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'''妖 伷'''(よう ちゅう、生年不詳 - [[242年]])は、[[蜀]]の[[政治家]]。[[字]]は'''子緒'''。[[益州]]巴西郡の人。 |
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[[建興 (蜀)|建興]]元年([[223年]])、広漢郡太守となった。[[張嶷]]伝には当時から名声高い人物だったとあり、張嶷と親しく交わっていた。 |
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任につくと文人武人双方の有益な人材を推挙した為、諸葛亮は賞賛して言った。「人材を推挙するほど忠義で利益になることはない、人材を推挙する場合、誰しも自分の好む分野にだけ熱心になるが、掾の妖伷は文武両面で使える人間を増やしてくれる。幅の広い正しい人物と言ってよい。願わくは、他の掾達もおのおのそのことを心がけ、期待にこたえてくれ」 |
任につくと文人武人双方の有益な人材を推挙した為、諸葛亮は賞賛して言った。「人材を推挙するほど忠義で利益になることはない、人材を推挙する場合、誰しも自分の好む分野にだけ熱心になるが、掾の妖伷は文武両面で使える人間を増やしてくれる。幅の広い正しい人物と言ってよい。願わくは、他の掾達もおのおのそのことを心がけ、期待にこたえてくれ」 |
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諸葛亮が死去してから、次第に昇進して[[尚書僕射]]となった。当時の人々は彼の誠実さと純粋さに信服していた。 |
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<span style="font-size:90%;">「[[三国志 (歴史書)|正史 三国志]] 5 蜀書」([[陳寿]] 著、[[裴松之]] 注、井波律子 訳)ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7</span> |
<span style="font-size:90%;">「[[三国志 (歴史書)|正史 三国志]] 5 蜀書」([[陳寿]] 著、[[裴松之]] 注、井波律子 訳)ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7</span> |
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2009年12月13日 (日) 02:56時点における版
妖 伷(よう ちゅう、生年不詳 - 242年)は、蜀の政治家。字は子緒。益州巴西郡の人。
概要
劉備が益州を平定した後、攻曹書佐に任命された。
建興元年(223年)、広漢郡太守となった。張嶷伝には当時から名声高い人物だったとあり、張嶷と親しく交わっていた。
建興5年(227年)、諸葛亮が北方漢中に駐屯した際、諸葛亮に召し寄せられ、丞相掾となった。
任につくと文人武人双方の有益な人材を推挙した為、諸葛亮は賞賛して言った。「人材を推挙するほど忠義で利益になることはない、人材を推挙する場合、誰しも自分の好む分野にだけ熱心になるが、掾の妖伷は文武両面で使える人間を増やしてくれる。幅の広い正しい人物と言ってよい。願わくは、他の掾達もおのおのそのことを心がけ、期待にこたえてくれ」 その後参軍に昇進した。
諸葛亮が死去してから、次第に昇進して尚書僕射となった。当時の人々は彼の誠実さと純粋さに信服していた。
延熙5年(242年)に死去した。
参考文献
「正史 三国志 5 蜀書」(陳寿 著、裴松之 注、井波律子 訳)ちくま学芸文庫 ISBN 4-480-08045-7