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'''丹羽 長守'''(にわ ながもり [[1643年]]<ref>[[寛政重修諸家譜]]における享年から逆算。</ref> - [[1726年]]は、江戸時代の旗本。[[丹羽長吉]]の子。幼名吉松、通称権十郎、左近、五左衛門。官名は遠江守。妻は[[三宅重貞]]の娘。
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寛文十年([[1670年]])に将軍[[徳川家綱]]に拝謁し、2年後の寛文十二年、[[小姓組]]に入る。元禄元年、家督を継承し、[[使番]]、[[目付]]と累進、元禄五年には[[浅草寺]]普請の功績により[[時服]]一領、[[羽織]]一領、黄金二枚を賜った。

2009年11月22日 (日) 23:55時点における版

丹羽 長守(にわ ながもり 1643年寛永20年)[1] - 1726年享保11年)は、江戸時代の旗本。丹羽長吉の子。幼名吉松、通称権十郎、左近、五左衛門。官名は遠江守。妻は三宅重貞の娘。

寛文十年(1670年)に将軍徳川家綱に拝謁し、2年後の寛文十二年、小姓組に入る。元禄元年、家督を継承し、使番目付と累進、元禄五年には浅草寺普請の功績により時服一領、羽織一領、黄金二枚を賜った。

元禄八年には長崎奉行に就任、同十五年には町奉行に栄進し、正徳四年まで勤めた。奉行辞任後は寄合となり、享保十一年84歳で没。

脚注

  1. ^ 寛政重修諸家譜における享年から逆算。