからいで平戸へ向かうことができた。そこでも宣教活動を行っていたが、ザビエルは平戸の信徒の世話のためにトーレス神父を残して、鹿児島のベルナルド、フェルナンデス修道士と共に都を目指した。
京都から山口へ
1550年11月、山口に着いた一行は、なんとか領主の大内義隆に謁見できることになった。が、男色を罪とするキリスト教の教えに大内が激怒したために山口を離れ、岩国から海路堺へと赴いた。堺では幸運にも豪商の日比屋了珪の知遇を得ることができた。了珪の助けによって1551年1月、一行は念願の京に到着した。京都では了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。
ザビエルは京で「日本国王」に謁見し、布教の許可を得れば全国での布教が自由になると考えていたが、京は戦乱で荒れ果て、足利幕府の権威は失墜しており、後奈良天皇が居住する御所も荒れ放題であった。ザビエルは比叡山で僧侶たちと論戦をしてみたかったが、比叡山から拒絶された。天皇への拝謁も献上品がなければかなわないことを知ってあきらめたザビエルは、滞在わずか11日で失意のうちに京都を去ることになった。
1551年3月に平戸に戻ると、残していた贈り物用の品々を持って4月末山口へ向かい、再び大内義隆に拝謁した。それまでの経験で、貴人と会見する時はどこでも外見が重視されることを知っていたザビエルは一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。義隆は喜んで布教の許可を与え、ザビエルたちのために住居まで用意した。山口で布教しているとき、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く目の不自由な琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動し、ザビエルに従った。彼が後にイエズス会の強力な宣教師となるロレンソ了斎である。
再びインドへ・ザビエルの最期
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/e/ea/Casket_of_Saint_Francis_Xavier.jpg/200px-Casket_of_Saint_Francis_Xavier.jpg)
1551年9月、ポルトガル船が豊後に入港したという話を聞いて、ザビエルは豊後に向かった。同地で22歳の青年領主大友義鎮(後の大友宗麟)に謁見している。日本滞在も2年になり、ザビエルはインドからの情報がないのが気になっていたため、ここで一度インドに戻ることを決意し、11月15日トーレスらを残して出発、種子島、中国の上川島を経てインドに向かった。このとき、ザビエルは日本人青年4人を選んで同行させた。それが鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオの4人である。
1552年2月15日インドのゴアに到着。司祭の養成学校である聖パウロ学院にベルナルドとマテオを入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。
1552年4月、日本布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国にキリスト教を広めることが重要であると考えていたザビエルは、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣し、自分自身は中国入国を目指して9月に上川島に到着した(ここはポルトガル船の停泊地であった)。しかし中国への入国はできないまま、体力も衰えていたザビエルは精神的にも消耗し、病を得て12月3日([5])に上川島でこの世を去った。46歳であった。
遺骸は石灰をつめて納棺し海岸に埋葬した。1553年2月マラッカに移送。さらにゴアに移され、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許された。そのとき参観者の1人の婦人が右足の指2個を噛み切って逃走した。2個の足の指は、彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がザビエル城に移された。[6]遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されているが、右腕下膊は1614年ローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断され、ローマ・ジェズ教会に安置されている。なお、この右腕は1949年ザビエル来朝400年記念のおり日本へ運ばれ、腕型の箱に入れられたまま展示された。なお右腕上膊はマカオに、耳・毛はリスボンに、歯はポルトに,胸骨の一部は東京になどと分散して保存されている。
ザビエルは1619年10月25日教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日盟友イグナチオ・ロヨラと共に教皇グレゴリウス15世によって列聖された。ザビエルはカトリック教会によってオーストラリア、ボルネオ、中国、東インド諸島、ゴア、日本、ニュージーランドの守護聖人とされている。
ザビエルと日本人
ザビエルは日本人の資質を高く評価し、「今まで出会った異教徒の中でもっとも優れた国民」であるとみた。特に名誉心、貧困を恥としないことをほめ、優れたキリスト教徒になりうる資質が十分ある人々であるとみていた。これは当時のヨーロッパ人の日本観から考えると驚くべき高評価である。同時にザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた男色(同性愛)が日本において公然と行われていたことであった。
布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を「大日」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語をそのまま用いるようになった。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることになる。
ザビエルの名を戴くカトリック教会・団体
日本国内の教会
日本国内にはザビエルの名を冠する教会が35ある。そのうち、以下の教会にはザビエルの遺骨が安置されている。
- 山口サビエル記念聖堂[7]
- 鹿児島カテドラル ザビエル教会[8]
- 神田教会(東京)
また、東京カテドラル聖マリア大聖堂には、ザビエルの胸像型の聖遺物容器が展示されている。
日本国内の団体
日本国外の教会
- スペイン
- サン・フランシスコ・ハビエル教会(カセレス)(es:Iglesia_de_San_Francisco_Javier_(Cáceres))
- サン・フランシスコ・ハビエル教会(マドリード州ピント)(es:Iglesia de San Francisco Javier)
- フランス
- フィリピン
- 聖フランシスコ・ザビエル教会(バタンガス州Nasugbu)
- 中国
- 董家渡フランシスコ・ザビエル教会(上海市黄浦区)(zh:董家渡圣方济各沙勿略堂) - 文化大革命中に閉鎖、破損したが、2000年に修復が完了、再開した。
- アメリカ
- 聖フランシスコ・ザビエル教会(アイオワ州ダイアーズビル)(en:Basilica_of_St._Francis_Xavier)
- サン・ハビエル・デル・バック伝道所(アリゾナ州ツーソン近郊)(en:Mission San Xavier del Bac) - 1699年にキノ神父によって設立[11]。
ザビエルゆかりの聖堂(日本国外)
- ザビエル城付属聖堂(スペイン・ナバーラ州) - ザビエルの出身地。※「ザビエル」は彼以前からの地名(上記「人名について」参照)。
- ボン・ジェズ教会(インド・ゴア) - ザビエルの遺体が安置されている[12]。
- ジェズ教会(イタリア・ローマ) - ザビエルの遺体の一部が安置されている。
ザビエルの銅像・記念碑ゆかりのもの等
日本国内
※ザビエルの訪問順
鹿児島県
- ザビエル来鹿記念碑[13](鹿児島市) - 元は記念教会だったが太平洋戦争中に空襲で焼失。1949年、ザビエル来航400年を記念して教会の廃材を使用し設置。奥にはザビエルの胸像がある。市電「高見馬場」または「天文館通」電停下車。
- ザビエル上陸記念碑(鹿児島市) - ザビエル一行が薩摩国祇園之洲あたりに上陸したことを記念して、鹿児島市祇園之洲公園に1978年に設置。かつてこの公園(新祇園之洲)は浅瀬の干潟で1970年代の埋め立てによって作られた土地。実際の上陸地は旧祇園之洲よりもさらに内陸の、稲荷川河口付近であったと考えられる。市バス「祇園之洲公園」バス停下車。
- ザビエル会見記念碑(日置市) - 1949年、ザビエル来航400年を記念して、ザビエル一行が島津貴久に謁見したとされる伊集院一宇治城跡に設置。JR伊集院駅下車、または鹿児島市から車で約30分[14]。
長崎県
- ザビエル来航記念碑(平戸市大久保町「崎方公園」内) - 1949年、ザビエル来日400年を記念して建立(ザビエルの平戸訪問は50年)。
- ザビエル記念像(平戸市鏡川町) - ザビエルの平戸来航を記念して、カトリック平戸教会(1931年建立)前に1971年建立。同教会が「聖フランシスコ・ザビエル記念教会」の通称で呼ばれるようになるのはこの記念像の建立以降であり、本来の名称は「大天使聖ミカエル」である。
- 日本二十六聖人記念館(長崎市) - 『ザヴィエル像』(フレスコ、1966年長谷川路可作)
山口県
- 聖サビエル記念公園(山口市) - 日本最初の教会跡地にある記念公園。サビエル記念碑も設置されている。また、毎年12月には日本のクリスマスは山口からフェスタが開催されている(1997年スタート)。JR上山口駅または日赤口バス停で下車。
- 「聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地」の碑 - (下関市)唐戸市場そばにある。1550年11月頃にザビエルが下関に上陸したことを記念している。
大阪府
大分県
- 聖フランシスコ・ザビエル像(大分市大手町) - ザビエルの来航を記念して遊歩公園内に建立。左手に十字架を持ち、右手を掲げたザビエルの像で、彫刻家佐藤忠良による1969年の作品である。背後には、世界地図のレリーフにザビエルのヨーロッパから日本にいたる航路を描きこんだモニュメントも設置されている。JR大分駅から徒歩約10分。
- 大分トラピスト修道院展示室(大分県日出町南畑) - 2008年イエズス会ローマ本部より聖フランシスコ・ザビエル右腕の小片(皮膚)が寄贈された。展示室内に常時顕示されている。
-
下関市の聖フランシスコ・ザビエル下関上陸の地碑
-
平戸市のザビエル来航記念碑(部分)
-
大分市の聖フランシスコ・ザビエル像
-
鹿児島市のザビエル来鹿記念碑
-
鹿児島市のザビエル上陸記念碑
日本国外
![](http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/thumb/f/ff/Charles_Bridge_St_Francis-Xavier.jpg/200px-Charles_Bridge_St_Francis-Xavier.jpg)
- 日本聖殉教者教会(チヴィタヴェッキア、イタリア) 『聖フランシスコ・ザビエル』(フレスコ天井画、1954年長谷川路可作)
- ウルバノ大学(ローマ) 『聖ザヴェリオ』(フレスコ、1956年長谷川路可作)
- セントポール教会跡(マラッカ、マレーシア) フランシスコ・ザビエル像が立つ
- フランシスコ・ザビエル教会(マラッカ、マレーシア) 1849年にフランシスコ・ザビエルの功績を讃えて建てられたカトリック教会。
ザビエルの名を冠した商品等
- 菓子業界(とくに九州)で、南蛮菓子をイメージして開発された菓子の商品名にザビエルの名が用いられる例がある。
- サビエルカンパーナ 山口県山口市に本社を置く外食産業チェーン。社名は本社近くにある山口サビエル記念聖堂に由来。「カンパーナ」(西:campana)は「鐘」の意。
その他
- ザビエルの兄ミゲルの子孫であるルイス・フォンテスは、日本に帰化して泉類治と名乗って神父として活動をしている。ルイスが日本でキリスト教徒でなくても教会で結婚式をあげられるように広めたとされている。
- 肖像画ではザビエルはトンスラであるが、実はザビエルの死後70年~80年くらいに日本人が本人を見ないで描いたもので、ザビエルの会派(イエズス会)にはトンスラの慣習がなかったので、トンスラではない説のほうが有力とされている。
参考文献
一次史料
- ザビエル自身による、またはザビエル存命中~死去直後の記録
- 村上直次郎訳、柳谷武夫編『イエズス会士日本通信』(上)雄松堂(新異国叢書)、1968年。
- シュールハンマー、ヴィッキ編、河野純徳訳『聖フランシスコ・ザビエル全書簡』平凡社、1985年。※1994年に同社の「東洋文庫」に所収(全4巻)。
- 松田毅一監訳『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第1巻(1549年-1561年)同朋舎、1997年。
- その他の記録
研究文献
- 吉田小五郎『聖フランシスコ・シャヰ゛エル小傳』大岡山書店、1932年。
- 岸野久『西洋人の日本発見 ザビエル来日前日本情報の研究』吉川弘文館、1989年。
- 津山千恵『フランシスコ・ザビエル 神をめぐる文化の衝突』三一書房、1993年。
- 尾原悟『ザビエル(Century Books ― 人と思想)』 清水書院、1998年。 ISBN 438941156X
- ピーター・ミルワード、松本たま訳『ザビエルの見た日本』講談社、1998年。
- 岸野久『ザビエルと日本 キリシタン開教期の研究』吉川弘文館、1998年。
- ザビエル渡来450周年記念委員会編『「東洋の使徒」ザビエル』(Ⅰ、Ⅱ)上智大学、1999年。
- ザビエル生誕500年記念シンポジウム委員会編『ザビエルの拓いた道 日本発見、司祭育成、そして魂の救い』南方新社、2008年。
- 鬼塚英昭 「天皇のロザリオ 皇室に封印された聖書」成甲書房 2006年
脚注
- ^ 神戸市立博物館藏のザビエル肖像(冒頭画像参照)には、「さんふらぬしすこさべりうすさからめんと(聖フランシスコ・ザビエルの秘蹟)」と書かれている。名はロマンス語読みに近いが、姓はラテン語読みに近い。[1]
- ^ 新井白石の『西洋紀聞』には、「むかし豊後国に、鬼怪ある家あり。ポルトガル人の来れるを、かしこに按置す。ポルトガル人、其壁上にクルスをかきしに、そのゝちは彼怪やみぬ。国司此事をきゝて、不思議の事におもへり。一年を経し後に、フランシスコシヤヒヱル来たりしかば、国司やがて、其法をうけしといふ。そのフランシスコシヤヒヱルといふは、ポルトカルの語也。ラテンの語に、フランシスクスサベィリウスといふ、これ也。」とある。新井白石著、宮崎道生校訂『西洋紀聞』(新訂版)平凡社(東洋文庫)、1968年、72頁。
- ^ 過去の標記としては他に「ザビエー」等がある。例:幸田成友著『聖フランシスコ・ザビエー小傳』(1941年刊)
- ^ ザビエルが島津貴久に謁見した場所は、宣教師の記録では「鹿児島から5、6レグアの地」とのみ述べられ、地名は明記されていない。一宇治城であったという説が有力だが、他に清水城(霧島市国分)という説もある。[2]
- ^ 聖フランシスコ・ザビエルを守護聖人としている広島学院中学・高等学校は12月3日としている http://www.catholicschools.jp/schools/schools_data/schools_data_06ha/schools_hiroshima_gakuin.htm
- ^ 司馬遼太郎、『街道をゆく 南蛮のみち』~ザビエルの右手~など参照
- ^ 山口サビエル記念聖堂 山口カトリック教会
- ^ 鹿児島カテドラル・ザビエル教会
- ^ 郡山ザベリオ学園
- ^ 会津若松ザベリオ学園
- ^ San Xavier del Bac Mission
- ^ ゴアの聖堂と修道院 (日本語)
- ^ 碑文の「鹿」は「麑」。
- ^ 史跡.net-日置市伊集院町
- ^ ザビエルの誉 お菓子の香梅
関連項目
- 日本キリスト教史
- 日本のキリシタン一覧
- 『大友宗麟-心の王国を求めて』(2004年、NHK、演:ラス・ブレザー)
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